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必ず遅れてくるメシア――アニメ『THE ビッグオー』の一解釈

巨大ロボットという第二の身体、怪獣と神的暴力、記憶喪失都市の歴史的時間を手がかりに、斑鸠が『THE ビッグオー』においてメシアの救済がいかに遅延し続けるかを論じる。

著者: 斑鸠翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · complete work

『THE ビッグオー』「YE GUILTY」タイトル画像

本稿は屋頂現視研「拾荒戦略 Rags Drum 2020」前夜祭後夜祭の受賞作である。

はじめに

本稿は、1999年から2003年にかけて放送されたサンライズ制作のロボットアニメ『THE ビッグオー』を対象とする。日本のロボットアニメと特撮怪獣映画のジャンル的伝統を分析し、ユダヤ=キリスト教のメシア概念を用いることで、いくぶん急進的な解釈の道筋を組み立てようとするものである。二十世紀の世紀末は、キリスト教的世紀の末でもあった。誰もが気づかぬうちに、文化的な意味でキリスト教徒になっていたのである。ここでの解釈は、テクストを何かへ還元する分析でも、理論のために作品を引き合いに出す「六経我を注す」式の語りでもない。理論がテクストを解釈すると同時に、テクストもまた理論を解釈する、双方向の営みである。それによって、より複雑で多様な読み、さらには誤読のための空間を開くことを目指す。

一 鋼鉄の身体と規律化された身体

横山光輝が鉄人28号と金田正太郎の出会いを初めて描いたとき、巨大ロボットというイメージがこれほどの熱狂を呼び、後の数十年を通じて広大で息の長い創作ジャンルへ育つとは、必ずしも想像していなかっただろう。だが時代を追ってこのジャンルの巨大ロボットを眺めると、その表現に一つの変化が見えてくる。戦う巨大ロボットが、明らかにますます「言うことを聞かなく」なっているのだ。エヴァンゲリオン初号機は暴走し、ユニコーンガンダムはパイロットを取り込む。ロボットに乗り込み、怪獣や敵を単純明快に倒せばよかった「古きよき時代」は、どうやら過ぎ去ってしまった。

巨大ロボットが人間にとってもう一つの身体であることは疑いない。開発者によって息子正太郎の代替物とされた鉄人28号や、半身不随となった三日月オーガスの手足となるガンダムバルバトスがそうである。アニメを見ていれば、演出がロボットとパイロットの同一性を強調する場面をすぐに見つけられる。ロボットが攻撃されると同時に、コックピットの操縦者も苦痛の表情を浮かべるという古典的なカットがその一例だ。機械の身体は、コックピットの中にいる者の身体でもある。「言うことを聞かない」演出は、その同一性を瓦解させるように見える。しかし現実の肉体は、意識と完全に同一なのだろうか。意識によって余すところなく制御できる身体という観念は、啓蒙以来の主体概念に基づく近代的構築物にほかならない。身体は病み、傷つき、予期せぬ経験にさらされ、主体の意志に背く行動をとる。思春期の少年少女にとって、このことはいっそう明白だ。成長とともに身体はますます未知で制御不能なものとなり、朝起きれば夢精していたり、月経が始まったりする。これほど多くのロボットアニメがこの年頃の主人公を描くのも不思議ではない。身体には、言葉では容易に輪郭を与えられない複雑な次元がある。フーコーが述べたとおり、「魂は身体の牢獄である」。

この身体性の問題に続けて、ロボットの操作方法の変化にも目を向けてみよう。金田正太郎はリモコンで鉄人28号を操り、兜甲児は頭部に合体する小型機、ホバーパイルダーからマジンガーZを操縦する。1979年の『機動戦士ガンダム』に登場する機体の多くは、胸部ないし腹部にコックピットを備えている。これは技術に対する態度の変化としても読める。鋼鉄の身体は、まず単なる対象、すなわち主体の外部にあり、リモコンで操作される完全な他者であった。それが次には、主体に属し、しっかり掌握できる身体となる。操縦者は、一般に身体の「司令部」と考えられる頭部に位置する。そして最後には、主体がその内部にすっかり身を置く身体となる。

