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視差から見えるもの、私たちが見落としているもの——アニメ『天体のメソッド』をめぐって

『天体のメソッド』の現実と七年前の記憶との断絶を出発点に、ジジェク、ラカン、ヘーゲルを手がかりとして、視差、主人のディスクール、ヒステリー的主体、そして結末における脱神秘化を論じる。

著者: Ludwigsama中国語版校閲: 子厚中国語版編集: 伦勃朗翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文校閲: 子厚 · 中国語原稿編集: 伦勃朗 · 中国語原稿

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Ludwigsama

才能?ないよ!

編者より:本稿はかなり難解です。読者の皆さま、どうかあらかじめそのつもりで、広い心でお読みください。

一 視差による分裂

アニメ『天体のメソッド』では、相容れない二つの場面が互いに作用していることがはっきりとわかる。一方には七年前の主人公たちの記憶にある天文台があり、もう一方には乃々香が帰ってきてからの街がある。そこに見えるのは、「現実」と「前史」のあいだにある、還元しえない差異だ。「現実」としての現在と、「前史」としての記憶。通俗的なヘーゲル流の見方なら、こうなるだろう。前史は、潜在する何らかの「神秘的な要因」として、初めから歴史全体の行方を決めている。たとえば、七年前の「原初の関係」が主人公たちに「言葉にしなくても通じ合えるという感覚」を生み、それゆえ七年後の危機に際しても、主人公たちは「互いを理解できる」のだ、と。

では、この見方の誤りはいったいどこにあるのか。

ここで気づくべきなのは、そこに潜むイデオロギーの誘惑である。イデオロギーは外的な社会関係を内的な心理的特徴へと変換する、とジジェクはいう。この誤認の背後に潜んでいるのは、まさしく幻想を遡及的に構築しようとする試みではないか。真にラカン=ヘーゲル的な見方は、これとは正反対だ。二つの場面の関係は、けっして通時的なものではなく、共時的なものである。ここには互いに対立する二つの視野がある。その対立はカント的な対立、叡智界と現象界との対立だ。一方はすでに過ぎ去り、純粋な思い出となった幸福な子ども時代。もう一方は情熱と不安に満ちた青春の日々である。繰り返しておこう。この二つのあいだには断絶がある。この二律背反を扱うには、視差という次元を導入しなければならない。視差的対象は、この断絶を基盤としている。それはどこまでも還元しえない未知の要因であり、視野を移すとき私たちの前に立ちはだかる障害であり、最もラディカルなトラウマの核なのだ。

フィッツジェラルド『夜はやさし』の中国語版『夜色温柔』の表紙

ジジェクは『パララックス・ヴュー』で、フィッツジェラルドの『夜はやさし』の二つの版——時系列順に語る版と、過去へ遡ってから現在へ戻る版——における物語の失敗を論じ、鋭く指摘している。「ここで私たちが出会うのは、純粋な視差の機能である。二つの版の分裂は還元できない。この分裂こそが、二つの版の真実なのだ」。『夜はやさし』が陥った難局とは、まさに視差の難局ではないか。一方では、時系列順の語りがイデオロギーによる神秘化の罠に落ち、語り全体が嘘に満ちたものに見えてしまう。先ほどの通俗的なヘーゲル主義の誤りを犯すのだ。他方、回想を挟む語りでは、話が唐突に映ってしまう(「現在から過去への跳躍には説得力があるのに、過去から現在へと跳び戻ることには失敗してしまう」)。フィッツジェラルドが見落としたのは、精神分析で最も重要な要因にほかならない。物語のなかの不在の原因、象徴化から絶えず逃れる対象aである。それゆえ物語は行き詰まり、できることはただ「敗北を認め、二つの版を提示することで、差異そのものを認める」ことだけになる。

