屋頂現視研
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森見登美彦作品のユーモアの源泉

関連性理論、ヘーゲルの喜劇論、森見作品の「独自定義語」を手がかりに、文章、物語構造、主題の各水準でユーモアが生まれる仕組みを分析する。

著者: 十文字翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

本稿は、屋頂現視研「拾荒战略 Rags Drum 2020」前夜祭の受賞原稿です。

アニメ映画『夜は短し歩けよ乙女』の一場面

はじめに

あの「ぼっとん便所」の身の毛もよだつ暗い穴は、「子どもをさらうおじさん」や「森の奥の底なし沼」とほぼ肩を並べ、私の妄想のなかで最も恐ろしいものの一つだった。——『太陽と乙女』「トイレの想い出」

森見登美彦の作品にユーモアがあることは、一目で分かる。たとえば作品を読み始めると、森見はまず、自分で作り出した、いかにも難解で耳慣れない言葉を説明する。「四畳半」などがそうだ。1その説明は、真面目くさった口調ででたらめを語っているように見える。また、森見を初めて読むときには、新鮮さ、さらには不安とさえ呼べる感覚がある。ありふれていながら奇妙でもある世界へ、突然足を踏み入れたように感じるからだ。その感覚は、カフカの『変身』を読むときにも少し似ている。ところが、読み進めると、最初の印象とはまるで違うことが分かってくる。

しかし、「森見登美彦の作品はなぜユーモラスなのか」と改めて問われると、一言二言では答えにくい。森見の豊かな想像力に由来すると考えることはできるが、それでは作品のユーモアが生まれる仕組みを説明したことにはならない。作家は自らの筆でユーモラスな文章を書き、読者を思わず笑わせることができる。それは、読者と確かに感情を通わせられるということだ。しかし、その共感がどこから来るのかを、作家自身が知っている必要はない。頭に浮かんだ面白い思いつきを紙に書き留めればよいのである。そこで本稿では、ユーモアを通じて作者と読者のあいだに生まれる共鳴の仕組みを解き明かすことを、中心的な課題とする。

ユーモアとユーモア理論

ユーモアの源泉を探るうえで、避けて通れない根本的な問いがある。そもそもユーモアとは何か。

現代中国語の「幽默」という語は、英語の「Humor」に由来し、意図的に人を笑わせるものを形容する。その語自体は、なぜ笑いが生まれるのかまでは説明しない。ただ、ユーモアと呼ばれるものは、何らかの方法によって、受け手に突然の愉快さをもたらす。ユーモアが生まれる原因を説明する理論は、大きく優越・軽蔑理論、解放理論、不適合理論の三つに分けられる。優越理論は、恨みや軽蔑、優越感を基盤にユーモアを説明する。解放理論は、社会的な制約から生まれる緊張や抑圧が解放されることに、その原因を求める。不適合理論によれば、ユーモアは「一致せず、調和せず、適合しない部分や状況が、複雑な対象や集合のなかで一つにまとまったり、人が気づくことのできる形で何らかの結びつきを得たりすること」から生まれる。このうち、不適合理論はユーモアの大部分を説明できる。それが絶対に正しいという意味ではない。しかし、多くの具体的なユーモア理論に取り入れられ、強力な分析の道具を与えてくれることは否定できない。本稿でも、森見作品の分析には不適合理論を用い、あわせて残る二つの理論も用いる。

ユーモアを種類別に見ていくと、それぞれが異なる感覚をもたらすことに気づく。たとえば、小説のユーモアと、日常的な短い笑い話のユーモアとでは、どこか違うと感じることが多い。どちらも読者や聞き手を愉快にするが、小説のユーモアは、はるかに複雑であるように思われる。次の例を見てみよう。

幼いロバートが、お母さんに二セントちょうだいと言いました。 「昨日あげたお金はどうしたの?」

「貧しいおばあさんにあげたんだ」とロバートは答えました。

「いい子ね」と、お母さんは誇らしげに言いました。「じゃあ、もう二セントあげましょう。でも、どうしてそのおばあさんがそんなに気になるの?」

「だって、飴を売っているんだもの」——「よい子」(原題:good boy。原記事の英文から訳出)

