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『虐殺器官』の罪と罰

クラヴィス・シェパードが自らの罪を探し、罰を求める歩みをたどりながら、『虐殺器官』における主体性、自由意志、赦し、そして現代世界で罪の意識が成り立つ仕組みを論じる。

著者: 米岡翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

『虐殺器官』は、日本のSF作家・伊藤計劃(1974–2009)のデビュー作である。2006年、第7回小松左京賞の最終候補となり、2007年に刊行、2010年にはハヤカワ文庫から文庫版が刊行され、2017年に劇場版アニメ化された。本稿では、小説は台湾東販が2015年に刊行した中国語訳を、劇場版アニメは澄空華盟字幕組版を参照している。 伊藤計劃については、「Project Itoh」2015年劇場アニメ化公式サイトも参考になる。

私が口を閉ざし、罪を認めようとしなかったとき、日がな一日嘆き続け、心も体も疲れ果てました。あなたは昼も夜も私を戒め、私の力は尽きました。真夏に水が干上がるように。(セラ)私はあなたに自分の罪を認め、もう自分の悪を隠しませんでした。私は言いました。「主に自分の罪を告白しよう。」すると、あなたは私を赦してくださいました。(セラ)――旧約聖書・詩編32:3–5、CCB(中国語訳聖書)1

伊藤計劃・劇場アニメ化プロジェクトのロゴ

序

ぼくは、特にジョン・ポールを捕まえたいとも、殺したいとも思っていなかった。ただ、ジョン・ポールのいるところには、ルツィア・シュクロウポヴァもいるはずだとわかっていた。ぼくが気にかけていたのは、ルツィア・シュクロウポヴァだけだった。

もう一度、ルツィアに会いたかった。

ルツィア自身の口から、ぼくを赦すと言ってほしかった。

神は死んだ。神はもう死んでいる。そんなことは少しもかまわなかった。

ルツィアさえ赦してくれれば、それでよかった。

プラハでの任務が失敗に終わったあと、小説には主人公のこうした独白が描かれる。この独白は、映画の終盤の唐突さをいくらか説明してくれるかもしれない。主人公がルツィアに執着し、彼女のために戦友まで攻撃するのは、罪深い自分はルツィアに赦しを請わなければならないと考えているからだ。

しかし、殺戮を仕事にしてきた主人公は、なぜ罪悪感を抱いたのか。そして、なぜルツィアなのか。この問いにこそ、『虐殺器官』の「罪」という主題がある。

罪を探す

「実際、医者に尋ねられたとき、わたしの治療を打ち切ると決めたのは、あなた自身の自由意志だった。だから、その責任を背負わなければならないの。これまでの任務で、あなたはあれほど多くの人を殺してきた。それは国防総省や特殊作戦軍が決めたことではない。あの人たちを殺した責任も、あなたが負わなければならないのよ」

母は容赦なくぼくの責任を追及した。耳を塞いでも、その残酷な言葉は奔流のように流れ込み、止まらなかった。

……

「頭を抱えても無駄だよ」

若い声が、直接ぼくの耳に届いた。顔を上げると、アレックスがぼくに微笑みかけていた。すでに死者となった彼は、自分の頭を指さして言った。「だって、地獄はここにあるんだから」

「もうやめてくれ!」

「人間なんて、ただの脳細胞、ただの水、ただの炭素化合物だ。人間はちっぽけなDNAの塊にすぎない。生まれたときから、ただの物質なんだ。人工筋肉と大して違わない。この物質の塊に魂を探し、そこから倫理や道徳や崇高な思想が生まれると考えるなんて、まったくのごまかしだよ。罪も地獄も頭の中にあるんだ」

映画には登場しないこれらの夢の場面は、作品を理解する鍵だと言える。主人公は死んだ母の夢を繰り返し見る。小説の冒頭から、主人公は母を殺したのは自分だと語る。2 目を覚ます見込みがなくなった母の生命維持をやめることに、主人公が同意したからだ。まさにこのときから、主人公は感覚の麻痺したまま繰り返してきた「人殺し」という行為の意味を、少しずつ問い直し始めたと言える。小説の物語も、ここから始まる。(これに対し、映画版はサラエボでの核爆発から始まる。描こうとしているのは、別の物語なのだ。)