ところが『天体のメソッド』には、別の解決策を見いだせる。二つの場面のあいだにある、避けようのない物語の裂け目を前に、久弥直樹は「収縮」という構えを取った。『天体のメソッド』は時系列順の語りも、過去へ遡ってから現在へ戻る構成も選ばず、七年前の前史を記憶の形で現実のなかに織り込み、縫い合わせている。アニメでは、七年前の天文台の記憶はつねに、どこかロマンティックに彩られた形で描かれる。主題歌が流れたり、独特の画面処理が施されたりする。七年前の場面はいつも断片的で、曖昧で、不完全だ。ヴェールをかけられることで、それはまるで現実から独立した理想の彼岸になったかのようである。言い換えれば、久弥直樹は七年前の前史を完全な形で描くことを犠牲にし、それを神秘化して「現実を描く本筋」を補うものへと変えることで、フィッツジェラルドの陥った行き詰まりを回避した。この過程で、七年前の場面は〈もの〉へと高められ、現実と厳密に対立する欲望の対象となったのである。

私たちは問わずにいられない。こうした奇跡的な縫合は、いったいどうして可能になるのか。それに答えるには、さらに一歩進み、先ほど触れた「収縮」という身振りを掘り下げる必要がある。ここでいう「収縮」は、もちろんシェリング的な意味での収縮だ。ジジェクの言葉を借りれば、収縮は原初における自己退却である。そこに見て取れるのは、無を前にした、歓びに満ちた不安をはらむ原初の静けさから、禁止への移行だ。

『天体のメソッド』で起きていることも、まさにこれではないか。

まずあるのは、原初の——物語の設定における——行き詰まりであり、現実のなかの和解しえない矛盾であり、目前に迫る物語の失敗だ。この失敗に、私たちは欲動の構造を見る。繰り返し痙攣するように折れ曲がる構造。物語はこの行き詰まりのために、少しも先へ進めない。欲動は、混沌とした現実界という深淵の周囲を旋回し、トラウマ的な核として物語全体の根底に刻み込まれている。作品のなかでそれは、乃々香とほかの四人の主人公とのあいだに、共通するものがまったくないという形で現れる。問題の焦点は、七年前の天文台での美しい思い出ではない。何の前触れもなく、突然この街へやってきた主人公、乃々香なのだ。アニメを見れば、彼女の突然の出現に汐音が戸惑っていることはすぐにわかる。

これは何かを示唆してはいないか。このとき乃々香は、まさにフロイトのいう「隣人」ではないか。彼女は恐るべき異質な存在であり、ほかの四人の主人公とは、実質的な意味での交流がいっさい不可能なのだ。共通の幻想=記憶による保証がなければ、四人が見ず知らずの転校生と関わりを持つとは考えにくい。ここで私たちは、最もトラウマ的な事実に向き合わされている。そもそも間主体性などなく、大他者は存在しない。要するに、これは沈黙の危機なのだ。そこには物語全体を失敗へ導く危険が潜んでいる。

次に来るのは、それを語ろうとする試みである。ここで現実と前史という、互いに対立する二つの場面が生まれる。注意すべきなのは、その誕生がまったく偶然的だということだ。一方では、七年前の天文台にいた五人の、いわゆる「通じ合い」を裏づける実証的な根拠は何一つない(皮肉にも、作者は結局、この「通じ合い」という幻想をつなぎとめるために、ひどく神秘めいた未知の存在——ノエル——に頼らざるをえなくなる)。他方、先ほど述べたとおり、象徴秩序の導入には、シニフィアンによる最初の隠喩が伴い、そこにはつねに割り切れない余りが生じる。これは疎外という過程を、このうえなくよく説明しているのではないか。言い換えれば、ここには互いに対立する二つの産物がある。一方は、主体化の過程で「行儀よく飼いならされた」隣人である。もう一方は真の無意識の主体、主体化の過程を絶えず脅かす残余だ。こうして主体はシニフィアンの秩序によって徹底的に引き裂かれ、斜線を引かれた主体となる。

