
だが、どんな決断も、まだ捉えられていないもの、覆い隠されたもの、混迷したものを土台としている。そうでなければ、それは決して決断ではない。
はじめに:書くのがいちばん怖いのは、学術論文ではなく、こういう気ままな批評だ。その対象として、とりわけ手を焼くのが『ペルソナ5』のような作品である。何が難しいかといえば、ちょっと油断すると、感想がすぐ学問になってしまう。私の場合、学術的な文章を書きすぎたせいで、何を書いてもどこか学者くさくなる。それでも、P5の感想をなんとか書いてみたい。
ウィトゲンシュタインは、「なぜ」と問うのが好きな人を、名所を前にした観光客にたとえていた。美しい景色には目もくれず、ガイドブックを懸命にめくって、その場所の歴史や由来を知ろうとする人たちだ。もちろん、これも旅の楽しみ方の一つではある。大切な態度だとさえ言えるだろう。だが私には、景色の歴史よりも景色そのもののほうが面白い。それと同じく、景色の歴史を書くより、景色を書くほうが面白い。そもそも景色は、それ自体で成り立っている。その現れこそが本体であって、奥にもっと深い何かを隠しているわけではない。批評を書くのも同じことだ。細部が増え、「なぜ」が増えると、考証や学問の匂いがしてくる。だからここでは、「なぜ」をあまり問わないつもりだ。ゲーム全体の細部に目を配ろうとも思わない。ただ、思い出せるものをもとに三つの横顔を描いてみたい。それでどうにか読める批評になれば、自分のゲーム体験にも報いることができるだろう。
『ペルソナ5』の語り方――真と自然
私が遊んできたJRPGのなかでも、P5は文章のうまい部類に入る。語りは平明で、つなぎは自然。物語の転換点では畳みかけるように展開し、仕掛けは入り組んでいるが、解き明かすときには歯切れがよく、だらだら引き延ばさない。
P5の人物描写は、率直で生き生きとしている。日本のアニメや漫画、ゲームの人物の描き方には、独特のものがある。悪く言えば記号的、類型的だが、これは東洋の伝統的な芸術形式の流れをくむ描き方であり、それ自体を非難するには当たらない。現代の西洋の作品では、人を複雑に、曲折を重ねて描くことが多い。言い換えれば、性格の複雑さを描き出し、その人物の内面が見通せないことを重視するのだ。
そこで腕の見せどころになるのは、複雑さのなかに、いかに率直さを現すかである。うまく書かれたものでは、曲折のなかから偽りのない姿が現れる。もう先へ進めないかと思うと、不意に視界が開け、そこから偽りも屈折もないものが姿を見せる。それまでの積み重ねがあるからこそ、その偽りも屈折もないものに、歳月の深みと豊かさが宿る。下手なものでは、芯を失った曲折が延々と続く。作品全体が泥のようにぐずぐずになり、あれでもない、これでもないと煮え切らず、妙にひねくれた人物ばかりが出てきて、読んでいてうんざりする。

一方、日本のアニメや漫画、ゲームは、純粋でまっすぐなところから人物を描き始める。この書き方で大切なのは、自然で、作為が少ないことだ。ツンデレのキャラクターが愛おしく見えるのは、その性格のなかに隠しきれない「真」があるからにほかならない。魅力的な悪役に心を奪われるのも、その生のなかに「真」があるからだ。こうした描写は、その人物自身の必然性から、ごく自然に引き出されてこそ、うまいと言える。無理に型へ押し込めれば、人物は生気を失い、ご立派だが中身のないことばかり言うようになる。説教になり、嘘くさい記号になり、見ている側は気分が悪くなる。偽りのないものはどれも単純だ。だが、その単純さまで作為でこしらえたものなら、やはり鼻につく。
双葉が怪盗団に加わったばかりのころ、みんなで海へ遊びに行く。そこで、浮世離れした喜多川がエビを一匹捕まえてきて、みんなにからかわれる。私はその場で、これはきっと何かの伏線になる、と断言した。ところが、夕日が沈むころになっても、エビが伏線だったとわかる展開は来ない。怪盗団のみんながエビはどうしたのかと尋ねると、喜多川はどこへ行ったのかわからないと、超然として答えるだけだった。エビへの期待は空振りに終わったが、それでかえって、P5の脚本家はなかなかの曲者だとわかった。