医師から差し出された同意書に署名し、母の生命維持をやめる。これは、主人公が経験したなかで最も実感のない「人殺し」だった。彼を不安にするのは、まさにこの実感のなさだ。あるいは、銃で人を殺すときにも、これと同じ実感のなさしか覚えないことだ。感情調整の作用によって、主人公は心を少しも揺さぶられずに、どんな標的でも殺せる。憐れみや罪悪感を抱きながら「殺さざるをえない」のではない。流れ作業に従事する工員のように、正確に、間違いなく仕事をこなしているだけなのだ。

主人公は、自分の無感動さに恐れおののく。なぜ、自分には罪が感じられないのか。十分な教育を受けたアメリカ市民として、主人公は、自らの殺戮をめぐる道徳的な説明の体系を身につけている。人を殺すのはもちろん罪だ。ただ、その罪は、いわゆる祖国、自由、人権といったものによって赦される。しかし主人公にとっては、罪を赦されるどころではない。当然あるはずの罪さえ感じられないのだ。「罪」はどこにあるのか。

わずかでも罪悪感をつかもうと、主人公は小説の初めから「ぼくは母さんを殺した」と言い張り、この言いようのない空虚を埋めようとする。しかし、気づいてしまう。自分が人を殺したことに疑いの余地はなくても、そこには少しの実感も生まれない。まるで法廷の被告席で罪状をすべて認めながら、その罪に無関心な統合失調症の患者のように。

こうして主人公は自らの罪を探す旅に出る。その途上で出会ったルツィアの言葉に、彼ははっと気づかされる。

「人間は過去の出来事や遺伝子などに影響されても、何をするか、何をしないかを選べる。人が自由なのは、自由を手放すことを選べるから。自分のために、他人のために、何をしてはいけないか、何をしなければならないかを選べるから」

ぼくはルツィアの顔を見ていた。なぜだかわからないが、救われたように感じた。けれど、それはぼくのしたことが肯定されたからでも、犯した罪が消えたからでもなかった。

自分の罪を引き受けることを自分で選び、その罪をほかの誰かに押しつけなかったのだと、ルツィアが教えてくれたからだった。

文化も道徳も思考も、さらには自己さえも、遺伝子や歴史的な構築物、器官の機能へと還元できるなら、いったい自由と呼ばれるものに何の意味があるのか。結局、人間はこれらの装置に動かされる機械にすぎない。しかしルツィアは主人公に言う。それでも、私たちは自由なのだ。どんな選択も何らかの因果関係へと還元されるとしても、その選択をする主体は必ず存在する。アウグスティヌスの議論を表す「我疑う、ゆえに我あり」、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」にならえば、ここでの定式は「我行為する、ゆえに我に罪あり」となる。

これはフェティシズム(fetish)の論理である。いま挙げた三つの短文で「我」と呼ばれるものは、本当の「私」の不在を示す記号にすぎない。本当の私が見つからないからこそ、このような印で代用する。そして、その空洞を露呈させないために、その印を信じ、その確かさを証明しなければならない。つまり、取引によってのみ貨幣の価値は証明され、罪を認めて初めて罪ある者になれ、殉教によってのみ信仰の対象の存在は証明される。一見すると混乱したこの因果の逆転は、「知識」ではなく「倫理」だ。テルトゥリアヌスに帰される「不合理ゆえにわれ信ず」である。3 そうして初めて、罪は成立する。

だからこそ、ルツィアの言葉には何の説明力もないのに、主人公は救われたと感じる。ルツィアが主人公に示したのは、罪についての真相ではなく、罪についての倫理(ethics)なのだ。罪ある者となるために、主人公はまず悔い改め、罪を償わなければならない。