『天体のメソッド』の青空に浮かぶ円盤

最後に、幻想の次元が立ち現れる。いま目の前にある危機を、もう一度確認しよう。もはや危機はテクスト全体を貫く沈黙ではなく、異なる視野が絶対に互いへ還元できないということにある。両方を完全なまま保つ方法はない。私たちにある選択肢は二つだけだ。分裂を認めるか(フィッツジェラルドの選択)、一方を完全な形で描くことを犠牲にして物語の一貫性を得るか(久弥直樹の選択)。言い換えれば、主体は自らを言語の主体として前提するが、その前提を置く身振りが、その企てをつねに脅かしている。ここで私たちは、禁止の到来を目撃する。禁止は七年前の前史に神秘のヴェールをかけ、聖なる〈もの〉へと変える。

アニメでこの禁止に対応するのは、街の上空に浮かぶ、近づきがたい崇高な対象——円盤——ではないか。円盤こそ、純粋に非人間的な証人であり、禁止を課す大他者の化身ではないか。主人公たちが七年前の子ども時代を思い出すとき、回想はいつも、円盤が突然現れたところでぷつりと途切れる。これは単なる偶然なのか。(とりわけ気になるのは、七年前に主人公たちが円盤を呼び出したときの場面が、アニメでは一度も直接描かれないことだ。)

忘れてはならない。イデオロギーによる神秘化の本質とは、まさにこうした残余の効果なのである。禁止という言葉の字面にとらわれ、それを冷酷な戒律と理解してはならない。それどころか、禁止はつねに欲望とともに生まれる。それがもたらすのは、ある種の淫らな安定、存在しないものを夢想する可能性だ。物語のなかでいま私たちが目にしているものも、そのとおりではないか。ささやかで平凡な子ども時代の記憶が、主人公たちの思い焦がれる理想郷へと一変する。もともと並行していた二つの語りの視点は、次の二つへと姿を変える。一方には、不可能な核としての原初の記憶。もう一方には、それを取り巻くように築かれた日常/現実。ここまで来れば、久弥直樹がアニメに円盤という設定を導入した意味を、十分に理解できるのではないか。円盤こそが、偶然性を遡及的に必然性として措定したのであり、円盤こそが物語を行き詰まりから救い出したのだ。

二 主人と女

アニメのテクストを別の側面から見ると、ここにも象徴化の産物が見いだせる。数多くのシニフィアンのなかから抜きん出て、象徴秩序を固定する主人のシニフィアンだ。それはまさに、ノエルの口にする「願い」に対応してはいないか。願いは空虚で形のないものだが、〈もの〉と化した子ども時代の記憶と固く結びつき、主人公たちに、幻想の大義に身を捧げるよう呼びかける。アニメのなかでノエルは、まさにこうした主人として振る舞う。「願い」に対する彼女のこだわりは、いつも病的なほどで、何の理由もない。(何があっても乃々香と汐音にはにこにこしていてほしい、と彼女は願う。)ノエルは主人公たちの行動に意味を与えて、その関係をつなぎとめる。貧しく何の魅力もない日常を、ある目的に向けて努力を重ねる日々として遡及的に位置づけるのだ。一方では主体の分裂を覆い隠し、他方では知(知識)のシニフィアン(S2S_2)を駆り立て、自らの大義のために奔走させる。この過程で私たちは、別の角度から再び、欲望の対象=原因としての残余の誕生を目撃する。ここでそれは、主人が自分のものにしようとする残余である。

主人のディスクールの構造式。左は上にS₁、横線の下に主体を表す縦線入りのS。右は上にS₂、横線の下にa。上段のS₁からS₂へ右向きの矢印

こうしてノエルの正体がわかる。彼女は、知っていると想定された主体なのだ。では、それと対をなすもう一つの重要な存在、主人に構造上の位置を与えるヒステリー的主体はどうか。アニメでこの主体に対応するのは乃々香である。乃々香は自らの欠如を主人のシニフィアンへと縫い合わせ、主人への転移を通じて享楽する。ノエルがいるからこそ、乃々香は街と、そして円盤と結びつくことができるのではないか。主人公たちの契約はこうして成立する。空虚な形式に依存することと引き換えに、形式上のつながりを得るのだ。乃々香は主人のシニフィアン(S1S_1)に訴え、産物としての知(S2S_2)——七年前の記憶——を手にする。ここまで来れば、アニメを見ながら私たちが不思議に思った問いに答えられるかもしれない。なぜ乃々香は、初めのうち七年前の美しい日々をすっかり忘れていたのか。考えられる答えは一つしかない。知としての記憶は、幻想の知にすぎず、ヒステリー者のディスクールの産物なのだ。主人(ノエル)と出会って初めて、ヒステリー的主体(乃々香)はこの知を生み出せるのである。