書き手の側から見れば、伏線でもないエビなど、たいていの作家は書かないか、さらりと触れるだけで済ませるだろう。だが、ここで少し考え直してみよう。もしエビが伏線のために生まれたのなら、それは物語の道具であって、もはやエビそのものではない。P5でも、エビの描写はわずかだ。それでも、このように描くことで、エビを目的論的な物語の枠組みから抜け出させている。エビの一件は、物語全体にとって何の役にも立たない。けれど、まさにその無用さによって、エビは自身をまっとうする。エビはこうしてエビになり、喜多川もほかのみんなも、それぞれ自身をまっとうする。さらに言えば、P5もこうしてP5になるのだ。
これが自然な筆の運びである。自然のままに任せること――四字で言えば「放任自然」だろう。 ただし、ここで言う自然は、ふだん言う自然とは違う。それ自身の必然性、とでも言うべきものだ。ニーチェは、作者を作品の育つ土壌と考えてもよいと言った。作品にも、そのなかの人物にも、それぞれの生命がある。自然な書き方とは、それをまっとうさせ、育つに任せることだ。そのとき言葉は障害ではなく、力添えになる。物語は書き手の筆を通して、自らを語る。古人の言葉にもある。「文章は本より天成、妙手たまたまこれを得たり」。
竜司は向こう見ずだが、その向こう見ずさには天真爛漫なものがある。喜多川は浮世離れしているが、ときにはずいぶん的を射たことも言う。P5には、こういう自然な描写がいくつもある。

物語について言えば、ややこしく入り組んだ設定はいくつもあるものの、無理のある唐突な展開が多いとは思わない。会話のできるNPCには、一人ひとりにちょっとした物語がある。話が最後まで進むと、日本語の勉強に励む外国人も、広場で弾き語りを続けるロック青年も、それぞれに心の落ち着くところを見つける。こうしたところで、何度も思わず笑みがこぼれた。
人物を見れば、味方側には竜司、杏、喜多川たちの率直さと純真さがあり、敵側には獅童や明智たちの冷酷さと、手段を選ばぬ姿勢がある。味方の人物は魅力にあふれ、素直で快活で、生気がにじんでいる。一方、大悪役の獅童は、最初から最後まで一貫して冷酷だ。権力のためなら何でも犠牲にし、やることにも迷いがない。最後に心を盗まれてなお抵抗をやめず、毒を飲んで仮死状態になり、最後の勝負に出ようとする。見かけだけ強そうな張り子の虎ではないのだ。こういう悪役を、少なくとも私は憎みきれない。というより、その主義は憎めても、その人となりにはいくらか敬意を抱かずにはいられない。この悪役の前では、最後の大ボスである聖杯さえ霞んでしまう。
獅童が倒れたあと、部下たちは慌てこそするが、散り散りに逃げるわけではない。社会という機械を動かし続け、なおも抵抗する。これもまた、人物自身の必然性から自然に導かれた結果だ。考えてもみてほしい。獅童が倒れたとたん、その下の大臣たちまで一斉に崩れ落ちたとしたら、かえって滑稽で鼻につく作品になっていただろう。
『ペルソナ5』を貫く思想――物化と直心
このところ、私は自分に問いかけている。P5のようなゲームは、ほかの壮大な物語を語るゲームとどこが違うのか。そして、どこがよいのか。鍵は、おそらく「直心(じきしん)」の二字にあるのではないかと思う。
怪盗団の面々も、ゲーム内の現実世界では、いくつか特技があるほかは普通の人間にすぎない。彼らと付き合ううちに、プレイヤーは一人ひとりがそれぞれ迷いを抱えていることを知る。その迷いも、実はありふれた事柄についてのもので、国家や世界や宇宙の命運に関わる大問題ではない。こう言ってもよいだろう。彼らもまた、日常を生きる平凡な人々であり、それぞれの運命ゆえに、敗北の定まった悲劇に巻き込まれたのだ。
これと対照的なのが、ゲームの終盤で出会う、牢獄に閉じ込められたNPCたちである。自分の運命をある程度知っている点では同じなのに、牢獄の人々は自らを欺き、沈み込むことを選び、怪盗団の面々は最後まで抗うことを選ぶ。この一念の違いこそ、私が「直心」と呼びたいものだ。たとえば双葉は、母の幻に罵られながら、「何を言われたって…」と抗い、「…わたしは生きる!」と叫ぶ。
