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『偽物語』/性悪説/真偽をめぐる問い

『偽物語』の本物と偽物をめぐる問いから荀子の性悪説へ。影縫余弦、貝木泥舟、忍野メメの三人が、真実、偽善、人為による善をどう捉えるか、その立場を比較する。

著者: 十文字翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

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十文字

やりたいことをやりたいようにできたら、どんなにいいだろう。

まず正直に言うと、こうしたコラムを書くのは初めてで、書き方の心得もなければ、人を惹きつける文章力もない。見落としや不備は避けられないと思うので、どうか遠慮なくご指摘ください。

一つの物語をどう理解するか、一つのライトノベル作品をどう読むかは、たいてい人それぞれである。ライトノベルは筋の展開や物語そのものに重きを置くだけに、論説や寓話と比べて、そこにどんな道理や考えが込められているのかを見定めにくい。しかも、ロラン・バルトの「作者の死」という考えに従えば、多くの作品は既存の言語体系を用いた産物にすぎず、作者の内なる思考の表れとは言えない、少なくともそれだけとは言えない。別の角度から言えば、よい作品、とりわけ小説は、音楽のポリフォニーのように、いくつもの声部や旋律が同時に展開し、互いに完璧に結びつきながらも、相対的な独立を保っているはずだ。読者も文学を作り上げる過程に加わるからこそ、本当の意味での「真理」も「中心」も存在しないのである。

同じように、筆者の〈物語〉シリーズ分析も、一つの切り口から人物や出来事に筋の通った説明を与えようとするものにすぎない。ただし、一つの切り口にとどめるのは妥協でもなければ、〈物語〉シリーズそのものが難解だからでもない。物語作品として、深く掘り下げるだけの意味があるからこそ、こうして分析を試みるのだ。

暗闇の中で砕け散る白い光のかけら


【001】

『偽物語』の核心にある、貝木泥舟の一言から始めてみよう。

偽物だからこそ、ほかの何よりも本物に近い。

簡単に言えば、自分が偽物だと認めることは、実は性悪説を認めることなのである。人の心こそが善の源だという考えを手放して初めて、ファイヤーシスターズも、正義をどう実践し、偽善にどう向き合うかを、知性を働かせながら学べるようになる。

『偽物語』は、阿良々木暦を主人公として、その妹である火憐と月火を描く物語だ。しかし作品が形にしているのは、架空の人物だけではない。二元対立を含む、ある深い命題でもある。(逆に言えば、『偽物語』が二人の妹を描くためだけの、『化物語』を補完する作品なら、なぜ『妹物語』と名づけなかったのか?)実際、『偽物語』が『偽物語』と呼ばれるのは、「偽」を主題とし、「偽」について論じる作品だからだ。もちろん、これは『偽物語』だけではなく、〈物語〉シリーズの多くの作品に見られる特徴である。それぞれが〈物語〉世界全体の筋につながりながら、個々の物語を語っている。

『偽物語』は上下の二篇、二つの事件に分かれている。一つ目では、火憐、阿良々木暦、戦場ヶ原が、それぞれの目的を持って貝木との交渉に臨む。二つ目では、月火を退治しようとする影縫余弦から、阿良々木暦が月火を守る。「偽」を議論の対象にしているというより、「偽」が話をたどる糸口になっていると言ったほうがよさそうだ。前半は『化物語』を受けて、登場人物を振り返るためのものに見えるが、もちろんそこにも「偽」をめぐる議論がいくらか埋め込まれているように思える。そして最終話の影縫の言葉は、『偽物語』が論じてきた問題を総括しているように見える。

「家族だからこそ、嘘をつく。騙す。迷惑をかけるし、困らせる。借りも作るし、恩を受けても必ず返すとは限らない。でも、それでいいんだ」
「影縫さん——あなたは正義の味方だ」
「偽物が悪だというなら、その悪は僕が背負う。偽りのものが悪だというなら、僕は悪だ」
「好感度なんてどうでもいい。僕は最低の人間だ」
……