ここに見えるのは、反転した『罪と罰』である。ラスコーリニコフは自分の考える偉人の道徳に従い、高利貸しをしている家主の老婆を殺すことは決して罪ではないと考える。だが、実際に人を殺すという心に傷を刻む体験が、彼を打ちのめした。罪は道徳の言説を通してではなく、身をもって味わう体験を通して彼を捕らえ、ついには罪の意識に苦しむ彼に、信仰への帰依と悔い改めを選ばせる。『罪と罰』の「道徳的教訓」が、信仰を欠く者は必ず悪行によって罰を招くというものだとすれば、『虐殺器官』が示すのは、悪行を犯した者は罰を求めるために信仰を取り戻さなければならない、という逆説的な反命題だ。 前者の主人公は自分の小ささを知って神を畏れる。後者の主人公は、もはや小さな存在ではなくなったために空虚を感じ、すでに死んだ神にすがって自分を取り戻そうとする。前者の命題が伝統的なものなら、後者の命題はすでに近代的、さらにはポストモダンなものだ――「ぼくは罪の責任から逃れたいわけではない。恐れているのは、まったく逆のことだ。ぼくには罪の責任を引き受ける資格がないのかもしれない。それが怖い。ぼくの罪は存在しない。それこそ、ぼくにとって最悪の真相なのだ。」

空洞の「私」

では、なぜ主人公は罰を受けることを望むのか。罪の責任を引き受けようとする動機が、「殺すなかれ」という道徳律だけではないのは明らかだ。主人公の不安は、単に道徳上のめまいから生じるのではない。「私」の空虚から、パスカルが描いた無限と虚無の「深淵」から生じる。不確かさの深淵、「私は存在する」という自明性さえ呑み込む、虚無の深淵だ。消費主義の幻影に守られた日常を抜け出し、この深淵を覗き込もうとすれば、存在の危機に直面せざるをえない。

映画では、主人公とウィリアムズが家でアメリカンフットボールのテレビ中継を見ている。反則を受けた選手が一人、苦痛に顔をゆがめて倒れる。それを見て、主人公は「過保護だ」と言う。ルールに守られた選手だけではない。本人認証に守られた市民も、まして最先端の科学技術に守られた主人公たち特殊部隊員も、過保護なのだ。彼は続ける。「ぼくたちは過保護にされて、感じられなくなったものもある。けれど、それは今も脳の中に残っている。」この「もの」とは、実はアレックスの言う罪と地獄であり、自己の存在を危うくする「深淵」なのだ。

パスカルにとって、深淵の感覚は時間の流転を身にしみて感じること、あるいは「不確かさ」の原初的な経験から生じる。だが『虐殺器官』の世界では、その原初的な経験は完全に覆い隠されていると言える。腕時計一つあれば「正常」な時間感覚を取り戻せて、何もかも制御できる。ほかの原初的な経験も同じだ。たとえば原初的な暴力は文化的な検閲によって目に触れなくなり、孤独感はネットメディアによって追い払われる。科学技術と情報に守られた人々にとって、未知を前にした恐怖も問題にはならない。明らかに、主人公が出会ったのは、心に傷を負わせるような何らかの原初的経験ではない。では、彼は何を通して深淵を垣間見たのか。

「良心は脳の中にある実体で、眼窩前頭皮質、上側頭溝、扁桃体の特定の座標に分散しているんですよ」

「脳内のさまざまなモジュールの働きを遮れば、痛覚を抑えるだけでなく、任務の目的に応じて、遂行者に異なる性格を与えることもできます」

「『私』も『意識』も、定義の問題にすぎません。つまり人間社会は今も、いくつのモジュールがあれば『私』になるのか、いくつのモジュールが連動すれば『意識』になるのか、決めていないんです」

カウンセリングのなかで、医師は主人公に、脳科学の最先端とも言うべき成果を紹介する。その成果が教えるのは、「私」とは、脳の組織が生み出すモジュールを組み合わせた結果にすぎないということだ。「私は存在する」と言っても、それはモジュールが順調に作動している状態を述べているだけである。ここにあるのは、科学による超越論的主体性の最も徹底した否定だ。直接得られるどんな感覚も、科学の言葉のなかで神経信号の効果へと還元され、どんな行為も身体の諸組織の協働として説明されるとき、それでも存在の実感はありうるのか。