何を言われようと、それでも生きる。この「それでも」には、大きな意味がある。そこには、何の条件もつけず、自らの意志で行動する姿が示されている。無条件とは、荘子の言う、何ものにも依存しない「無待」であり、主体が自ら立つことであり、自由である。無待の意志こそ自由意志なのだ。こうして生まれた怪盗団は、この自由意志が人格を得た姿とさえ見なせる。不正があれば、大きなことでも小さなことでも、成功しようが失敗しようが、怪盗団はすぐに乗り出して片をつける。ただし、最初からそれほど揺るぎなかったと言うのは、事実に合わない。むしろ物語全体が、彼らが学び、育っていく過程に見える。怪盗団は何かをしようとするとき、ためらい、自分たちの信条を疑い、名声や利益に心を奪われると――要するに、ひとたび心が乱れると――必ずうまくいかなくなる。反対に、煩悩がそのまま悟りである「煩悩即菩提」、今この瞬間がそのまま全体である「当下即全体」を悟れば、その行動はたちまち神がかりになる。これも日本のアニメではおなじみの筋書きだ。古い。だが真理である。
そして、真理はいつも単純だ。いちばん単純なことが、いちばん難しい。

最終決戦を前に、自分自身の牢獄で沈み込んでいる仲間たちへ、主人公が投げかける問いが実にいい。他人の期待に応えるために自分たちは怪盗になったのか、と一喝するのだ。仲間たちもその意味を悟り、それぞれに最後の拠りどころとなる動機を見いだす。つまり、期待されようとされまいと、ただ自分の理念を貫くということ。不義があればまっすぐ駆けつけ、事の大小も、結果の成否も問わない。外の出来事に一喜一憂せず、自分の境遇を嘆くこともなく、自在に行き来し、さっぱりと何にもとらわれない。
この境地には、世の秩序の外に生きる緑林の侠客めいた気風がある。ただ、侠客たちと比べても、徒党を組んで身内の利益を図るような、社会的なしがらみは少ない。また、禅宗にもよく通じる境地であり、禅ではこれを「当下即是」と呼ぶ。瞬間に永遠が現れ、永遠が一瞬に集まる。今この瞬間に、すべてがそのまま現れている。これが当下即是、体露金風(たいろきんぷう)である。これが『ペルソナ5』の語る「直心」なのだ。当下即是の境地を語るのは、なかなか難しい。言葉は固定されているのに、その境地は生き生きと動いており、具体的であると同時に普遍的でもあるからだ。怪盗団の面々の直心を見て取るには、むしろ見る側にこそ、いっそう多くのものが求められるのかもしれない。

この直心の道と対をなす、もう一つの筋がこのゲームにはある。私はそれを「物化」の道と呼びたい。もちろん、こちらは負の側である。
物化のほうは、いくらか説明しやすい。その理由の一つは、現代が、物化の広く行き渡った時代だからだ。私たちは誰もが、この現象を日ごろから見慣れている。「直心」の境地が因果にとらわれず、さらには目的と手段の関係にもとらわれないものだとすれば、物化の道は、因果を、目的と手段を、あまりにも重く見る道だ。物体は自然界の一部であり、その全体に及ぶ因果関係のなかにある。ひとたび因果関係のなかにあれば、自由を語ることはできない。それと同じく、手段と目的の連鎖のなかにあれば、「直心」を語ることもできない。
たとえば、獅童がコップで水を飲もうとするとき、コップが手段で、水を飲むことが目的となる。明智を利用して権力を手に入れようとするなら、明智が手段となり、権力の獲得が目的となる。この例では、明智とコップは、同じ「利用される」立場に置かれている。コップは物だから、道具になるのは当然だ。だが明智は生きた人間なのに、ここでは道具の地位にまで引き下げられている。これが、人を物として扱う、いわゆる人間の物化である。P5には物化の現象が数多く描かれている。さまざまなボスのパレスでは、他人が絵やATM、ロボットといった物の姿で現れることが多い。パレスの主が他人をどう見ているかが、そこにはっきり示されている。