身体には何ができるのか。身体と主体は同一でありながら、内的に分裂している。身体は感覚的な思考、非主体的な性質を備えることができる。それは「主体が生成するときに排除しなければならない、主体内部の他性」である。もっと簡単に言えば、自己を同一で連続した主体として想像するためには、その像に収まりきらない部分を排除しなければならない。ここに逆説がある。ロボットは他者として想像できる一方、身体の延長とも見なせる。だから主人公はコックピットの奥深くで、ずっと内側に抑圧してきた他者と、いつか向き合わざるを得ない。碇シンジが初号機に見いだす残虐性は、実のところ彼自身が抑圧してきた残虐性でもある。

もう一つの逆説は、巨大ロボットが、一方ではあらかじめ用途を定められた身体だという点にある。殺人兵器、生産手段、明確な用途を持つ機械として造られている。他方では、そうした既定の道筋への抵抗、主体の権力からの逃走路をも生み出す。したがって逃走は二重である。一つは用途からの逃走であり、たとえば∀ガンダムは洗濯物を干すために使われる。もう一つはパイロット=主体の意志からの逃走である。『機動戦艦ナデシコ -The prince of darkness-』の終幕で、ブラックサレナの顔を伝うものは、機械油ではなく涙だったに違いない。物語は、この背反する緊張のうちに潜んでいる。

THE ビッグオー』に登場する「ビッグ」系ロボットも、この伝統に属している。全編を通じて彼らは「沈黙する主人公」であり、パイロットなしに行動し、自らの意志で操縦者を選ぶ。しかし同時に操縦者を必要とし、常にその操縦者と精神的なせめぎ合いを続けている。油断すれば、操縦者は呑み込まれかねない。作中で、主人公ロジャーのロボット、ビッグオーが持つ力を「神の力」と繰り返し強調するのは示唆的である。ロジャーがビッグオーを操縦するたびに、必ず次の銘文が現れる。「Cast in the name of God, ye not guilty(神の名において鋳造された。汝ら罪なし)」。

ここから本作を読むもう一つの次元、すなわちユダヤ=キリスト教的なメシア物語の次元が開かれる。

二 怪獣の罪と罰、あるいは神的暴力

ヒロインのRドロシーウェインライトにも、ある種の物語的伝統の影響が認められる。『天空の城ラピュタ』や『ふしぎの海のナディア』のヒロインのように、旧時代の破壊的技術を携え、他者の深淵へと通じる少女である。物語はまた、彼女が世界に救いをもたらす「神の子」なのかもしれないと示唆する。第11話では老執事ノーマンが、ドロシーの誕生日はちょうどクリスマスだと語る。彼女は技術の二面性を体現している。

ここから、あえて暴力的な読みを展開することができる。ドロシー、ロジャー、ビッグオーは三位一体をなす。「ye not guilty」の「guilty」は原罪を指し、地上でただ一人罪なき者たりうるのは、救いをもたらすキリストだけである。物語の中盤以降には、さらに多くの結びつきが現れる。第16話と第17話では、信徒たちが街を飾り立て、終末をもたらす破壊の力の降臨を幾度も呼び求める。祝祭のただ中で、すべてを洗い流す最後の日を求める光景は、紛れもなく黙示録的である。だが残念ながら、一話完結ものの伝統どおり、その呼び声に応じて姿を現した巨大怪獣は、最後にはロジャーの操るロボットに倒される。

画面に現れる怪獣は、ほとんど抗うことのできない暴力であり、終末をもたらす天災の化身である。しかし天災が、いつも純粋な天災であるとは限らない。それを天災と想像することは、責任を切り分ける一つの方法かもしれない。台風が気まぐれな現象であることは確かだが、その猛威は、長年にわたる人間活動が地球環境全体にもたらした破壊と無関係ではない。怪獣映画も同じである。破壊の力として現れる怪獣は、登場人物の行為が招いた結果を拡大したものかもしれない。原爆の傷がなければ、初代ゴジラは生まれただろうか。この意味で、怪獣映画は「人間」についての映画であり、それ以外ではありえない。さらに一歩進めよう。怪獣は人物の行為を外在化したものだが、行為主体から切り離されることで、完全に未知の他者として想像される。その結果、本当に向き合うべき対象はある程度覆い隠されてしまう。

他方、怪獣という像は、危機が解決できるという暗示も生み出す。天災が捉えどころのないものであり、台風や地震を「殺す」ことなど誰にもできないと、私たちはよく知っている。しかし怪獣には生命があり、権力による統治の対象になりうる。急進的に言えば、怪獣退治でさえイデオロギー的なのである。怪獣が倒されることは、登場人物の危機が想像的に解決されたことを意味し、すべては再び日常の静けさへ帰っていく。事態が依然として宙づりで、物語内部には矛盾が満ち、無数の問いに答えが出ていないと、私たちには分かっているにもかかわらず。