「……性悪説か」
「ん? 知らないの? 忍野くんも貝木くんも、よく話題にしていたけれど」

ここで言及される性悪説は、影縫余弦が阿良々木暦の立場を言い表したものだ。そこから影縫余弦は、貝木の「偽物説」を思い出す。両者はある次元で同じ構造を持っている。本物と偽物は、性悪説で語られる概念と多くの点で対応している。そこで本稿では、その対応関係を探し、人物の行動と世界観のつながりを、筋道を立てて説明してみたい。

本物と偽物は、それぞれ「天然ダイヤモンド」と「人工ダイヤモンド」にたとえられている。もちろん、『偽物語』、さらには〈物語〉シリーズ全体に、本物と偽物の二元対立は至るところにある。そこには、月火が不死の怪異であるといった客観的な次元での真偽だけでなく、偽善のような主観的な真偽もある。いくつか例を挙げてみよう。

しかも、その本棚に並んだ本には、ずいぶんと個性があった。漫画は一冊も見当たらず、すべて岩波文庫の古典文学なのだから、中学生の本棚としては異質だ。まるで、普段からこんな本を読んでいるのだと言って、大人びたところを見せつけようとしているみたいだった。あるいは、実は父親の書斎にあった本を、客である僕の前で見栄を張るために千石が用意したのかもしれない。案外、そんな浅はかな勘違いをしてしまう子なのかもしれなかった。

——撫子の本棚の描写(ところが、撫子の押入れには、絵がめちゃくちゃうまいことを示す証拠が山ほどある)

「いや、神原もイケメンが好きなんだなって。なんだ、結局お前も大した変態じゃないんだな?」
「あ……!?」
神原は本当に大きなショックを受けたようだった。
「それに今日のことを振り返ってみると、お前の裸好きも、家族に見られてまで貫けるわけじゃないんだよな。その程度ってことで、いいんだろ。話だけ聞いてると、家ではずっと全裸でいるみたいだったのに、結局は自分の部屋っていう狭い世界でいきがってただけか。早く言えよ」
神原の目は、もう焦点が合っていなかった。
完全に混乱していた。
正真正銘の錯乱状態だった。

——実はそこまでエロくないと見抜かれた神原(いや、そんなに苦しむようなことでもないだろう!)

神原駿河のキャラクター設定画

これが作者の意図なのか、単なる深読みなのか、筆者には判断できない。ただ、『偽物語』の一部として、多少なりとも「偽」に関わってはいる。それに比べると、『偽物語』の中心となる何人かの人物には、「偽」との関わりがもっとはっきりと表れているようだ。

「自己犠牲ではなく、自己満足に甘んじる覚悟がないのなら——身の程も知らずに正義を語るな。不愉快なだけだ」

——阿良々木暦は一言で本質を言い当てる。火憐の正義には自己犠牲などなく、自己満足しかない。

「どきどきもしないし、嬉しくもない」
それさえわかれば十分だった。
「やっぱりお前は僕の妹なんだな」
「……え?」
月火はきょとんとしていた。

——月火は不死の怪異だが、月火と家族の絆は本物だ(コーチ、俺も……)

「力が強いだけじゃ、意味がないんだ。本物に必要なのは——強い意志だ」
たとえば、羽川の一番強いところ。
それは彼女の強い意志だ。

——羽川翼が本物であるのは、その強い意志のおかげだ。ときには自分のことを顧みるのさえ忘れてしまう。

以上の人物が物語の主要人物だと言っても、決して言いすぎではない。というのも、影縫余弦、貝木泥舟、そして登場しない忍野メメは、むしろ事件の観測者のような存在であり(『偽物語』で貝木泥舟がしたことは、せいぜい額を小突くくらいだ)、三人がそろって、互いに対立する三つの見方を形作っているからだ。「本物と、本物とまったく同じ偽物では、どちらにより価値があるのか」が、彼らの主題なのである。