物化のイメージが頂点に達するのは、奥村社長の心のなかだ。従業員は疲れを知らぬロボットの姿で現れ、命の尽きるそのときまで、せっせと働き続ける。死んでさえ働く運命から逃れられず、その亡骸は薪となって、工場の生産を支える燃料にされる。もう一方にあるのが、明智が振るうような暴虐だ。他人の命は、好きなように奪ってよい物と見なされる。ここに、怪盗団と明智、さらには獅童のような連中との違いがある。第一に、人を「その人自身」として見ているか。第二に、人を手段ではなく、目的として見ているか。この点で、怪盗団の改心作戦には意味がある。目的はこの世から悪をなくすことではないし、彼らにもそれはできない。彼らは、罪を犯した者に、自分の過ちの責任を引き受けさせるのだ。
そして、自分の責任を引き受けられるようになって初めて、その人は本当の意味で自由だと言える。

悪を根絶することができないのと同じく、物化もなくすことはできない。P5が暗示しているように、人は心の世界と自然界の両方に身を置いている。肉体しかなければ物になり、心しかなければ神仏になる。アリストテレスの言うとおり、ポリスという共同体の外では、神か獣かだ。人が有限な理性的存在者であり続けるかぎり、物化される可能性はつねにある。人の有限性が「そうあるほかない」ものならば、そこには数えきれないほどの「やむをえなさ」が生まれる。だから聖人の言葉があり、知識があり、科学や教育や文化があり、政治の仕組みがあり、決まりや人情がある。こうしたこまごまと面倒なものは、すべてやむをえずあるものだ。何事もまっすぐには進まない。曲折があり、迂回があり、そうせざるをえない事情がある。神仏には、社会も政治も文化も関係がない。神仏の境地には曲折がなく、何事もまっすぐに行えるのだ。こうして、神の世界と人の世界がある。
牟宗三(ぼうそうさん)が述べたように、『水滸伝』の豪傑たちが生きる「水滸世界」は、この二つの世界の外にある第三の世界をなす。それと同じく、怪盗団もこの「水滸世界」にいるのだと、私は言いたい。彼らにとって、社会の仕組みも、文化的な要因も、利益や報酬も、他人からの期待も、すべて二の次で、どうでもよい。下はごろつきから上は邪神まで、どれほど強かろうと、悪いことをしたなら逃がしはしない。怪盗団がどっと押し寄せ、事件は解決するが、しばしば社会に巨大な嵐を巻き起こす。考えてみれば、政治の仕組みのなかに、こんな騒乱の種を受け入れる余地があるだろうか。だから怪盗団は、結局、社会に収まることができない。私たちから見れば、彼らは幼稚で、頭に血が上っていて、後先も上下の区別もわきまえない。だが彼らから見れば、滑稽なのは私たちのほうだ。私たちは結局、社会の秩序の内にいる「方内」の人間であり、社会のなかで生きる人間なのである。社会には、耐え忍ぶことや、曲折を経なければならないことがつきものだ。そしてそれがあるからこそ、社会は社会になる。それでも怪盗団は、生身で神仏のなすことを行い、独自の境地をなしている。これが牟宗三の言う「水滸世界」なのだ。
P5は明らかに、このことをわかっている。だから作品の大半では、怪盗団の活動する心の世界と、現実の世界は分かれている。社会の側の人々も、怪盗団について好き勝手に評している。曲折のなかにあるやむをえなさを、もっともよく体現しているのは、あの警察のお姉さんだ。彼女は徹頭徹尾、社会の法秩序と怪盗団の正義との板挟みになっている。怪盗団は明らかに正義を行っているのに、社会の法はそれを許さず、彼女はあらゆる手を尽くして彼らを捕らえ、法の裁きにかけなければならない。ああ、これこそ、そうせざるをえないということではないか。『カラマーゾフの兄弟』にもある。たとえキリストが再来しても、今の教会の人々はお引き取り願うだろう、と。主人公は放課後、心の世界で縦横無尽に活躍していても、昼間は学校で先生にチョークを投げつけられる。人の世のやむをえなさが、こんなところにも垣間見える。

だが、P5というゲームが語ることは、そこでは終わらない。「太陽」のコープの終わりで、庶民派の政治家が、なかなか興味深いことを言う。大意はこうだ。ある少年と出会った。彼もまた、自分のやり方で、この社会の正義のために力を尽くしている。歩く道は違っても、山頂では彼と会えると確信している。――違う道とは、義賊の道と政治の道である。義賊の道は社会の秩序の外、「方外」に属し、政治の道は「方内」に属する。本来は水と火のように相容れない。その二つの世界の和解を、P5は政治家の口を借りて語ってみせた。これは得難いことだ。山頂での再会を願うという趣旨だったのか、再会を確信しているという趣旨だったのか、実際の言い回しは覚えていない。私としては、「希望」ではなく「確信」であってほしい。