だから主人公は、限りない空虚を感じる。「死と隣り合わせにいるときだけ、自分がまだ生きているとはっきり感じられる……この生きている実感こそ、ぼくが今も戦場へ赴き続ける最大の理由だ。」だが、死と隣り合わせのこの強烈な生の実感さえも、科学技術の保護のもとではひどく希薄になる。半身を失い、腸を地面にぶちまけたリーランドが、それでも何事もなかったように撃ち続ける姿を主人公が目にするとき、「人間」の像はすでに崩れ去っている。この衝撃をいくらかでもかわそうと、彼はユーモアで応じる。「この脚で間に合わせられないか?」しかし、ちぎれた脚一本で、ばらばらになった「私」を縫い合わせられるはずがない。ここで心に傷をもたらすのは、まさに原初的な暴力ではなく、その不在だ。この極度に不条理で、極度にアイロニカルな光景なのだ。主人公の「めまい」は、現実界の侵入によってではなく、「現実界は侵入できない」という事実が露呈することによって生じる。主人公は、自分が「保護」から抜け出せないことを知る。あるいは、保護の下にはそもそも「自分」が存在しないことを知る。 こんな光景を前にしても、彼は吐き気さえ催さない。この邪魔な機能は、「クラヴィス・シェパード」という機械から、適切に取り除かれているからだ。

だから、実感を取り戻すためには、自分の罪を引き受けなければならないと彼は考える。

生きている実感を得るために、ぼくは自分の罪を受け入れた。けれど、もしその罪が自己から生じたものではないのなら――「生きている実感」は、まぎれもない嘘になってしまう。

つまり、罪を受け入れるだけでは足りない。その罪を引き受けられる、実在する確かな主体を見つけなければならない。そして問題は、まずこの後者にある。

我行為する、ゆえに我に罪あり

先に述べたように、科学によって分解すれば、どんな「自己」もモジュールへと還元できる。だとすれば、行為に責任を負う「行為主体」はなおさら存在しえない。理論上、どんな動作も物理学が捉え、生物学が説明できるからだ。どうすれば行為を確かなものとして捉え直し、その結果に責任を負えるのか。

メルロ=ポンティは『行動の構造』にこう書く。「内側から捉えると、私の行動は方向をもち、ある志向と意味を備えたものとして現れる。科学は、こうした特徴を現象として捨て去り、その現象の下に別種の実在を見いだすよう、私たちに求めているように思われる。」4 メルロ=ポンティの現象学は、「行動」の核心をその志向性に見いだし、志向性をもつ行動を肯定することで、科学による人間の行動の還元に抗おうとする。私たちは、この現象学の倫理的立場に立って、「直接」、すなわち内側から得られるものを肯定する必要がある。行動の「志向性」を肯定することで、科学が行動という「現象」を分解することに抗うのだ。 つまり、行為の志向、意味、倫理は、行為の動因や効果に優先し、しかもそれらから独立している。だからカウンセリングの医師は、主人公に何度もこう言う。「もちろん、それはあなた自身の意志です。疑う必要はありません。」だからルツィアは主人公に、人は何をしてよく、何をしてはいけないかを選べるのだから自由なのだ、と告げる。

したがって、自分の行為にどれほど実感がなくても、身体がどれほど自動機械のようであっても、行為、ただ純粋な行為だけは信じられる。引き金を引き、弾丸を放ち、敵を殺したという事実だけは疑いようがない。そして、その事実が一つ生じるたび、自らの罪が一つ書き加えられる。行為が私の意図を証明し、行為が「私」の存在の意味(認識可能性)を保証するからだ。主人公はそう信じる。

「存在するものと、存在するという事実との関係。また、内容についての意識と、その内容を存在に根づかせる活動についての意識との関係。いずれも、外的な関係にとどまらざるをえない。結局のところ、意識は、思考の対象をもつこと、あるいは自己にとって透明であることによって定義される。一方、活動は、互いに外的な一連の出来事によって定義される。」5 生命の秩序と人間の秩序を論じるなかで、メルロ=ポンティはこう書いている。

ここで読み取れるのは、志向には必ず対象があり、意識はある構造のなかで外から規定される、ということだ。意識の「原初的」な形を論じても意味はない。意識は最初から、構造をもつ意識として現れる。この説明は、社会と主観的な志向を結ぶ系列を提示し、科学と客観的な分析を結ぶ系列と並べることに等しい。それによって、「意味」が「真相」によって解体されずにすむ。ここで鍵となるのは、意識が「外部」による保証を得たことだ。この外部は尽きることのない意味をもつ。それが、いわゆる「全知と想定される他者」である。