  1. 影縫余弦は本物を選び、陰陽師となって、各地で不死の怪異を退治する。
  2. 忍野メメは中立を選び、怪異と人間のあいだのバランサーとなる。
  3. 貝木泥舟は偽物を選び、詐欺師となる。

【002】

そもそも、これほど多くの人間の行動を真偽によって説明すること自体、いささかわかりにくい。真と偽の定義があまりにも広く、ときに異なる次元の真偽を混同してしまうからだ。たとえば月火は、不死鳥の怪異でありながら人間に化けている(本人はそのことを知らない)。これは存在のあり方という意味での偽物であって、心を偽っているという意味ではない。

天然ダイヤモンドと人工ダイヤモンド。
たとえ原子構造がまったく同じでも——区別はできる。
区別しなくても、違いはある。

このたとえでは、天然ダイヤモンドは本物そのものに当たり、人工ダイヤモンドは、もともとはダイヤモンドではなかったものを、模倣によって最終的にダイヤモンドに仕上げたものを指している。両者の原子構造はまったく同じでも、別の角度から見れば、天然ダイヤモンドはもともとダイヤモンドであり、人工ダイヤモンドは、もとは黒鉛のようなもので、改良や加工を施されたにすぎない。

この天然ダイヤモンドと人工ダイヤモンドのうち、影縫余弦が選ぶのは天然ダイヤモンド、つまり本物である。それは、客観的な本物は唯一無二だと認めることだ。この次元で考えると、「本物と、それとまったく同じで見分けのつかない偽物では、いったいどちらにより価値があるのか」という問いにおける「まったく同じで見分けがつかない」とは、主観的な認識の上で見分けがつかないという意味になる。つまり、月火も周囲の人々も、月火が不死鳥の怪異だと知らないのである。その一方で、客観的には偽物である不死鳥は永遠に生きられ、本物である人間には寿命があるという違いが強調される。客観的に本物であるものと偽物であるもののどちらを選ぶかという場面で、影縫余弦は客観的な真を追い求める。だから影縫にとって、その考えを行動に移すのは難しくない。客観的に偽物であるものを退治すればいいだけなのだ。これは、暴力で問題を解決しようとする影縫余弦自身の性格とも、密接につながっているように思える。

影縫余弦

現実において、影縫余弦の見方を受け入れるのは難しくない。客観的な真偽は見分けやすく、しかもより大きな意味を持つからこそ、現実世界には「真を求める精神」があり、学問でも真を求め、商品経済でも本物を求めるのである。唯物論的な世界観では、この見方は十分な支持と肯定を得られる。私たちは、本物は必ず存在し、しかも手に入れられる可能性があるという認識を共有しているからだ。

ところが『偽物語』では、むしろ貝木泥舟の見方のほうが筋が通っているように思える。貝木は、客観的な意味で偽物であることは、実は重要ではないと考える。ここでようやく、荀子の性悪説と貝木泥舟の考えのつながりを説明できる。

「性善説が理想論なら、性悪説は現実論だ。人間の本質は欲望であり、人間は欲望に支配される。荀子の思想は単刀直入で、包み隠すところがない——人は生まれたときから、その本性が悪なのだ。それが彼の思想だ」
「だから、人が善い行いをしても、それは本性ではなく、偽善なのだ——彼が喝破したのは、そういう真実だ。偽り、偽物——偽善。それだけのことだ」
「偽——つまり、人為だ」
人のすること、人の行い。
だから礼が生まれる——規範として。
人為的な矯正によってこそ、人は善へと向かい、社会も正しい方向へと導かれる。
「それまでの王道政治に対して、これは礼治主義と呼ばれる。善は初めから純粋に偽善だ。だからこそ——そこには善の意図がある」