アニメに戻ろう。以上を踏まえれば、各話で主人公が巨大ロボットを操り怪獣と戦うという行為は、次のように組み替えられる。ロジャーこそメシアである。ビッグオーはその真の身体である。メシアは、人々の「罪の化身」を打ち倒すことで、その罪を贖う。だが議論はここで終わらない。怪獣に帯びる神性にも注意しなければならない。たとえばゴジラは、漁民の語りでは海神である。非合理的な巨大暴力への崇拝は、人類の深い記憶にずっと刻み込まれてきたように見える。あらゆる「敵味方同源」の物語と同じく、「神の力」を操って怪獣と戦う主人公は、ここで自らの裏面、自らの像を暗く補完するものに出会う。メシアが理性の統御と、身体内部の他性との均衡を意味するなら、怪獣は理性の縄を振りほどくものだ。徹頭徹尾、身体の亡霊であり、すべてを破壊する情念なのである。

ここで想起されるのが、ベンヤミンの神的暴力(divine violence)をめぐるジジェクの議論である。神的暴力とは、構造に閉じ込められた者による最後の非理性的な爆発である。ほとんど誰もが経験する官僚的な責任のたらい回しを考えてみればよい。「手続きに従ってください」と言われる。すべてが整然として見えるとき、不満は自らを表現する言葉さえ失う。ならば、それが自らを表す唯一の仕方は何だろうか。神的暴力は意味を拒み、あらゆる深層的な解釈を拒む。天災のように、現行秩序の純粋な否定としてのみ出現する。目的を持たず、ただ破壊するためだけに行動する怪獣は、この神的暴力を象徴化する試みとして読める。これもまた黙示録的な暴力である。主人公が怪獣を倒すたび、黙示録の到来もまた先送りされる。それはユダヤ教のメシア観を思い起こさせる。メシアは常に遅れ、いつも「まもなく来る」はずなのに、いつまでも来ない。その到来後の時間は、永遠の救済の時間である。到来前の時間は、過去と未来が、消えゆく現在の一瞬に交わる時間である。メシアを待つうちに、待つことは果てしない自己延期と自己実現の運動に変わる。

三 メシアの時間

「私の名はロジャースミス。この記憶喪失の街で必要な仕事をしている

この独白から、四十年前に原因不明の大災害が起こり、世界中の人々が記憶を失ったことが分かる。記憶がなくても、機械の使い方さえ分かれば、世界は変わらず動き続ける。生存者たちは廃墟の間にパラダイムシティを築き、ありふれた生活へ戻っていった。しかし忘れられたはずの記憶が、ときおり亡霊のように襲来し、さまざまな騒動を引き起こす。手に負えなくなれば、主人公ロジャーはビッグオーに乗り込み、「機械仕掛けの神」となって問題を片づける。つまり、怪獣や隕石やロボットのたぐいを暴力的に破壊するのである。

この文脈で、登場人物が失ったものは「記憶」というより「歴史」である。主人公ロジャーの視点に立てば、これはとりわけ明らかだ。彼は二十代にすぎず、一見したところ集団的な記憶喪失は彼とあまり関係がない。記憶喪失を嘆くことは、失われた過去を悼む行為でしかない。パラダイムシティは歴史を失った街であり、そこに住むのは歴史を失った人々である。彼らは記憶を失っただけではない。より深い次元で、記憶が記憶として形づくられる可能性そのものを失っている。

ここで注意すべきなのは、「歴史を失った」ことが「歴史がない」ことと同じではないという点である。失ったという言葉は、かつてある歴史が存在し、それを取り戻せる可能性をも示唆する。人々が取り戻したい歴史とは何か。大都市の崩れた壁でも、廃墟に残る旧時代の哀れな遺物でもないことは明らかだ。もちろん、それらもまた歴史、断片化した歴史ではある。人々が求めているのは、主体が奪われたと想像する、言葉にならない「現実界の原質」である。それは潜在的な位置にあり続けながら、絶えず主体を悩ませ、完全なものになることを妨げる。失われた記憶は、そもそも存在しなかった。しかし「存在しないのに存在すると信じること」は不可欠であり、かえって主体を形づくる。アニメの急進性は、その過程に可塑性があると示した点にある。過去は固定され、不変のまま存在するのではない。作中の台詞に「想像と記憶は同じものだ」とあるように、行為によってつくり変えられる。