「彼女がこんなところに帰りたがるわけがありません」 私が言うと、先生は大きく放屁した。

そうして、その音に「おや」と驚いた顔をした。——『有頂天家族』(幻冬舎公開の日本語本文より)

この二つを比べてみる。最初の笑い話では、少年がおばあさんに硬貨を渡したのは、助けるためではなく、実は飴を買うためだったと明かされる。この転換によって、読者はすぐに話の意味をつかめる。それに対して、文脈を伴う文学作品の一節には、明らかに別の種類のユーモアがある。そちらはさらに豊かで複雑であり、一節だけを取り出すと、かえってひどく低級なユーモアに見えてしまうほどだ。抜き出した一節だけでは、小説を構成するさまざまな要素にユーモアがどう現れているかを見落としてしまうからである。たとえば、ここでの先生の描写は、実際には先生の人物造形と結びついている。そのユーモアは一節の範囲を超え、作品全体に関わっているのだ。別の角度から言えば、ユーモアは、ある関連づけが突然切り替わることだけでなく、何らかの喜劇性から生まれる場合も少なくない。

原因と種類という二つの面から見ても、ユーモアが複雑な産物であることは分かる。本稿では、ユーモアの原因一般についてこれ以上説明を重ねるのではなく、複数の水準と角度から分析することを目指す。具体的には、独立した一節、喜劇としての作品全体、作品を貫く「独自定義語」、そして文学的な理念を取り上げる。ここでいう「独自定義語」とは、作品内で独自に意味を定められる名詞のことである。

認知語用論からのユーモア分析——短い笑い話の連なりとしての森見作品

森見作品には、抜き出してもなお強いユーモアを感じさせる一節が数多くある。つまり、独立した一節に含まれるユーモアのなかには、前後の文脈に依存しないものもある。こうした一節は、それだけを取り出して検討するのが最も簡単だ。その分析の理論的な基盤となるのは、主にスペルベルとウィルソンが『関連性理論——伝達と認知』で提唱した関連性理論である。

関連性理論は、言語によるコミュニケーションを、推論に支えられた認知過程と捉える。そこには二つの原理がある。認知的関連性原理、すなわち人は認知において最適な関連性を求めるという原理と、伝達的関連性原理、すなわち伝達行為は、それ自体が最適な関連性を備えていると想定されるという原理である。つまり、発話は目的を持った活動であり、送り手が意図を示し、受け手がそれを推論する認知過程なのだ。この過程では、双方が最小のコストで最適な関連性を得ようとし、相手もそうしようとしていると考える。関連性の大きさは、認知効果——既存の文脈に及ぼす影響——と、処理の難しさに関わっている。2

関連性理論の観点では、情報の送り手は必要な情報を提示し、受け手は推論によって、そこに暗に込められた意図を探る。受け手は情報を受け取ると、通常、まず最大の関連性を手がかりに送り手の意図を推測する。そして、送り手が情報を追加するにつれ、推論を調整しながら最適な関連性へと近づいていく。多くのユーモア効果は、先に推測した最大の関連性と、最適な関連性との差から生まれる。この差が、不適合として働くのである。この理論は、ほぼすべてのユーモラスな一節を対象とし、そのユーモアを分析できる。森見作品にも、たとえば次のような種類のユーモアが見られる。もちろん、これだけに限られるわけではない。

(一)表現が呼び起こす文脈の違いから生まれるユーモア

今でこそ私はこんな有様だが、先に断っておくと、生まれたときからこうだったわけではない。

生まれて間もない頃の私は、むしろ純真無垢の化身だった。〔原記事の引用で一部省略〕……なぜおまえはこんなことになってしまったのか。これがおまえの人生の総決算なのか。