影縫余弦による性悪説の説明は、実際、その大部分が正確である。なかでも重要なのは、次の点だ。

  1. 人の本質は欲望である。
  2. 人の善行も一種の「偽物」、つまり人為の産物である。
  3. 人為的な矯正が社会を秩序へと導く。

西尾維新が性悪説をどう理解しているかは、実際に〈物語〉シリーズの創作に大きな影響を与えている。すでに『傷物語』には、キスショットが阿良々木暦の善を偽善とみなすくだりがあり、『恋物語』『囮物語』でも「偽」が繰り返し語られる。ただし、「偽」をどう定義し、性悪説をどう理解するかは、さらに掘り下げる必要がある。筆者には豊かな教養も、この分野の学術的な経験もない。そこで、ここでは研究者による性悪説の解釈を、かいつまんで紹介してみたい。


【003】

一、「性悪」篇——「人の性は悪なり、其の善なる者は『偽』なり」

この一文を見ると、人間の本性について、荀子は実は二つのことを主張している。一つは性が悪であるという「性悪」、もう一つは善が「偽」によって成り立つという「善偽」、あるいは「偽善」である。前者は人の本性が悪であることを述べ、後者は人にどうして善がありうるのかを説明している。

「人の性は悪である」とは、人の生理的な欲望がしばしば礼節や法度を越え、そのため悪になるという考えだ。「其の善なる者は偽なり」の「偽」について、楊倞は注でこう述べている。「為すことであり、正すこと、つまり本性を正すことである。生まれつきの性質ではなく、人が行うことは、すべて偽という」。この点から見ると、この「偽」の意味を表すには「為」の字のほうが適切かもしれない。だが、そうすると新たな問題が生まれる。なぜ人の行いが善につながり、善を生み出すのか。「偽」とは、どのような行いであるべきなのか。梁涛の論文では、「偽」は心と結びつけて理解すべきであり、心の思慮と、そこから生じる行為を指す。それは明確な価値を含み、その価値を求める働きなのだとされる。誰もが「心」を持ち、「心は生まれながらに知る働きを持つ」(「解蔽」篇)という点で、すべての人は同じである。したがって、「人の性は悪なり、其の善なる者は偽なり」は、人の性は悪であり、善は心の思慮と行為から生じる、と理解できる。

二、「心」はどのように働くのか?

「心の働き」であるなら、それはどのように働くのだろうか。孟子の性善説では、人の内から自ずと生じる道徳を心とし、それを善の源とする。それに対して、荀子のいう「心の働き」は、物事を認識する心に、より近い。荀子は、心も道徳の実践を引き起こすことはできるが、まず礼義を知り、認めたうえで、礼義によって性を治める——正し、整え、美しくする——必要があると考える。この理解に従うなら、荀子の心は認識することしかできず、創造することはできない。礼義がすでに生まれていて初めて、それを知り、理解できるのであって、礼義を生み出すことも、善の根源となることもできない。

VOFANによる〈物語〉シリーズのキャラクターイラスト

人の心が善の根源でないのなら、善はいったいどこから来るのか。荀子によれば、心は秩序を好んで混乱を嫌い、善を好んで悪を嫌う。つまり、道徳的な判断力を持つ。これは心の重要な特徴であり、荀子が心を規定するうえで重要な点でもある。まさにこの心があるからこそ、人間は「人の性に従い、人の情のままに振る舞う」ことで生じる「偏り、よこしまさ、道に背くこと、混乱」から抜け出し、礼義や法度による「正しい秩序と平穏な統治」へと向かうことができる。

「非相」篇にはこうある。

人が人であるのは、何によるのか。答えは、区別する働き、すなわち「辨」があるからだ。……鳥や獣にも父子はあるが、父子の親愛はなく、雌雄はあるが、男女の区別はない。だから、人の道にはすべて区別がある。

ここでいう「辨」とは、是非や善悪を見分けることだ。すなわち、礼義、謙譲、誠実さと信義が正しいと見分け、汚れた振る舞いや奪い合い、利益をむさぼることが誤りだと見分けることである。これは明らかに心の働きであり、能力である。つまり、心が物事を見分ける能力なのだ。

