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周縁文化と風俗店――無調の世界のレビューガイド

『異種族レビュアーズ』の風俗店描写を手がかりに、周縁文化とアイデンティティ・ポリティクスをめぐる多文化主義的な「寛容」を批判し、無調の世界における性的享楽、愛、真理を論じる。

著者: 治部少翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

『異種族レビュアーズ』のクリム、ゼル、スタンク

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2020年1月の新作アニメで何が一番よかったかといえば、だいたい返ってくるのは、『異種族レビュアーズ』以外は凡作ばかりだった、という答えだ。治部少は新作アニメを追いかけるほうではないが、友人に勧められ、途中からこの作品を毎週見るようになった。間違いなく近年まれに見る傑作であり、作品の狙いも発想の飛躍も、大いに論じる価値がある。驚きに満ちた作品だ。

傑作だからこそ、批判的に論じる価値もある。このアニメと原作が「風俗嬢」、つまり実際には売春婦を客寄せにしていることは疑いない。だが、物語の重心はあくまで「異種族」と、その異種族が平等に共存しているという異世界にある。なぜかそこには、多文化を尊重し、大きな物語を解体するポストモダン的状況まである。実際、中国のQ&Aサイト・知乎では複数の回答が、この作品を種族の平等と性解放を代表する作品とみなしている。この見方は滑稽だし、作品そのものが、まさにその滑稽さをあらわにしている。多様な文化を尊重するからといってパロディを真に受けるなら、現実の多文化主義そのものが笑い話だということにしかならない。

1. 風俗店流の周縁文化の尊重

知乎に、『異種族レビュアーズ』には女性をモノ化する傾向があるのか、という、かなり愚かな質問がある。なぜ愚かかといえば、そんなことは疑うまでもないからだ。風俗業とは人が自分自身を商品にすることだ。これはほとんど自明だろう。風俗嬢自身が遊んでいるだけだとか、自分の欲求や欲望を満たしているのだと言うことで、小さな抵抗が生まれると考えることはできるかもしれない。だがそれでは、彼女たち自身のモノ化に、記号の次元でさえ抗えていない。

そこで持ち出されるのが、自分たちの道徳を他の種族に当てはめて理解するな、という考え方だ。言い換えれば、他の種族には「私たち」とは明確に隔てられた、まったく異なる道徳や倫理、生活様式があるのだから、問いを突きつけることを一切やめ、そのまま許容すべきだという。そんな考え方を、周縁文化への尊重と呼べるだろうか。結局は周縁文化へのステレオタイプを生み続け、まなざしを向けられる側の周縁文化も、それに合わせて自らを見世物として組み立てることになるだけだ。たとえば、「日本文化には性のタブーなどまるでないから、女性は淫乱で、AV女優の地位は高い」とか、「黒人には責任感も家族観念もなく、女をもてあそぶことしかできない」と言い放つ。そのうえで「政治的に正しく」、それでも君は許容しなければならない、と説教するようなものだ。

これは、アメリカの文芸批評家エドワード・W・サイードが『オリエンタリズム』で伝えようとした、最も端的な論点と重なる。西洋の語る東洋は、西洋が組み立てた東洋にすぎない。そこでは、東洋自身が何を表現しようとも顧みられない。さらに言えば、西洋のいう東洋など、そもそも存在しない。西洋の言説によって生み出され、それが指し示すはずの現実に取って代わったものにすぎないのだ。

本作で風俗嬢は、サキュバス嬢と呼ばれている。日本の法律が売春を禁じながら「風俗業」は認めているように、この世界の風俗店も、売春婦ではなくサキュバス嬢なのだ、という名目で営業している。サキュバス(succubus)は西洋ファンタジーの設定では、人間との交わりで性的エネルギーを吸い取り、それを糧とする生き物である。種族としてのサキュバスが営む風俗店は禁じられなかった。おそらく、異種族には他種族の価値観を評価する資格などそもそもない、という原則のためだろう。そこで他の種族も、風俗嬢には実はサキュバスの血が流れているという理由で規制をすり抜ける。