まだ若いのだから、人生には無限の可能性がある、と言う人もいるだろう。

そんな馬鹿なことがあるものか。若者を甘やかしてはいけない。——『四畳半神話大系』

この一節のユーモアは、次のような仕組みによる。最初の二段落では、現在の自分がいかに惨めな有様であるかが語られる。第三段落で他人の励ましへと話が移ると、読者は普通、そこから明るく前向きな語りに転じるはずだと考える。いわゆる、いったん落としてから持ち上げる構成であり、少なくとも主人公は、慰めてくれる人々の好意を理解するはずだ。つまり読者にとって最大の関連性を持つのは、第四段落が前向きな語りになるという読みである。ところが実際の第四段落は、第三段落の希望を含んだ言葉への反論になっている。主人公は自分の境遇を、絶望的で取り返しがつかないものと判断している。思いがけず、最適な関連性を持つのは、主人公が自らの絶望的な境遇を語るという読みだったのだ。

(二)修辞を高密度に重ねることで生まれるユーモア

「使いすぎると、どんな料理もカレーになってしまう」。この簡潔な説明は、まさしく的を射ている。分別のある大人が「くれぐれも使いすぎないように」と戒めねばならないほど重大な事態なのだ。カレー粉とは、それほど危険なものだったのか! 私には、森の奥に潜むカレーの魔物が見えたような気がした。——『太陽と乙女』「カレーの魔物」

冒頭の「使いすぎると、どんな料理もカレーになってしまう」という引用には、明らかに誇張という修辞が含まれている。普通、私たちはこれほど高い密度で修辞を用いない。まして、修辞の上にさらに別の修辞を重ねることは少ない。ここでは、誇張した説明に、さらに魔物というたとえを重ねており、その使い方はきわめて特徴的だ。関連性理論から見ると、意味を伝えるだけなら余分な表現であるため、この修辞の用い方は伝達的関連性原理に合致しない。それでも読者が最大の関連性を求めるなら、「カレーの魔物」という話には重要な意味があるはずだと考えることになる。つまり、「カレーの魔物」には単に「危険」と言う以上の意味があり、たとえによって、その意味がより鮮やかに伝わるのだ。「カレーの魔物」という表現は、一見余計に思える場所に現れることで、かえって子どもらしい可笑しさを帯びる。

(三)名詞が繰り返し使われる意外さから生まれるユーモア

「韋駄天コタツにも手を焼いている」 「韋駄天コタツ?! コタツはコタツだろう。韋駄天とは何だ?」 「妙な連中がコタツを担いで学内をうろついているんだ。神出鬼没だから、韋駄天コタツと呼んでいる」——『夜は短し歩けよ乙女』

この一節では、会話を通じて「韋駄天コタツ」という名前の由来が説明される。韋駄天は、足の速い仏教の神である。「韋駄天」と「コタツ」を組み合わせて新しい言葉を作ること自体、意表を突く手法だ。ただ、この段階では読者は、本当に新語が作られたというより、一つの表現上の工夫だと受け取りやすい。その名前が、真面目につけられたものには見えないからである。ところが森見は、その後も「韋駄天コタツ」という名前を何度も繰り返す。そこで初めて読者は、「韋駄天コタツ」が名前として使われていることに気づく。最適な関連性は、それを単なる比喩と見ることではなく、担がれて学内をうろつくあのコタツの名前として受け取ることにあるのだ。

森見の小説では、このほかにも「四畳半」や『偏屈王』、「代理戦争」など、同じ手法が数多く使われている。こうした目新しい名詞を次々と重ねることで、物語の表現力は大きく増している。

ただし、ここで注意しておきたいことがある。一節に含まれるユーモアの要素は、その大部分を関連性理論で分析できるものの、この理論には越えられない限界がある。あくまで、ある文章が文脈にどう影響するかを分析するため、ユーモアが小説の構成要素と結びついて持つ、もっと大きな広がりを捉えられないのだ。つまり、分析が個々の箇所へと分散し、同じ登場人物に関わるすべての出来事を結びつけられていない。作品が築いてきた文脈への目配りが足りないのである。そのため、厳密であると同時に、一定の限界も持つ。ここで関連性理論を用いたのは、ユーモアが生まれる最も基礎的な仕組みについて、説明の手がかりを示すためである。