ここでは一つの転倒を行わなければならない。歴史が現在をつくるのではなく、現在が歴史をつくるのである。ロジャーの「回想」を例に取ろう。物語内の時間では、まず過去があり、人物の行動はその過去に応答する。だが語りの時間では、人物の行動が先にあり、潜在していた過去が呼び出される。時間に沿って展開する直線的な因果関係ではない。反対に、現在の出来事が記憶を再び目覚めさせ、遡及的に一つの物語を構成する。現在に出来事がなければ、過去も現れない。ここで呼び求められているのは共時性である。過去、現在、未来が同時に現れ、互いを決定する。それは啓蒙的物語の均質で直線的な時間観とは異なる、「メシアの時間」である。

しかし、メシアは来ない。

四 遅れて、それともいま?

「メシアは、もはや必要とされなくなったときに初めてやって来る。到着した翌日に初めて到着する。最後の日ではなく、いちばん最後の日にやって来る。」

——フランツカフカ「メシア」

ビッグオーという名には、すでに物語の暗示が含まれているのかもしれない。Oには始まりも終わりもなく、ただ無限に自己循環する。物語の終幕で、パラダイムシティの真相が明かされる。すべては虚構だった。一定の時が経つたびにビッグヴィヌスが目覚め、世界を破壊し、初期化する。街の上空に残された舞台照明の残骸の下で、同じ芝居が何度も繰り返される。ロジャーは交渉によってビッグヴィヌスを説得し、世界の循環を終わらせることに成功した。

先に論じた歴史観と同じく、これも啓蒙的物語を構成する直線的な時間への大きな反逆である。輪廻の物語とメシアを待つ物語が似ているのは、どちらも自らを指し示す点にある。ビッグヴィヌスが再び循環を始動するとき、私たちが感じるのは徹底した否定性の力である。現在の世界をすべて破壊し、初めからやり直そうとする力だ。この否定は、まさに神的暴力と重なる。

世紀末のメシアとは、待たれるメシアである。メシアは本当には到来せず、自らの到来を幾度も先延ばしにすることで救済の物語の完全性を保ち、終わりなき待機の延期のうちに自らを実現する。だが本当の問題は、「まもなく到来する」のでなければならず、「すでに到来した」ではいけないのはなぜか、ということだ。

ここから、アガンベンのメシア的時間論のように、さらに急進的な思考を展開できる。現存するすべての時が、メシアの時になりうる。現在の一瞬一瞬が、遡って掘り起こされることによって、メシアの到来を構成しうる。カフカは「メシアは到着した翌日に初めて到着する」と書いた。それは作中の記憶をめぐる議論と、まさに一致するのではないか。メシアは未来への約束ではなく、いまこの時に立脚する行為である。さらに問おう。物語の最後に、未来を約束するメシアは本当に救いをもたらしたのか。もっと簡単に言えば、世界は本当によりよくなったのか。

ここで私たちが出会うのはメシアの救済ではなく、メシア物語の普遍的な失敗である。結局、メシアは何も変えなかった。結末では黙示録の時が反復される。ビッグヴィヌスが街を歩き、その行く先で万物が無へと帰していく。ロジャーの対応も、それまでの一話完結の物語をまた反復する。交渉を成功させることで、本当のメシアの到来をもう一度先送りにしたのである。一方では時代の制約だったと言える。他方では、想像力の機能不全だったとも言える。まったく異なる変革の瞬間を、私たちはどう想像すればよいのだろう。

私たちに本当に必要なのは、終末を前にしても生き続ける強さではないのかもしれない。すべてが初期化された後に生まれる世界が少しもよくならず、同じ悲惨な輪廻へ再び足を踏み入れるとしても、それでもすべてを無条件に肯定する勇気ではないか。破壊的な輪廻から脱し、世界を存続させるだけで、必ずしも救済になるわけではない。あらゆる再生を肯定し、破壊の後に生まれるすべてを肯定すること。新しい始まりが同じ過ちを繰り返すだけだとしても、ためらわず肯定すること。それこそが、より急進的な救済への態度ではないだろうか。

物語はまだ続いている。メシアの亡霊はなおさまよい、身をかがめて跳躍する時を待っている。

本文終わり