本稿は屋頂現視研「拾荒戦略 Rags Drum 2020」前夜祭の受賞作である。

はじめに
汲み取り便所の穴の底に広がる恐ろしい暗黒は、「子取りのおじさん」や「森の奥の底なし沼」と肩を並べ、私の想像力が生み出した最大級の恐怖であった。
森見登美彦『太陽と乙女』「便所の思い出」
森見登美彦の小説がユーモラスであることは、一読すればすぐにわかる。たとえば冒頭から、「四畳半」のような、一見難しそうでいて実はでたらめな自作の用語を、もっともらしく解説してみせる。初めて森見作品を読む人は、ある種の新鮮さと同時に、かすかな不安さえ覚えるだろう。日常的でありながら奇妙な世界に、いきなり放り込まれるからである。その感覚は、カフカの『変身』を読み始めたときと、まったく無縁ではない。もっとも、少し先へ進めば両者がまるで違うことはすぐわかる。
では、森見の小説はなぜ面白いのか。そう問いを絞っても、短い答えで済ませるのは難しい。豊かな想像力ゆえだと言うことはできるが、それではユーモアがどう作られているかはわからないままだ。小説家は読者の感情に入り込み、笑いを誘う一文を書くことができる。その共感がどこから生まれるのかを、本人が必ずしも理解している必要はない。思いついた面白いことを、文章にすればよいのである。本稿が明らかにしたいのは、ユーモアを介して書き手と読み手のあいだに生じる、この共鳴のあり方である。
ユーモアとユーモア理論
ユーモアの源をたどるなら、まず「ユーモアとは何か」という最も基本的な問いから始めなければならない。
現代中国語の「幽默」は、英語の humor に由来する。意図的に人を笑わせようとするものを指す言葉であり、なぜ笑いが起きるのかまでは説明しない。ただし、ある情報が受け手のうちに突然の快を生じさせたことは含意している。ユーモアの原因をめぐる理論は、一般に三つの系統に大別される。優越理論(蔑視理論)、解放理論、不調和理論である。優越理論は、怨恨や軽蔑、他者よりも上にいるという感覚にユーモアの根を求める。解放理論は、社会的な拘束によって生じた緊張や抑圧の放出としてユーモアを捉える。不調和理論では、「複雑な対象ないし集合体のうちに、相互に一致せず、不調和で、あるいは不適切な部分や状況が結び合わされること、または、そうした諸要素のあいだに精神が把握しうる何らかの関係が生まれること」にユーモアの原因を見いだす。多くのユーモアは不調和によって説明できる。もちろん万能の理論ではないが、不調和という考え方は、さらに個別的なユーモア理論にも広く取り込まれており、分析上の有力な道具となる。以下では、ほかの二つの理論も参照しつつ、不調和を中心に森見作品を考えていく。
ユーモアは、種類によって受け手にもたらす経験も異なる。たとえば小説のユーモアは、短いジョークの面白さとはしばしば違って感じられる。どちらも読者や聞き手に快を与えるが、文学作品のユーモアははるかに複雑に見える。次の二つを比べてみよう。
ロバート少年は、母親に二セントをねだった。「昨日あげたお金はどうしたの?」
「かわいそうなおばあさんにあげたんだ」と少年は答えた。
「いい子ね」と母親は誇らしげに言った。「もう二セントあげましょう。でも、どうしてそのおばあさんをそんなに気にかけるの?」
「キャンディーを売っている人だから」
「いい子」
「こんな場所には、もう帰ってこようとは思わないだろう」
私がそう言い終わるや否や、先生は轟然たる屁をひった。先生もその音量に驚いて、「あれ」と小さく声を上げた。
『有頂天家族』