喜劇性からのユーモア分析——ある種の喜劇としての森見文学

ヘーゲルは次のように述べている。「本質と現象、目的と手段のあいだに矛盾や不釣り合いが現れ、その結果、現象が自己を否定したり、対立が実現の過程で無に帰したりするなら、それは可笑しいと呼ぶことができる。しかし、喜劇性には、さらに深い要件が求められる」。一つの作品を、実質を欠いたユーモラスな挿話の寄せ集めと見なせば、作品が全体として備えているものを見落としてしまう。そのなかで最も重要なのが、喜劇性である。

ヘーゲルの学説では、実体性とは普遍的で合理的な道徳的力の総体であり、法と主観的道徳における最高の善である。これに対し、主観性は倫理的実体の客観的内容を含まず、個人の内面に生まれる善悪の基準にとどまる。喜劇で中心的な要素となるのは、この「主観性」であり、実体性は背後に退いている。一方、悲劇で働くのは実体性である。

ヘーゲルの美学理論から見ると、『四畳半神話大系』は典型的な喜劇とは言いにくい。主人公が思い描く「薔薇色の生活」を、社会的地位や個人の価値に関わる一つの観念として、実体性に当たるものと捉えるなら、実体性はつねにそこにあると言える。初めのうち、主人公は自分がその価値の実現からほど遠いと感じており、そこにはある種の悲劇的な趣さえある。ところが物語が進むにつれ、大きな転換が起こる。実体性を追い求めつづける状態そのものの不条理さが、描き出されるのである。作品は、不条理な帰納という形で、同じ結末に至る悲劇——あるいは主人公が悲劇だと思っているもの——を繰り返し演じてみせる。そして最後に、無限に連なる四畳半の並行世界からそのすべてを眺めて初めて、主人公は、自分が望んでいた「薔薇色の生活」など存在しないと悟る。要するに、『四畳半』の喜劇性には、喜劇そのものだけでなく、ある種の悲劇の型を解体する働きも含まれている。

ヘーゲルは、喜劇の対象となりうる内容を三つに分けて簡潔に論じている。これらは森見文学の文脈でも検討に値するため、ここで詳しく分析してみたい。

(一)実体性を欠き、矛盾を含む目的と性格

喜劇に描かれる目的と人物の性格に実体性がまったくなく、しかも矛盾があるため、人物はその目的や性格を実現できない。『四畳半神話大系』では、存在しない「完璧な薔薇色の生活」を渇望し、貪欲に追い求める主人公の姿が、喜劇性の一つの源泉となっている。「完璧な薔薇色の生活」は抽象的で、存在しないものだ。それを求めるあまり、主人公は今の生活に満足することまで捨ててしまう。目標に到達できないばかりか、価値あるものや好機をあまりにも多く手放してしまうのである。そして喜劇性に富んでいるのは、理想の生活には到達できないと気づいたあと、最後の周回で、主人公と小津のやり取りが逆転するところだ。

それまでの周回では、主人公はなお完璧な生活への憧れを抱いている。

私は、いたいけな私をもてあそんで何が楽しいのかと問い詰めた。小津はいつもの妖怪じみた笑みを浮かべ、へらへら笑った。「これがあなたへの愛なんですよ」「そんな汚いものはいらん」と私は答えた。——『四畳半神話大系』

ところが物語の最後には、主人公は、自分が追い求めていたものが、空虚でつかみどころのないものだと気づく。すると、目標を果たせなかったことなど気にならなくなる。自分はそんな失敗を超えたところにいる、と晴れやかに思えるようになるのだ。

「つべこべ言わず、私に払わせろ!」 「どうしてそんなに払いたいんですか?」 私はにやりと笑った。 「これがおまえへの愛なのだ」 「そんな汚いものはいらん」と彼は答えた。——『四畳半神話大系』