他者は主体の意味と自由意志を保証し、主体にこう告げる。「これがあなたの意志だ。これこそ、あなたが望んでいることだ。」それは、アウグスティヌスが人間の自由意志を確信するのと同じである。「意志は必ず存在する。神がそれを予知しているからだ。しかも、意志は私たちの力のうちにあるときにしか意志ではない。したがって、神はこの力も予知しているのであり、その予知が私の力を取り去ることはない。」(『自由意志論』3.3.8)神の予知と人間の自由意志は矛盾しない。むしろ、前者が後者を保証するのだ。つまりここでは、主人公の行為をすべて「見届けた」観察者が存在する。その観察者は全知全善であるがゆえに、つねに何らかの仕方で主人公を受け入れ、理解できる。そうでなければ、行為によって主人公の罪が確定しても、「罰」を与える主体が見つからない。「罰」を与える主体がいなければ、罪も意味を失ってしまう。つまり、罪を引き受ける主体を見つけるだけでは足りない。罰を執行する他者が必要なのだ。罪と罰が成立して初めて、「私」は存在できる。

ぼくにカウンセリングはいらない。

ぼくに必要なのは罰だ。

ぼくを罰してくれる人が必要なんだ。

これまで自分が犯してきたすべての罪について、ぼくは罰を受けたい。

我罰せられる、ゆえに我あり

そんな他者を、どこに見つけられるのか。現代世界では、多くの場合、罰する者は「社会」である。社会は法典のなかからその人に当てはまる罪名を選び出し、処罰や非難といった形で人を受け入れられる。しかし社会では、主人公を罰する者として十分ではない。厳密に言えば、社会は究極の「全知と想定される他者」にもなれない。「全知と想定される他者」は、特別な位置を占める。「私」と距離を保ちながら、私を見つめている。包容力があり、「私よりも私のことをよく知っている」。 こうした主体だけが、罰する者として思い描かれうる。注意したいのは、「全知と想定される」とは、その主体が本当に何もかも知っているという意味ではないことだ。「私」にとっては、自分に関するすべてを理解してくれる、まるでずっと自分を見守ってくれていたかのような存在だということである。だが、これも結局は「想定」にすぎない。そのため、この主体の像がある具体的な人に宿ったとき、その人が口を開けば、その像は壊れるおそれがある。自分の最も奥深くに隠した一面を不意にその人に見せたところ、まるで理解されないとわかったら、どれほど不条理な場面になるか、容易に想像できる。したがって、「私と距離を保つ」とは、実のところ、私とはそもそも意思を通わせられないという意味だ。あるいは、その人が私を知っているのは、私がそう信じているからにすぎず、すべてが幻想でさえありうる。映画『ジョーカー』で主人公に寄り添う、あの妄想のなかの黒人女性のように。

主人公は、自分を罰する者はルツィアしかいないと信じている。ルツィアだけが自分を最もよく理解している。彼女に罰と赦しを求めることだけが、「正常」に戻る道なのだ。なぜルツィアなのか。主人公は、自分の手で殺した人々に対して罪を犯したと考えている。だが、その人々に赦しを求められないのは明らかだ。誰であれ、死ねば生者とはまったく無縁の境地に入ってしまう。死者を弔って赦しを求めるのは、生者の一方的な願いにすぎない。だから主人公は言う。「神が死ぬと同時に、罪は人間のものになった。罪を犯すのは相変わらず人間だが、罪人を赦せるのは神ではなく、肉体の死んだ人間なのだ。」

一方、ルツィアは少なくとも生きている。主人公の話に耳を傾け、導いてくれる人だ。主人公の目には、彼女は純真で罪がなく、素朴な道徳的良心を備えた人と映る。それなのに自分は彼女を欺き、利用し続け、彼女に対して罪を犯してきた。同時に、ルツィアもポールの愛人として、彼の妻に対し、誰からも赦されることのない罪を犯している。だからこそ、