もともと禁じられている、あるいは禁じられるべきものを、種族を理由に許容せよと求めること。言い換えれば、むき出しの性的搾取と性的抑圧が復活する口実を、種族の名のもとに与えること。それは抑圧と搾取を自然なこととして正当化するばかりか、種族に汚名を着せることでもある。そもそも、サキュバスをそのまま売春婦とみなしてよいのか。本作の第4話では、低級淫魔のサキュバス店の主な収入源は、買春客ではなくサキュバス嬢が支払う報酬だ。つまり、この作品が作り上げたステレオタイプの枠内でさえ、サキュバスは性欲しかなく理性を欠き、売春以外には合法的な収入源を持たない存在とはいえないのだ。

目を細め、不快そうな表情を浮かべるメイドリー。字幕は汚らわしさと気持ち悪さを表す
中国語字幕の訳:汚らわしい、気持ち悪い。

サキュバス店を擁護する理屈では、サキュバスの「生活様式」が「あらかじめ与えられ、変えようのないもの」として尊重され、さらには崇高なものとして祭り上げられる。だが、それにも増して奇妙なのは、サキュバス嬢のレビューとアイデンティティ・ポリティクスが交わるところだ。冒頭で語られるように、ここは人間、エルフ、妖精、妖怪、天使、悪魔と、さまざまな種族が共存する世界である。多様な文化があることに疑いはない。だが、この世界で周縁文化と主流文化は、いったいどのような関係にあるのだろうか。

第2話と最終話では、魔王デスアビスの宣伝大臣が、魔王の選挙演説の場で主人公たちと出くわす。そして悪魔党の支持率を上げようと、悪魔族のサキュバス店へ行き、レビューを書いて悪魔族のイメージ改善に協力してほしいと持ちかける。

ここには三つの問題がある。第一に、周縁文化は本当の意味では見てもらえない。第二に、主流文化が進んで周縁文化を知ろうとするのは、せいぜい「買春して知る」という安全なやり方に限られる。そして第三に、周縁文化が見えるようになり、声を上げられたとして、それで立場がどれほど変わるというのか。独立した主体ではなく、主流文化の欲望を向けられる他者にとどまるのではないか。悪魔族がサキュバス嬢のレビューを通じて主流文化に自分たちの文化を理解してもらおうとするなら、悪魔族の人々はいつまでも主流のまなざしに規定される側にとどまり、主体性を失うほかない。黒人といえば「歌、ダンス、ラップ、バスケ」だと決めつけられていたら、その周縁の共同体に生きる人々の実際の姿など、誰が気にかけるだろう。

ここでモノ化されているのは、他種族の女性だけではない。作り上げられた他種族そのものもまた、モノ化されているのだ。

「周縁文化は許容されるべきであり、そこに目を向けるべきだ」という考え方への批判は、よくある「ポリティカル・コレクトネスは行き過ぎだ」という批判とは違う。寛容は真の尊重ではない。行き過ぎどころか、まったく足りないのだ。主流が周縁に「媚びへつらいすぎている」のではない。主流は依然として、当然のように主人の立場で周縁に接しているにすぎない(ただし今では、にこやかに「子どもたち」の「個人の自由と意志」を尊重する主人だ)。足りないというのは、他者のために「尽くす」量が足りないということではない。秩序とシステムの全体に、解放をもたらす根本的な変化がないということだ。だからここに、行き過ぎた反人種差別やフェミニズムはない。あるのは、文化的優越を語る言説を取り払ったあとも残る、いっそう厚かましく、その存在を否認された人種差別主義と男性優越主義だけなのである。

青い背景の前に並ぶ、女性の姿になったクリム、ゼル、スタンク。右端には別の人物の一部が見える
中国語字幕の訳:これが『異種族レビュアーズ』。

異なる文化に属する人民、あるいは本来、人民の地位へと引き上げられるべき大衆を連帯させる方法は、「私たちの(絶対的な)差異を許容しよう」と唱えることではない。私たちは何を許せないのかを共有し、人類を解放する同じ闘いのために結びつくことだ。自分たちの主流文化の価値観で読み替えられた、偏見だらけの差異を受け入れるのではない。互いの絶対的な差異を尊重するが、必ずしもそれを受け入れる必要はない。