(二)目的の実現に逆の働きをする人物

個々の人物は、実体性を持つ目的や性格を実現しようとするが、そのために行動する彼ら自身が、まったく逆の働きをする手段になってしまう。森見作品にも、この種の喜劇性は見られる。しかし最終的には、その喜劇性は解消され、読者は意図的に読み違いへと導かれる。たとえば『夜は短し歩けよ乙女』の「パンツ総番長」は、心を寄せる少女を見つけるまでパンツを穿き替えないと決意する。一見、この種の喜劇性に当てはまる例だが、最初から最後まで、その決意が少女との出会いに本当に影響することはない。もちろん、アニメ化作品の細部まで見れば、「個人が目的の実現に逆の働きをする」と呼べる場面もある。たとえば、アニメ映画『夜は短し歩けよ乙女』では、主人公が李白の電車から自分のズボンを取り戻そうとする場面が加えられている。ちょうど電車が発車してしまい、ズボンを取れなかった主人公は、下半身を露出したままヒロインの前に現れる。さんざん苦労して彼女の前にたどり着いたのに、「おともだちパンチ」で水中へ叩き込まれ、悪い印象を残してしまうのだ。

アニメ映画『夜は短し歩けよ乙女』の一場面

なぜ森見作品には、この種の喜劇性がはっきりと現れる例が少ないのだろうか。大きな理由の一つは、森見文学が、あまりに鋭い社会的な問題を前面には出さず、しばしば個人を中心に描くこと、そして結末も悲劇的にはならないことが多い点にある。とりわけ男子大学生のような人物を描く際、森見は、彼らの行動を理由に男子大学生という集団を嘲笑することは決してない。何しろ、自分もかつてその一員だったのだ。かといって、彼らの度を越した振る舞いから目をそらすわけでもない。多くの物語と同じように、まずこの種の喜劇性を物語に持ち込み、そのうえで肯定的な方向へと導く。最終的に目指しているのは、読者が第三者の立場から彼らを大いに嘲笑することではなく、巧みな描き方によって彼らに共感することなのである。

(三)偶然の出来事による喜劇的な解決

外から生じる偶然の出来事を用いる。その出来事が状況を複雑に変化させ、目的の実現をもたらす。その過程で、人物の内面的な性格にも外的な状況にも喜劇的な矛盾が生じ、喜劇的な解決へ至る。『四畳半神話大系』の各周回が、最後にはこの方法で締めくくられることは、容易に見て取れる。結末をもたらすきっかけは、いずれも「明石が蛾を怖がること」と「主人公が、彼女のなくしたもちぐまを持っていること」の二つにある。そして、この二つの要素が登場するのは、どちらも偶然である。

また森見は、偶然の一致を、すでに複雑に絡み合った人間関係に結びつけ、喜劇的な場面を作ることにも長けている。たとえば『有頂天家族』では、終盤、狸たちの長老会議が開かれ、「偽右衛門」が選ばれようとしているとき、隣の座敷には、まさに狸鍋の宴会を始めようとしている金曜倶楽部の面々が座っている。彼らは、その前の騒動のため、急遽ここへ宴会の場所を移してきたのだ。怒りに駆られた矢一郎が大きな虎に化け、座敷を隔てる仕切りを壊す。この偶然によって、矢三郎に母を救い出す機会が生まれ、文章の雰囲気も和らいでユーモラスになる。こうして、次の一幕が現れる。

隣の座敷では、長老から主だった幹部までが一塊になっていた。「金曜倶楽部が来たぞ!」という警告を聞くや、座敷は声にならない悲鳴で満たされた。取り乱した狸たちは次々と正体を現し、座敷には無数の毛玉が湧き出した。その光景は、うごめく毛布が床に敷き詰められたようだった。そこへ飛び込んだ淀川教授は「すみません! すみません!」と連呼しながら、わざとではないにせよ、いくつもの毛玉を蹴り飛ばした。——『有頂天家族』

偶然の出来事は、喜劇性を生むだけでなく、そもそもあらゆる物語でよく使われる手法である。それでも、ここまで見てきたように、森見文学がそうした「出来事」を通じて、その斬新な一面を見せていることは確かだ。