ヒステリー者のディスクールの構造式。左は上に主体を表す縦線入りのS、横線の下にa。右は上にS₁、横線の下にS₂。上段の主体記号からS₁へ右向きの矢印

最後に、乃々香の幼なじみである汐音に目を向けよう。汐音は『天体のメソッド』の最もラディカルな次元を私たちに示してくれる。彼女は主人と厳密に対立する者であり、作品全体で唯一の「女」——ラカン的な意味での女——である。彼女には享楽の残余があり、それゆえ大他者の欠如と密接に結びついている。言い換えれば、七年前に乃々香が何も告げずに去ったというトラウマ的な出来事を、どのような意味でも美しい思い出に還元することを拒み、去勢のもたらす神秘化を認めようとしない。真に倫理的な主体は彼女だけなのだ。彼女が貫くのは、徹底した拒絶の身振りではないか。七年前に乃々香と流星群を見ようと交わした約束に執着しながら、乃々香から仲直りを申し出られると、何の理由もなく拒む。ここに、主人(ノエル)が被る屈辱を見るのは難しくない。汐音を前にして、ノエルは無力であり、進退窮まっている。汐音から投げかけられる問いに、ノエルは答えられない。一方では、自らの存在の一貫性を保つことができない(願いをかなえれば消えなければならない)。他方では、自らが存在することの正当性も説明できない(興味深いことに、久弥直樹も作品を通じて、この問いに正面から答えることはできなかった)。大他者の欠如、主人の威厳ある姿を支える空虚な身振りが、ここで余すところなく露わになる。

『天体のメソッド』の人物紹介誌面。水坂柚季、水坂湊太、古宮乃々香、ノエル、椎原こはる、戸川汐音の六人と円盤、ひまわりが描かれ、右側に作品情報がある

こうした拒絶は、キルケゴールのいう「無限の諦め」そのものではないか。まずあるのは純粋な犠牲だ。大義=〈もの〉のために、「女」は自分のすべてを犠牲にすることもいとわない。だが、その代わりに得るのは、大義=〈もの〉そのものの喪失だけである(第十二話の冒頭で、アニメはきわめて劇的に物語全体をリセットする。乃々香が街へ来たばかりの時点に戻り、七年前の記憶も、もちろんまったく違ったものになる……)。

この次元で、汐音と乃々香の対立は明らかだ。乃々香は「男」であり、〈もの〉(七年前の願い)のために自分を犠牲にする。汐音は女であり、見返りを何一つ求めずに自分を犠牲にする。ジジェクのいうとおり、「男は道徳的であり、女だけが倫理的である」。ここでいう倫理は、疑いなく現実界の倫理であり、拒絶の倫理——すなわち象徴秩序の内部で象徴秩序を拒むこと——である。彼女はまず〈もの〉のために身を投げ出し、「七年前の約束」のために乃々香を拒み続け、最後には、その拒絶の身振りをイデオロギーの象徴秩序へと刻み込むことを拒む。ほかの四人の主人公が彼女を前に手も足も出ないのは、当然だ。彼女の拒絶は見返りを求めない拒絶であり、欠如そのものへと向かう拒絶なのだ。彼女がいったい何を求めているのか、私たちにはまるでわからない。

これは、同じアニメのもう一人の女性キャラクター、柚季の態度とはまったく異なる。柚季の拒絶は、徹頭徹尾ただのフェイントであり、ラディカルな外見の下に隠された媚びだ。柚季の拒絶は、いわば「酔翁の意は酒にあらず」だ。狙いは大他者から別の形で承認を得ることにある(兄からの埋め合わせと謝罪だ)。