ただし、人が生まれながらに「辨」を備えているというのは、生まれたときから具体的な是非や善悪を見分けられるということではない。その能力、あるいは可能性を持つという意味である。この能力は、初めはまだ潜在的なもので、人間の言語と同じようなものだ。私たちは生まれたときから話せるわけではないが、変化を重ねるなかで言語を生み出し、受け継いできた。とはいえ、突き詰めれば、言語が生まれたのは人に言語を使う能力があるからであり、その能力は後天的な実践のなかで実現されなければならないというだけだ。荀子の「辨」も同じように理解できる。心は生まれながらに識別する能力を持つが、それでも後天的な実践によって、その能力を実現する必要がある。

四、性悪と心善

突き詰めれば、「性悪」篇は、実は人の生における二つの力を明らかにし、説明している。「性」に代表される、下へと堕ちていく力と、「心」に代表される、上へと高まっていく力である。そして善と悪の対立を通して人間の本性を考察し、実際には性悪・心善説を提起している。これこそが、「性悪」篇の「人の性は悪なり、其の善なる者は偽なり」という一文で、繰り返し表される思想なのだ。この思想は、先秦儒家の人性論のなかでも、間違いなく独特で、またよく整ったものであり、十分に注目する価値がある。ところが、『荀子』の各篇はすべて二字で名づけられているため、この篇も冒頭の「性悪」の二字を取るしかなかった。その結果、人々は意識するにせよしないにせよ、「人の性は悪なり」の一文だけを覚え、もう一方の「其の善なる者は偽なり」を見落としたり、その意味を理解しなかったりしてきた。荀子の人性論が、一面的に「性悪説」と理解されてきたのは、実に残念なことだと言わざるをえない。

(参照文献で梁涛が取り上げる説によれば、「其の善なる者は偽なり」の「偽」は、書き写される過程で改められた字だという。上に「為」、下に「心」を置く字のほうが、その意味をよく表す。ただ、その字が使われなくなったために「偽」に置き換えられ、最後にはそのまま「偽り」の意味だと誤解されたのだという。)

荀子の性悪思想について長く述べてきたが、ここで『偽物語』に戻ろう。性善説から見れば、「偽善」は偽りの善である。善は心の内から生じるはずで、人が生まれながらに備えているものだから、学ぶことによって後天的に得た善は、偽りの善になる。反対に、性悪説における「偽」は、心の働きである。「偽」は善を得るために必ず通らなければならない道だ。したがって性悪説に従えば、あらゆる「善」は、実は性善説でいう「偽りの善」なのである。『偽物語』は、性善説の言語記号の体系を用いて、性悪説を説いていると言ってもいい。その背景には、私たちの世界では前向きで向上を目指すあり方が尊ばれる、という事情がある。性悪説には、ある意味で悲観的、消極的なところがあるため、一般に私たちは性善説のほうを信じたがる。だが実際には、性善説にも限界がある。それですべてを説明しようとすると、しばしば自分を見いだせなくなり、自分が間違った存在であるかのように思えてくる。『偽物語』はまさに性善説を問い、すべての人が自らを救うための道を見つけようとしているのである。

ここで貝木泥舟の見方に戻ってみよう。彼は、客観的な意味で偽物であることは、実は重要ではないと考えている。貝木が金を好きなのは(この言葉は嘘ではない)、金は多くのものの代わりになると考えるからだ。別の角度から見れば、彼が強調したいのは、真実でさえ他のもので置き換えられること、さらには本物も唯一無二とは限らないことなのだ。