「独自定義語」と厚みのある物語構造

ここまでは、一節や作品全体を対象とする広い枠組みで森見文学を分析してきた。次には、森見に特徴的な手法を、より詳しく分析する必要がある。筆者がとりわけ注目するのは、「独自定義語」の使用だ。先ほども、関連性理論によって、それが現れる際の不適合を分析した。ただし、それは一節のなかで、文章の意味に即して検討したものだった。「独自定義語」は、文章に現れたときだけ働くのではない。一つの作品全体、さらには作品群全体の物語を支えている。それは一節のなかにある単発の修辞ではなく、小説の語りを構成する要素なのである。以下、このような「独自定義語」の例を挙げてみよう。

(一)一度説明され、何度も使われる名詞

例:「おともだちパンチ」「パンツ総番長」「金曜倶楽部」など。

おともだちパンチをご存じだろうか。身近な人の顔に拳を振るわねばならないとき、人は拳を固く握る。……しかし、ここで拳をほどき、四本の指で親指を包むように握ってみよう。すると、力のこもった固い拳は、たちまち自信をなくし、招き猫の前足のように愛情に満ちたものになる。……幼い頃、彼女は姉から「おともだちパンチ」を教わった。姉は言った。「……おともだちパンチを使ってこそ、この世を優雅に生き、美しく調和のとれた人生を切り開けるのよ」。美しく調和のとれた人生。この言葉は彼女の心を強く打った。こうして彼女は、「おともだちパンチ」という必殺技を身につけたのである。——『夜は短し歩けよ乙女』

この一節は、作品の冒頭で、「おともだちパンチ」が「愛情に満ちた」拳の振るい方であることを説明する。この技によって、美しく調和のとれた生き方を願うヒロインの純真さが描かれる。説明の内容も面白く生き生きとしていて、納得させる力がある。そのため、のちに東堂さんから嫌がらせを受けた場面でも、「おともだちパンチ」という言葉で、彼女の優雅さを損なわずに、きっぱりとした態度を表すことができる。表現としても新鮮である。

(二)何度も説明され、何度も使われる名詞

例:「偽電気ブラン」「猫ラーメン」など。

「電気ブランの製法は門外不出だ。かつて京都中央電話局の職員が、その味を再現しようとした。しかし試行錯誤を重ね、行き詰まった果てに奇跡のように生まれたのが、偽電気ブランなのだ。偶然できたものだから、味も香りも電気ブランとはまるで違う」——『夜は短し歩けよ乙女』

グラスに注がれた偽電気ブランは、水のように澄んでいて、かすかに橙色を帯びていた。私はグラスを手に取り、そっと匂いを嗅いだ。その瞬間、目の前に大きな花が咲いたかと錯覚した。——『夜は短し歩けよ乙女』

このように謎めいた偽電気ブランは、『夜は短し歩けよ乙女』のなかで繰り返し描かれ、その神秘性が強調される。もはや単なる酒の一種ではなく、森見が作り出した独自の存在なのだ。そして李白との飲み比べでは、偽電気ブランに別の価値が与えられる。その芳しい味わいが、人生を温めるものとして受け止められるのである。こうして、偽電気ブランの特徴はさらに際立つ。一方、『有頂天家族』には「偽電気ブラン工場」なるものが登場する。3それが彼らの世界では当たり前のものとして、説明もなく扱われることで、作品の幻想的な色彩が一気に強まるのである。

以上の例から、「独自定義語」の一つの型を導き出せる。

作品固有の呼び名が生まれ、第1から第3の説明を経て、物語上の場面1と2へ組み込まれていく時間軸

名詞が作られたとき、まずそこには字面から分かる意味がある。たとえば「韋駄天コタツ」なら、その名のとおり、走り回るコタツだ。次に、事務局長の説明によって、それが事務局にとって頭の痛い存在だと分かる。これが一度目の説明である。そして事務局長が、韋駄天コタツが『偏屈王』の脚本を書くために使われていると知る場面で、二度目の説明が加わる。同時に、韋駄天コタツをめぐって、さまざまな出来事も語られる。ヒロインがコタツを担ぐ一団に出くわしたときの一連の出来事、その上の豆乳鍋、そこを拠点に本を転売して儲ける樋口、そこで脚本を書く「パンツ総番長」のロマンに満ちた姿、といった具合である。