スロヴェニアの哲学者ジジェクの言うように、キリスト教の説く「自分自身を愛するように隣人を愛せよ」は、「自分自身を恐れるように隣人を恐れよ」であるべきなのだ。1恐れを伴わない寛容よりも、恐れこそが真の愛である。また、知乎の回答者「实在狗子」が述べたように、真の交流とは他者の他者性を保つことだ。他者(悪魔、エルフ……)と本当に対等な交流をするには、理解も許容もできない他者の他者性を認め、尊重し続けなければならない。「許容できる異文化の生活様式」という単純で乱暴な言葉で、それを消し去ってはならない。これはまた、人種差別主義者が多文化主義と同じものとして片づけるような「お花畑のお人好し」の振る舞いでもない。つまり、「他者を私から救い出して、初めて私は自分自身を救える」ということなのだ。

2. 無調の世界における性

本作は一見、中世西洋風のファンタジー世界を舞台にしながら、その経済的土台(生産力ではなく、生産関係のことだ)にはそぐわないポストモダン的状況を備えている。それは、異種族や周縁文化を許容するというルールだけにとどまらない。主人公たちに染みついたニヒリズムと、真理を欠いた社会意識にも表れている。第1話でスタンクとゼルは、魔獣に倒された天使クリムを助け、天界に帰れなくなったクリムを受け入れる。ただし、回復したら自分たちを天界に連れていってほしいと言う。天界のサキュバス店を見てみたいからだ! それどころか、天界のサキュバス店では女神が客を取るのか、という話まで始める。これを神への冒涜とみなせるだろうか。いや、冒涜ではない。この発言はなお、神と人との隔たりを認めている。では、何を示しているのか。神が体現する真理よりも、神と寝てみたい――そういうことだ。この発言は、いわゆる神々を冒涜しているのではない。神の背後にある真理を真剣に受け止めようとしない態度を示しているのである。

戸惑った表情の、紫髪の小柄な人物。中国語字幕で、周囲に迷惑をかける遊び方はだめなのかと尋ねている
中国語字幕の訳:周りに迷惑をかけるような遊び方はNGなの?

これは、あのスケベな主人公たちだけに限った話ではなく、社会全体に広がる空気だ。本作の設定では与党はオーク党で、選挙で選ばれた国王は半ば豚の姿をした人物である。その政策は、食糧生産を重視して食糧価格を抑え、商業への税を減らして商品の流通を促し、予算が余ればすべて風俗業の発展につぎ込むというものだ。人々が思いのままに、美食も商品もセックスも存分に楽しめるようにする。要するに、誰もが享楽に浸り、何一つ考えなくてすむようにするのだ。一見、これは消費主義のユートピアである。だが、際限なく「享楽せよ!」と命じる超自我のもとには、守り抜くに値する価値も、愛するに値する真理や知恵もなく、ただ終わりのない享楽だけがある。

フランスの哲学者アラン・バディウは「無調の世界」という概念を論じた。2ジジェクはバディウの『世界の論理』を引きながら、次のように説明している。1

世界の複雑さは無条件に肯定されなければならない。世界に秩序を押しつけようとするあらゆる主人のシニフィアンは、脱構築され、抹殺されなければならない。

その内実を、ジジェクが引くバディウの言葉はこう表す。

実のところ、無調性(atony)を求める欲望が一般化したものにすぎない。

しかし今から見ると、ポストモダン的状況のこの特性を、秩序の解体と規定するのは適切とは言いがたい。これは、関連する思想潮流が生まれたころの解放的な実践ではない。それらがすでに秩序に取り込まれた結果にほかならない。

世界の複雑さは無条件に肯定されなければならない。だから、現にある秩序も無条件に肯定されなければならない。解放をもたらす真理の立場から何かを主張しようものなら、大きな物語による抑圧の体系を築こうとしているのだ、とされる! 要するに、現存する秩序は、偽りの真理で統治する代わりに、今度は臆面もなく力関係に頼り、「イデオロギーとは無縁」を装うニヒリズムによって統治することを選んだにすぎない。抵抗の思想と歩調を合わせて真理を解体し、主人の言説が消えれば抑圧も消えたのだと思わせる。それでも、誰も見ようとしない「部屋の中の象」は、ずっとそこにいる。