汐音の決然たる拒絶の「否」を、先に述べた禁止の「否」と混同してはならない。禁止の「否」は純粋な形式、内容のない空虚な位置であり、汐音の拒絶の「否」はふさわしい位置を欠いた過剰な要素である。ここで私たちは、大他者(the big Other)から小他者(the small other)へ、Aからaへ、象徴秩序から、かすかな痙攣へと進む。いまようやく、物語の進展とともにヴェールを突き抜け、現実界の混沌に向き合うことができるのだ。

ひまわりに囲まれたノエル

三 ヘーゲル主義者としての久弥直樹

アニメの終盤で、私たちはある革命的な(revolutionary)瞬間を目撃する。流星の走る夜空の下、五人の主人公はついに七年前の願いをかなえる。だが振り返ると、七年前と現実という二つの場面が重なったその瞬間、このすべての証人——ノエル——もまた消えようとしていることに気づく。これはいかにもヘーゲル的だ。本質と現象との分裂は、つねに現象そのものの分裂なのである。あるいは、真の普遍性はただ一つ、「具体的普遍性」しかない。それは、個々の具体的なものが自らを超えて普遍性へと飛躍しようとするときに遭遇する失敗なのだ。私たちが目撃するのも、まさにこの失敗の瞬間である。「現実の背後」を隠すヴェールを剝がそうとしたのに、そこにあるものは目の前のものと何ら変わらないとわかる——あるいは、そこには何もない。七年前の記憶は、底知れない神話などではない。前史と現実は同じ構造を持ち、両者の違いは二つの異なる視点の違いにすぎない。ここで私は、久弥直樹の勇気に感嘆せずにはいられない。彼は決定的な一歩を踏み出した。外的反省から、規定的反省へと進んだのだ。

手をつなぎ、中央の光を囲んで輪になって寝そべる五人の主人公

異なる視野の境界が曖昧になるにつれて、最後には目の前にただ空白だけが残る。存在するものに座標を与えていた幻想の枠組みを失えば、現実はたちまち一貫性を失い、互いに分裂したさまざまな現れへと崩れてしまう。アニメにおいて、これはそれまでの物語構造の崩壊を意味する。唯一の解決策は、物語をもう一度始めることだ。

ここで改めて、ヘーゲルの教えをこう捉えておこう。本質は自らを本質として前提し、真の本質とは、この前提を止揚することなのだ。『天体のメソッド』で久弥直樹が行っているのも、まさにこうした試みではないか。物語の行き詰まりを避けるため、七年前の記憶は、まず一つの本質として前提される。まるでそこがすべての魅力の源であり、明かせない秘密が隠されているかのように。しかし物語の最後に、この前提を置く身振りは否定される。本質は現れの前に姿をさらし、七年前の記憶と現実が一つになる。いわば精神は神秘のヴェールを剝がし、自分があらかじめそこに置いておいたものを見いだすのである。ここで物語は再び始まるが、それは単なる繰り返しではない。再び始まる物語が告げるのは、「主体の解任」の瞬間の到来だ。物語は「もはや自らを主体として前提せず」、それによって自らの亀裂を受け入れ、自らの不一致を受け入れる。物語が再び始まった世界で、七年前の思い出は本来の姿へ、平凡な日常へと戻される。第十二話の題「円盤のない街」が示すとおり、神話の時代は二度と戻らない。私たちはこの失敗を受け入れ、貧しい現れの世界へ戻る。もう一度言おう。最後に得られるのは、現れの分裂だけであり、主体が本質を前提していたという事実だけなのだ。

結末では、すでに消えたはずのノエルが再び現れる。ここで注目すべきなのは、ノエルの立場が変わっていることだ。彼女は崇高さも神秘性も完全に取り払われ、威厳ある主人から、ごく平凡な肉体へと変わっている。この再登場は喜劇的だ。それはまさに、キルケゴール的な受肉の喜劇ではないか。ジジェクは『パララックス・ヴュー』でこう述べている。