ぼくはルツィアに惹かれた。ぼくたちは、どちらも赦されることのない罪人だった。どちらも、死者に罪悪感を抱いていた。

だから、ぼくは自分の罪を彼女に話すことにした。

今思えば、それは最も遠回しな形で彼女への愛を伝えることだった。ごく控えめな告白でもあった。

同じ罪人だからこそ、キリスト者は信仰をともにする者の交わりを結ぶ。その交わりを通してキリスト・イエスと結ばれ、イエスの犠牲によって得られた罪の赦しを分かち合う。この交わりの絆は愛だ。「愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。神が独り子を世に遣わされたのは、その子によって私たちが命を得るためでした。こうして神の私たちへの愛が示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪を償ういけにえとして御子を遣わしてくださいました。これこそが愛です。」(ヨハネの手紙一4:8–10、CCB)

イエスも神も私たちを見捨てて去ったとき、この終末の世に残された罪人たちは赦しを得られない。だが、愛の交わりはなお存在する。この罪人の交わりこそ、主人公の「他者」である。ルツィアに赦しと罰を求めることで、二人の罪人は支え合い、正常な生活を続けられる。解き放たれることができなくても、少なくとも互いに罪を語り合うことで、かすかな安らぎは得られる。神と結ばれ、究極の安息を求めることができなくても、少なくとも罪は、私たちをほかの罪人たちに、罪の始祖であると同時に人間の始祖でもあるアダムに結びつけてくれる。

私は心のすべてで望んでいたわけでも、心のすべてで拒んでいたわけでもない。私は私自身と争い、内に分裂を生んだ。その分裂を私は望んでいなかった。これは別の魂の存在を証明するものではなく、私が受けている罰を示すにすぎない。その罰をもたらしたのは私自身ではなく、「私の内に住みついた罪」(ローマの信徒への手紙7:17)である。それは、私が自覚し、自ら望んで犯した罪への報いだった。私はアダムの子孫なのだから。(『告白』8.10.22)

私に罪があるのか、私は赦されうるのか。この終末の世では、もはやそれは重要ではない。本当の恐怖は「私」の分裂にある。私は、自分の存在がばらばらの断片になることを恐れる。清らかな魂がもはや何も求めないのなら、どうか罪に深く汚れた魂を私に与えてほしい。どうか私を罰してほしい。罰の苦痛を通して、私は罪人の交わりに加われる。罰の苦痛を通して、私は魂の存在を深く味わえる。 主人公にとってはそうなのだ。そしてアレックスが言うように、地獄が脳の中にあるのなら、誰にとっても同じではないのか。

現代人が神を殺したのだとしても、現代人は「罪」を廃したわけでも、地獄を壊しえたわけでもない。ただ忘れ去り、脳の最も深いところへ放り込んだだけなのだ。過保護にされている私たちが、ある日ふと自分の罪を思い出せば、脳の皺に深く隠れた地獄が門を開く。日常に埋没するうち、存在の問いをあらわにする「森の中の空き地」へ迷い込めば、罪が私たちを地獄へ引きずり込む。

結び

主人公は結局、ルツィアの口から赦しの言葉を得られなかった。彼女は、インドの反乱兵やアフリカの少年兵たちと同じように、無防備なまま、弾丸で頭を撃ち抜かれた。

ルツィアはもう死んでいた。ぼくを罰してくれる人も、赦してくれる人も、もういなかった。

この瞬間、この場所が地獄だった。ぼくは自分を地獄に閉じ込めた。地獄はここにあるんだよ。アレックスの言葉を思い出した。そのとおりだ。ぼくは最も恐ろしい地獄へ堕ちてしまった。罰を受け、赦されるために、ぼくはアフリカの奥地まで来た。それなのに、たどり着いたときには、ぼくの罰も赦しも壊れ、消え去っていた。

これがぼくの罰なのか。ぼくは途方に暮れたまま、死ぬまで罪を背負っていかなければならない。

主人公がひたすら追い求めていた赦しは消えた。赦してもらえないのではない。赦しなど、もともと存在しなかったと不意に気づいたのだ。ルツィアは、主人公が人を殺し、欺いた罪を責めようとはしない。彼女が譲らないのは、真相を世に知らしめることだった。この世界は死骸の山の上に築かれている、その事実を。彼女がそう求めたのは、虐殺に巻き込まれた罪のない犠牲者たちへの、人道的な同情からにすぎなかったのかもしれない。だが、その要求は、ジョン・ポールと主人公が実行に移すなかで、「道徳」の境界を越えてしまう。文明世界は、葬儀や公的な追悼儀式、哀悼といった形で、死骸を自らの外へ排除しなければならないからだ。ジョン・ポールは言う。