本作では、主人公たち、とりわけスタンクが、「食酒亭」の給仕である有翼人のメイドリーに好意を寄せていることは、すぐに見て取れる。メイドリーも、馬鹿なことをする主人公たちをいつも腕力で懲らしめてはいるが、明らかにずっとスタンクを気にかけている。実に残念なことに、結局ここには恋愛が生まれなかった。とはいえ、予想どおりでもある。歓楽街をうろつくことしか知らない連中に、どうして愛が生まれるのか、想像しがたい。本作でスタンクたちがメイドリーに示す好意は、すべて、ただ相手を踏みにじるようなセクハラと、欲望のままにセックスを迫る愚かな振る舞いに変わってしまう。最終話でもそうだ。年越しの夜を明かしたあと、スタンクたちは新年最初の夜にどの店へ行こうかと話し合う。有翼人のサキュバス店は遠すぎるからというので、スタンクはメイドリーに尋ねる。

スタンクに誘われ、包丁を手に笑顔を浮かべるメイドリー
中国語字幕の訳:今夜、一発……。

『暴力』の「無調の世界における性」の節で、ジジェクは、ウエルベックの『ある島の可能性』が描く性行為の全面的な商品化について、ニコラス・サブロフの評を引いて、次のように論じている。1

性は絶対に必要なものであり、性を拒むことは生気を失うことに等しい。したがって愛は性なしには成り立たない。だが同時に、まさに性のために、愛は不可能になる。性は「後期資本主義の支配の縮図となって広がり、人と人との関係を永遠に汚してしまった。それは、リベラルな社会の非人間的な性質を、不可避的に再生産するものだ。性は愛を、その本質から破壊してしまった」。

ジジェクはさらに、「性は愛を可能にすると同時に、不可能にもする」とまとめる。

ここで注意しなければならないのは、この「性」が指すのは母性的超自我に奨励される性的享楽であって、トラウマをはらむ〈存在しない〉性関係ではないということだ。この愚かな享楽には、性がはらむトラウマも、性的な対象となる相手の、深淵のような他者性も欠けている。だからこそ、性関係における愛のラディカルさ、つまり前節で私が論じた、自分を恐れるように他者を愛するということが、結局は失われてしまう。この性は二人のあいだの性関係ではなく、他人の身体を介しただけの、愚かな自慰にすぎない。

ゼルの顔と、手前の小柄な人物、背後の人物。字幕は世の中にはいろいろな人がいると述べる
中国語字幕の訳:世の中には、本当にいろいろな人がいるんだね。

しかし、「無調の世界における性」が愛を不可能にするとしても、問題の核心は性ではなく、無調の世界のほうにある。そうした性がこの世界の縮図であることは、その点を変えない。バディウの議論を踏まえて言えば、自覚しているかどうかにかかわらず、愛はつねに真理を愛している。愛を不可能にするのは、性的享楽の氾濫だけではない。その氾濫の背景にある、真理の解体なのだ。愛は死んだ。真理は死んだ。というより、いかなる意味も残っていないこのポストモダン的状況では、「何かがまだ生きているとしたら、そのほうが驚きだ」。

だが、この状況を告発することは、決して旧来の権威や伝統に戻れということではない。真理は結局、語りえないものであり、かつて真理の座を占拠していた主人のシニフィアンは、確かに死ぬべきだったし、よみがえることもできない。しかし、すでに述べたように、ポストモダン的状況において「イデオロギーとは無縁」だと称することは、現存する(無)秩序を「自然なもの」「常識」として無条件に肯定することでしかない。「抑圧に反対する」という名目のもとで、本当に解放をもたらす意見を全面的に抑え込むことにほかならないのだ。だから、真理は結局、語りえず、到達もできないとしても、哲学、すなわち「真理を愛すること」への要求を、もう一度呼び起こさなければならない。私たちはもっと遠くへ進まなければならない。私たち自身を解放するために。

本文終わり
注02

注釈

  1. 『暴力』の引用と節名の対応箇所は Slavoj Žižek, Violence: Six Sideways Reflections, Picador, 2008, pp. 30, 34–36、および第2章題(p. 40)。性をめぐる引用の内側のかぎ括弧はサブロフの書評からの孫引き。第1章の出版社公開本文。 ↑ ↑ ↑

  2. 訳注:「無調」は無秩序という意味ではない。ここでは、世界の多様な事物に意味の秩序を与える中心となる「主人のシニフィアン」の働きを欠くことをいう。ジジェク『暴力』第1章。 ↑

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