矢を放った射手も、心のなかでは「当たってほしい」ではなく、「きっと当たる」と思っているのではないだろうか。
『ペルソナ5』はいかにして「渦」となるのか
もう一度、「改心」について考えよう。ここまでの私の考えに筋が通っているなら、改心は単なるゲームの設定ではなく、作品全体の核をなす、欠かせない部分ということになる。
改心とは、文字どおり、罪を犯した者に自分の罪を本当に自覚させ、その責任を引き受けさせることだ。そして、ここにこそ怪盗団と明智のような連中との違いがある。同じく私刑を行う明智も、殺されて当然の者を何人か殺したのかもしれない。それによって、彼の掲げる「正義」の名にふさわしく見えるかもしれない。だが、よくよく考えれば、やはり一段劣る。殺すことは、ほかに手のないときの最後の手段であり、外からの力で強いる制裁だ。人の世で正道を歩むには、幾多の変転をくぐらなければならない。もし罪を犯した者に、自分の責任を引き受ける機会がまだあるなら。自らの罪に目覚め、自由な意志で出頭し、さらには力の限り罪を償うこともできるなら。それでもなお殺すのは、公の大義にかこつけて私欲を満たすこと、ただ自分の正義感を満足させることに、いっそう近くなる。
一方、改心が責任を引き受けることであり、責任を引き受けることが自由を意味するのなら、怪盗団の行いは、実のところ、人を「自由」にするさまざまな行為なのだ。物語の大半では、改心させる相手は具体的な悪党たちであり、犯した大罪も一つひとつ数え上げられる。ところが終盤になると、プレイヤーは戸惑いながら気づく。最後の標的は、なんと「民衆」そのものになっている。これは面食らう。民衆に、いったい何の罪があるのか。自らを閉じ込めた普通の人々の姿が暗示するように、みんな平凡に、自分を守りながら生きているだけではないか。それのどこが罪なのか。ここに分かれ道がある。「凡庸であること自体が罪だ」と読むこともできる。だが、それではあまりに過激で、まさに物語の悪役と同じ道を歩むことになる。この読み方には、明らかに問題がある。P5が語りたかったのは、むしろこういうことではないか。怪盗団が心を盗み、改心させる、その一連の過程は、そもそも「罪」ではなく「自由」に向けられていたのだ。それまでの悪人たちについても、最終的に問われるのは、罪があるかどうかではない。自由かどうかなのだ。罪は、自由になれていないことの、一つの現れにすぎない。
この意味で、民衆は罪があるのではなく、自由ではないのだ。自分を知ることができず、何も引き受けず、聞こえないふり、知らないふりをする。ひと言で言えば、責任を負わない。これが自由ではないということである。これこそアーレントの言う「悪の凡庸さ」でもある。そして怪盗団の最後の任務は、まさしく民衆を自由にすることだ。ところが奇妙なことに、ラスボスの聖杯を倒したあと、周りの人々を見回しても、何も変わっていないように見える。さっきの改心作戦が成功したのかどうかさえ、誰にもはっきりわからない。
だが、こここそが肝心なのだ。P5という作品が渦なら、ここがその中心である。
なぜなら、画面の前のプレイヤーも民衆の一人だからだ。怪盗団の物語全体が、実はプレイヤーの心を盗むための、長い長い作戦だったのである。なぜプレイヤーの心を盗まなければならないのか。プレイヤーに罪があるのか。いや、罪があるからではない。自由ではないからだ。
自由に使える給料があり、ゲームをする暇があり、今日は魚を食べるか肉を食べるかを選べる。それは自由とは呼ばない。自由とは、自分の生に誠実であり、自分の生を引き受けることだ。凡庸な人が凡庸なのは、社会的な地位がどうこうという理由ではない。何も省みずに日々を送り、何も引き受けず、引き受けているふりをする。そのことに、凡庸さがある。