こうした名詞は、具体的にどのような働きをするのだろうか。まずは、物を指す普通の名詞を例に考えてみたい。「ドアの鍵」という言葉が文章に現れると、私たちはおおよそ、特定のドアを開けることができ、細長い差し込み部分と、太く短い持ち手からなる物を思い浮かべる。これは、それまで鍵に触れてきた経験から、共通する特徴を抽象的に取り出した情報である。同じように、「彼はドアの鍵を持って、ドアの前まで歩いていった」という文を読むと、普通は、これから鍵でドアを開けるのだろうと考える。これも、鍵という物についての経験から導き出したものだ。つまり名詞は、対象を指し示すだけでなく、その対象に私たちが結びつけてきた多くの属性——性質や使われ方——をも含んでいる。名詞は、そうした属性の受け皿となるのである。

「独自定義語」の場合、その名前は、初めから既存の二つの名詞を組み合わせたものかもしれない。つまり、もとの二つの名詞が持っていた属性の一部を、最初から含んでいる可能性がある。ただし、それは属性が豊富だということではない。むしろ、まだ説明されていないため、その言葉が指すものは読者にとって未知の存在である。これまでの経験から予想できることも、すべて可能性にとどまるのだ。また、「独自定義語」は、指す範囲を狭める場合もある。たとえば「韋駄天コタツ」は、あの一つのコタツだけを指す。こうして、名詞の指す対象は、まったく新しいものとして受け止められる。描写され、物語の出来事に関わっていく過程で、その対象には新しい属性が次々と与えられるのである。ある意味で、これは人物造形において、より頻繁に使われる手法だ。森見はそれを、名詞が指す人物や物の描写に広く用いている。本来、物の描写は最終的に人物を描くために役立つべきものだが、森見は、ときに物そのものを語りの対象とし、その背後で描かれるはずの人物を表に出さない。そして物の奇妙さを、作品の描く社会環境全体へと広げていく。この手法が、森見作品の奇妙きてれつな印象や、独特のちぐはぐな可笑しさを生む源泉なのかもしれない。

主題に関わる個別分析の試み——『四畳半神話大系』を例に

森見作品のユーモアを分析するには、文章そのものを精読するだけでなく、もう一つの側面にも目を向ける必要がある。作品を貫く主題にも、作者自身——あるいは読者層まで含めた自分たち——を笑う自嘲や、登場人物に対する優越感が含まれている。そこから生まれるユーモアである。主題は作品ごとに異なるため、それぞれを個別に検討しなければならないだろう。そこで、ここでは『四畳半神話大系』を例に、個別分析を試みる。

『四畳半神話大系』は、森見が繰り返し取り上げる大学生という題材の一例である。作品の中心にあるのは、「薔薇色の大学生活」に憧れながら、自分ではひどいと思う生活を送り、その最大の原因は悪友の小津だと考えている主人公の姿だ。大学生活を何度も繰り返すなかで、主人公はようやく、実際には存在しない理想の状態には、永遠に到達できないと気づく。その理想を捨て、今の生活を楽しむこと。これが『四畳半』の示す一つの答えである。

大学生を主人公に据えることで、大学生が自分の生活に抱える行き詰まりが直接描き出される。作品全体を通じて、その行き詰まりの根源は、理想主義と現実との極端な不均衡として描かれる。ヘーゲルの喜劇論を通じて見たように、『四畳半』の結末は、悲劇的な語りを打ち破り、作品の喜劇的な色彩を強めている。しかし結末に至るまで、主人公が繰り返し経験するのは、「時間が失われ、二度と戻らない」という悲劇だ。各話の前半に至っては、主人公はいつも「さまざまな騒動に巻き込まれる、最も惨めな大学生」のように見える。その姿に読者と共通する経験が浮かび上がり、読者の記憶が呼び覚まされる。こうして読者は、優越感や自嘲に浸る一方で、作品の与える、一見きわめてもっともらしい答えに満足する。すなわち、現実と理想の違いを受け入れ、現実を楽しむという答えである。