貝木泥舟


【004】

三つの異なる見方は、三人の異なる世界観を表している。貝木の世界観では、性悪説が認められている。広く知られる性善説では「心」が善の源とされるが、貝木は、人の心にもともと善があるはずはなく、「心の働き」によってこそ、人は善を知るのだと考える。だからこそ、世間の目には「偽りの善」と映るものすべてが、貝木の目には重要な意味を持つ。言い換えれば、性悪説はまさに、「善」が心の働きから、後天的に養われる心の認識能力から生じることを強調する。だから貝木にとって、性善説でいう「善」に当たるものは存在しない。あらゆる善は、性善説の意味での「偽りの善」なのだ。「善」は、狭い意味での善行だけではない。心の働きが生み出すさまざまなものを指している。だから、性善説における主観的な意味での本物は、貝木にとっては存在しえないのである。

本物がどこにも見つからず、そもそも存在しないように思えるのなら、いっそ真実を探すのをやめればいい。嘘で心を包み、実際の行動で理想主義の世界に抗い、その影響を受けないようにすればいい。貝木はずっとそうしてきた。彼にとっては、どんな偽物にも意味がある。ところが戦場ヶ原に出会ったとき、彼女には代わりがいないらしいこと、心にある恋は、どうやら真実なのだということに気づく。それでも、自分で幾重にも張り巡らせた嘘からはなかなか逃れられず、そこから抜け出してその真実を追い求めることもできない。これが『恋物語』の物語だ。そして、この詐欺師のもがきと回帰は、私たちに改めてこう告げているように思える。人が存在する意味は、やはり真実を求めることにある。真実こそが、人の存在する意味なのだ、と。

主観的な意味での偽物とは何か。この問いに性悪説だけで答えようとするのは、いささか視野が狭いように思える。そして、まさにその狭さゆえに、貝木は恋がどんなものかを忘れてしまい、その世界観もまた恋によって揺さぶられた。『偽物語(下)』で月火にとっての本物となるのも、阿良々木暦との絆であり、火憐との絆であり、家族との絆である。絆や恋が本物なのは、人の本心から生まれ、外から与えられたものではないからだ。『恋物語』の貝木も、いつものように自分が恋を求めていることを隠していたが、最後には、自分を欺く嘘につまずいてしまう。

私たちはいつも、一つの理論でこの世界を完璧に説明しようとする。たとえば貝木は、この世界に本物などないと考える。しかし、貝木の偽物説は、彼が本心から抱く信念である。ならば、それこそが彼自身の「本物」なのだ。

貝木の偽物説の失敗と、影縫余弦が客観的な本物に執着することの誤りは、忍野メメが本物をどう理解しているかを、いっそう際立たせる。〈物語〉シリーズでは、忍野メメの世界観が直接語られることは少ない。だが、貝木の問いへの答えや「バランサー」という言葉からすれば、彼の考えが影縫余弦と貝木泥舟の中間にあるのは明らかだ。彼の側から見れば、怪異と人間のあいだの均衡を保つことは、本物と偽物のあいだの均衡を保つことでもある。偽物の側は自らの存在によって自己否定に陥り、本物の側もまた、客観的な事物の真偽しか判断できない。だからこそ、両者は共に存在する必要があるのだ。本物を選ぶ側は狭い意味での真を追い求めるべきではなく、偽物を選ぶ側も狭い意味での偽を追い求めるべきではない。真理はしばしば、真と偽という両極ではなく、その中間にある。これこそが、真偽をめぐる問いへの究極の答えであるように思える。


参考文献

  1. [日本]片倉望、張瀛子訳「性偽の分と性悪論——荀子思想の分裂と統一」(中国語訳)[雑誌論文]、『国学学刊』2018年第1号、17–26頁。

  2. 梁涛「荀子の人性論を問い直す——荀子の性悪・心善説について」[雑誌論文]、『哲学研究』2015年第5号、71–80頁。

  3. 屋顶现视研 物語/恋/貝木泥舟:語ること/砕けること/自己欺瞞[オンライン記事]。

  4. DERTF「〈物語〉シリーズ全キャラクター解説」[オンライン記事]。記事へのリンク。


編集部より

この文章には、まだ議論の余地がある。だが、誰もが「問題ない」と思うようになるまで発表してはいけないなどと、私たちは決して言わない。

本文終わり

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