怪盗団の作戦は成功したのか。わからない。物語が示すとおり、それは謎だ。もしプレイヤーが、怪盗団を終始、自分とはまったく無関係な対象として見ているなら。コントローラーを置いたらディスクをしまい、いつもどおりに暮らすだけなら。「ゲームのなかの連中は食べなくてもいいが、こっちは食べていかなきゃならない」などと言っているなら。怪盗団の作戦は成功していない。何周遊んだところで、このゲームはただのゲームであって、渦にはならない。だが、遊び終えたあと、自分の信念や、引き受けるべきものや、自分の生について、ほんの少しでも新たに省みることがあったなら、作戦は成功したのかもしれない。P5も、もはや単なるゲームではなくなる。現実と虚構をともに巻き込む渦となり、それ自身になるのだ。
物語の終わりに、竜司と喜多川がぽつりと口にする言葉は、まさに画竜点睛であり、深く心に残る。みんなは主人公を故郷へ送るために車を走らせ、海沿いの高速道路を通っていく。春風が頬をなで、海と空がつながっている。私の記憶では、この夢のような景色を前に、竜司がつぶやく。なんてきれいなのだろう、まるで夢のなかのようだ、自分たちは誰かの夢のなかにいるのではないか、と。喜多川はすぐに、わからないが、そんなことはどうでもよい、自分たちは自由なのだ、と答える。
この応答を、私は「私たちは自由だ」という宣言として受け取った。なんと深い言葉だろう。これが芸術作品の登場人物の口から出ることで、衝撃はさらに大きくなる。物語全体を解く鍵となる言葉だ。『ブレイブハート』を見て、虚構の作品だからという理由で、ウォレスの自由を否定する人はいないだろう。自由とは超越的なものであり、現実の人間が独占できるものではない。いや、むしろ自由のほうが、芸術と人間を捉えていると言ったほうがよい。私たちはP5の人物を、たかが二次元のキャラクターだ、虚構だと憐れむ。だが、彼らはそんな憐れみをありがたがるとは限らない。むしろ、現実性という牢に閉じこもり、自分で自分を縛っているこちらを、笑うのではないか。
自由と夢と真実を問うものとして、古くは胡蝶の夢があり、今では水槽の中の脳がある。『ペルソナ5』はこの問いに答えたのではない。問いそのものを打ち破ったのだ。問いのなかには、それ自体が果てしないもつれであるものがある。それを打ち破ることが、答えになる。アレクサンドロスが、剣で結び目を断ち切ったように。彼は知っていた。答えのなかには、言葉のうちではなく、その一太刀のうちにあるものがある。結び目をほどくのか、それとも断ち切るのか。そこには二つの見方があり、それが私たち凡人とアレクサンドロスを分ける。P5の終幕に私が読み取った「私たちは自由だ」という宣言を理解できる人なら、モナが、すべては認知の産物なのだと繰り返し強調する理由も理解できるだろう。そして、なぜP5の結末の掲示板で、怪盗の存在を信じる人と信じない人の割合が半々のまま止まるのかもわかるだろう。
これは「信じればあり、信じなければない」に似ている。だが、ここでいう「信じる」は、迷信ではない。
竜を斬るのに、竜の実在はいらない
以前、友人がある言葉を引いて、私に贈ってくれた。
童話は現実よりも真実だ。竜が存在すると教えてくれるからではない。竜は倒せると教えてくれるからだ。
実にいい言葉だ。
私たちの信じるものが「竜は存在する」を超え、「竜は倒せる」にまで届けば、喜多川の応答に私が読み取った「自由」も、アレクサンドロスの剣も理解できる。そして『ペルソナ5』そのものが、その瞬間に一つの渦となる。現実と虚構、偶然と必然、遊ぶ者と遊ばれる者を、一つに巻き込む渦となる。反対に、なおもプラチナトロフィーを取るための道具、暇つぶし、虚構としてしか見ないなら、それは一枚のディスクでしかない。何を言いたいのかわからない物語が入った、ただそれだけのものだ。
どちらが正しく、どちらが間違っているのか。私にはわからない。
編者注
元达南兄は、美しい言葉と冷静な分析を両立させている。本文の「物化」は、ルカーチの意味で用いられているのではない。本文に即して言えば、(他の)人間を客体として、自然界の物と同じように一連の因果関係に組み込み、手段と目的をめぐる道具的合理性だけで捉えることを指している。