何にでも効く万能薬のようなこの答えは、確かにユーモアを生んでいる。しかし実際には、物語の仕掛けによって曖昧になっている点がある。『四畳半』には、自分のあらゆる可能性を知ることのできる「果てしない四畳半の部屋」という設定がある。主人公はそこを巡り、自分のさまざまな暮らし方を見て初めて、理想の状態には手が届かないと悟る。主人公の理想は、追い求めることのできるあらゆる理想とは異なる。それは、到達できないと分かった完璧な状態にすぎない。ところが、現実に抱く理想は、しばしば実現可能である。その場合に変えなければならないのは、勇気を持って前に進めずにいる自分のほうだ。気楽に自分と折り合いをつければ済むほど、単純ではない。この二つの理想を混同したまま現実に当てはめれば、極端な場合には、自ら働きかける力を否定する宿命論へと向かうと考えられる。

別の角度から見ると、『四畳半』が示す理念には、単一の評価基準を作り上げる仕組みへの批判が暗に含まれているようにも見える。そして、多様な文化を認める意識が個人にも作用することを期待しているように思われる。「完璧」という理想は、権力によって定義され、作り上げられたものだ。そこに到達できないなら、最後にはそれを意に介さず、多元主義的な価値体系を築くことが、対処法になるのかもしれない。これは、長く単一民族の国家であった日本における、多元主義をめぐる問題意識に関わっている。グローバル化の波によって多様な文明がもたらされ、日本では「多文化社会」を論じようとする意識がますます高まっている。それが『四畳半』の主題のなかに潜んでいるように思われる。大学という仕組み全体のなかで、主人公は、ある種の「よそ者」の位置にいる。そして、完璧な生活に到達できないのと同じように、よそ者もまた、永遠に日本民族の一員にはなれないのである。

しかし、ここで問題になるのは、『四畳半』が変化を期待する相手は「よそ者」の側だということだ。そこには、説教めいた妥協、社会の現状をやむなく受け入れる姿勢がうかがえる。多文化社会を築こうとするのではなく、共同体から排除された個人の心構えを変えようとしているのだ。読者がこの考え方を読み取るなら、そこでのユーモアは、シニシズム、すなわち冷笑主義に根ざした嘲笑から生まれるものへと変わる。それは問題を解決せず、自分を卑下するふりをして、世の中を斜に構えてあしらう態度を見せるだけなのである。

おわりに

ユーモアは複雑な分析対象であり、その原因には、いまだ完全に統一された説明が与えられていない。そこで本稿は、ユーモアの三大理論を踏まえ、微視的なものから巨視的なものへと、分析の理論と視点を順序立てて用いることを試みた。具体的には、語用論の水準では関連性理論と最適な関連性の原理、喜劇性の水準ではヘーゲルの美学理論、物語の水準では「独自定義語」という森見の手法、主題の水準では個別作品の分析を取り上げた。こうして、文学作品に現れるユーモアの要素を、その仕組みにさかのぼって全面的に解き明かそうとしたのである。この過程全体から分かるのは、作品のどの水準にもユーモアの要素が現れうること、そして、それぞれの要素は原因も効果も異なりながら、互いに作用を強め合うということだ。また、作品同士を比べると、微視的なユーモアには共通するものがあるかもしれないが、巨視的な要素になるほど、その作品固有の性質が強まるように思われる。そうしたユーモアを説明するには、個々の作品に即した分析が必要になるだろう。

参考文献

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本文終わり
注03

注釈

  1. 訳注:「四畳半」という語そのものは森見の造語ではない。 ↑

  2. 訳注:提唱者の定式化では、認知原理は関連性の最大化、伝達原理は最適な関連性への期待を述べる。いずれも、守るべき会話の規則ではなく、認知と伝達の仕組みを記述する原理である。ウィルソンとスペルベルによる説明を参照。 ↑

  3. 訳注:「偽電気ブラン工場」については、『有頂天家族』公式各話あらすじを参照。 ↑

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