「もともとは、何もかも一人で背負うつもりだった。だが、ルツィアがこのすべてを世の人々に知らせたいのなら、知らせてやろう。テロのない世界は、実は死体の上に築かれているのだと。世の人々は、その是非を判断するよう迫られることになる」

主人公もこう考える。

この世界は、まだ十分に道徳的ではない。この世界は、まだ隅々まで良心に満たされてはいない。ぼくたちはまだ遠く及ばない。見て見ぬふりをしているものが、まだたくさんある。

道徳を覆すのは、良心のかけらもない悪人ではない。極端なまでに美しい魂だ。その魂は道徳の境界を踏み越え、人間を耐えがたい境地へと連れていく。主人公にはわかっている。メディアを通じて真相を世に告げるだけでは足りない。『機動警察パトレイバー2 the Movie』が教えるように、文明社会は本物の戦争をその内に収められないほど小さい。どこかの国のどこかで戦争が起ころうと、さらには自分のすぐそばで起ころうと、それは自分と関係のない、画面のなかの偽物の戦争にすぎない。真相を告げるには、「知らせる」だけでは足りない。人間を「真相のただ中」へ陥れなければならない。主人公が見ているのは、もはや自分の罪だけではない。日常の世界(アメリカ)という巨大なバビロンの都の、底知れぬ罪なのだ。

ぼくは詠唱するように、自分の物語を語った。声の調子と韻律にとりわけ気を配り、聞いた者たちが殺し合うことを、アメリカじゅうの人々が互いを虐殺することを願いながら。これが祈りであり、一つの歌でもあることに、誰かが気づいてくれればと思った。

主人公はメシアに呼びかけることを決める。虐殺の文法で綴った祈りの言葉によって最後の審判をもたらし、アメリカの大地に罰を下すのだ。まさにこの瞬間、本稿が初めから終わりまで描いてきた主人公個人の贖罪の旅は、世界に審判をもたらすメシアと結びつく。『虐殺器官』の二つの物語は、ここで合流する。もう一つの物語、すなわち冒頭で触れた、サラエボでの核爆発から始まる物語については、またの機会に論じることにしよう。

クラヴィス・シェパードの宣誓場面

「わが民よ、その都を出なさい。その罪に染まり、その災いを受けることのないように。その罪は天にまで達し、神はその不義を一つも忘れてはいない。

都が人にしたように、お前たちも都にせよ。その行いに倍の報いを与え、都が酒を混ぜて人に飲ませた杯に、倍の酒を混ぜて飲ませよ。かつて自らを誇り、栄華と放蕩を極めた分だけ、今度は苦痛と悲しみを味わわせよ。その心の中で、『私は女王の座にあり、やもめではない。決して悲しみを味わうことはない』と言っているからだ。

だから一日のうちに、死と悲しみと飢えという災いが、そろってその身に降りかかる。都は火に焼き尽くされる。都を裁く主なる神の力は偉大だからだ。」――新約聖書・ヨハネの黙示録18:4–8、CCB

本文終わり
注05

注釈

  1. 訳注:聖書の引用は、いずれも中国語訳のCCB(Chinese Contemporary Bible)による文言から訳した。「セラ」はヘブライ語原文にある、意味の確定していない語(NIV詩編32の注参照)。 ↑

  2. 訳注:中国語記事では「私の母を殺したのは私だ」と紹介されている。日本語小説では「ぼくの母親を殺したのはぼくのことばだ。」(早川書房公式試し読み、第一部第2節)。 ↑

  3. 訳注:「不合理ゆえにわれ信ず」は、テルトゥリアヌスの『キリストの肉について』第5章に由来する流布表現。 ↑

  4. [フランス]メルロ=ポンティ『行为的结构』(『行動の構造』中国語訳)、楊大春・張堯均訳、北京:商務印書館、2005年、19頁。 ↑

  5. 同上、245–246頁。 ↑

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