したがって、喜劇は羞恥の対極にある。羞恥がヴェールを保とうとするのに対し、喜劇はヴェールを剝がす身振りに依拠する。私たちが目にするのが、隠されていた恐るべき秘密ではなく、それを覆う仮面とまったく同じものだったとき、二つの要素に何の違いもないことによって、一つの要素がそれ自身から分裂する「純粋な」差異に直面するのだ。

これは、アニメの結末の場面にそのまま対応してはいないか。主人公たちは、七年前の「円盤を呼び出す」儀式を現実のなかで再現する。だが今度は、何も起きなかったように見える……。主体は大他者の欠如を受け入れ、自らの欲望の真実を得た。この立場に立てば、現実界はもはや、一つの現れから別の現れへと移る際の障害ではない。正確には、こういうことだ。現れとは二つの現実界のあいだの切れ目、分裂である。もっと正確にいえば、この分裂から生じる何かが、現実界をそれ自身から切り離す。ノエルに戻ろう。主体どうしの神聖な「願い」「理解」「通じ合い」は、彼女のなかにどのように体現されるのか。彼女にはある種の否定性があるのではないか。彼女はこうした抽象的普遍性を解体する。そして真に具体的な普遍性とは、この解体の身振り、この否定性そのものなのだ。ここに至って私たちは、彼女のなかに去勢という過程の本質を見る。大他者という形式の空所を占めるのは、そこに「自然に」収まるものなどではない。その到来は純粋に偶然的なのだ。ノエルはノエルであり、ごく普通の**にすぎない。だが、次のことを理解するのが肝心である。もう一方では、彼女は普遍性そのものなのだ。ヘーゲルの有名な断言、「精神は骨である」が示すとおりだ。

星空の下で微笑むノエル

喜劇的なのは、いかにも深遠で計り知れない精神の化身であるかに見える骨に、何の神秘性もないことだ。『天体のメソッド』の最後の視差は、まさにノエルにある視差である。この視差は、大他者の最後の秘密を明かしてくれる。大他者には、何をそこに当てはめても、けっして埋められない亀裂があるのだ。言い換えれば、私たちは気づいたのである。私たちの欠如こそ、大他者の欠如なのだと。これを踏まえ、主人公たちは勇気をもって、〈一〉そのものの分裂を受け入れ、波風の立たない日常の背後に潜む欲動の次元を受け入れ、自分たち自身の「過剰」の存在を受け入れる——何も告げずに去り、何も告げずに戻ってきた「隣人」、乃々香を。

ED「星屑のインターリュード」(歌:fhána、作詞:林英樹)より、日本語歌詞:

静けさがそう爪を立てて
夜明け前の君の表情は
何かにおびえていたけれども
強い眼差し持ち
私たちのページはまだ途中で
枝分かれすれどもいつかどこかで
また出会える(またここで)

中国語訳(その意味を日本語で示す):

静寂はこうして顔を出した
夜明け前の君の表情には
まだ何かを恐れているのが見て取れたけれど
それでも強いまなざしを保っている
私たちのページは、まだ終わっていない
私たちが離ればなれになっても、いつかどこかで
きっとまた会える(またここで)

木道を歩く汐音を、顔を入れずに捉えた場面

最後に、このEDの歌詞を、中国語訳とともに振り返ってみよう。これはまさに、疎外から分離へと向かう姿ではないか。主体は欠如の場所で、中国語訳にいう「顔を出した静寂」に向き合い、けっして屈することなく揺るがぬまなざしを保つ。いつか遠い未来、現実のなかの不可能な場所で、互いに別れたその先で、私たちはきっと再び会う——これはある革命的な(revolutionary)瞬間の到来を予告している。現実性が自らを作り直し、自らの失敗を自らのうちへ包み込むのだ。私たちはそれを固く信じるべきである。精神分析の倫理も、まさにこう言い表せる。「それがあるところへ、私は必ずやって来る。それが私の責任だ」。

参考文献

  1. ジジェク『パララックス・ヴュー』。

  2. ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』。


編者より:ここまで読み通せた方は、本当にお見事です。次は批評を書く自由を尊重しつつ、もう少し気楽に読めるように書いてみては、と著者に勧めてみようと思います。

本文終わり

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