最初のジョークでは、少年がおばあさんに金を渡したのは人助けのためではなく、キャンディーを買うためだったことが、すばやい反転によって明らかになる。面白さはすぐに伝わる。これに対し、文学的な文脈に埋め込まれた二つ目のくだりは、もっと複雑で豊かなユーモアをもつが、そこだけ抜き出せばずいぶん下品にも見える。抜粋によって失われたのは、作品のほかの要素との関係である。ここでの先生の反応は人物造形の一部であり、そのおかしさは一文を越えて作品全体へ広がっている。言い換えれば、ユーモアは関連性の急転だけから生じるとは限らない。作品全体の喜劇的な形式から生まれることもある。
原因と類型のどちらから見ても、ユーモアは複雑な産物である。本稿は新たな一般理論を提案するのではなく、いくつかの異なる尺度から森見作品のユーモアに近づく。単独で完結する一節、作品全体の喜劇性、反復される「造語」という要素、そして作品の主題である。
認知語用論的分析――短いジョークの連鎖としての森見文学
森見作品には、原作の文脈から切り離しても強い笑いを保つ一節が多い。こうした自己完結的なくだりは、最も直接的に分析できる。その主な理論的基盤となるのが、ダン・スペルベルとディアドリ・ウィルソンが『関連性――コミュニケーションと認知』で提唱した関連性理論である。
関連性理論は、言語コミュニケーションを推論に基づく認知過程として捉える。そこには二つの原則がある。人間の認知は最大の関連性を目指す傾向にあるという「認知原則」と、すべての明示的な伝達行為は、それ自体が最適な関連性をもつとの見込みを伝達するという「伝達原則」である。発話は目的をもつ行為であり、明示と推論からなる認知過程である。双方は最小の負担で最大の関連性を得ようとし、相手もそうするものと想定する。関連性の程度は、既存の文脈に生じる変化である認知効果と、その情報を処理するための労力によって決まる。
この観点から見れば、話し手はふつう必要な情報を提示し、受け手はそこに含まれる意図を推論する。情報を受け取った人は、まず最大の関連性を想定して話し手の意図を解釈し、その後に新たな情報が加わるたびに推論を修正し、最終的に最適な関連性をもつ解釈へたどり着く。ユーモアはしばしば、最初の推論と最後の解釈との落差から生まれる。その落差が不調和となって現れるのである。関連性理論を使えば、ほとんどのユーモラスな一節について、その仕組みを分析できる。森見作品では、とりわけ次のような型が目立つ。ただし、これですべてではない。
(一)言説の文脈が衝突することで生まれるユーモア
私とて誕生以来こんな有様だったわけではない。
生後間もない頃の私は純粋無垢の権化であり、光源氏の赤子時代もかくやと思われる愛らしさ、邪念のかけらもないその笑顔は郷里の山野を愛の光で満たしたと言われる。それが今はどうであろう。鏡を眺めるたびに怒りに駆られる。なにゆえおまえはそんなことになってしまったのだ。これが現時点におけるおまえの総決算だというのか。
まだ若いのだからと言う人もあろう。人間はいくらでも変わることができると。
そんな馬鹿なことがあるものか。
『四畳半神話大系』
最初の二段落は、語り手の現在の惨状を嘆くことに費やされている。第三段落で周囲からの励ましに話が移ると、ふつうなら、これから少しは前向きなことが語られると予想する。少なくとも、慰めてくれる相手の好意くらいは認めるだろう。したがって、読者が最大の関連性を想定したとき、第四段落は肯定的な方向へ転じるはずである。ところが語り手は励ましを一蹴し、自分の境遇はどうにもならず、取り返しもつかないと断言する。最適な関連性をもつ解釈として現れるのは、またしても絶望なのである。
(二)比喩の密集によって生まれるユーモア
「入れすぎると、どんな料理もカレーになる」という簡潔な説明は、まさに要点を射抜いている。その危険は深刻であり、責任ある大人なら「分量には十分注意せよ」と警告せずにはいられない。カレー粉がこれほど危険なものだったとは。私には早くも、森の奥に潜むカレー魔が見えた。
『太陽と乙女』「カレー魔」
「入れすぎると、どんな料理もカレーになる」という一文は、すでに明らかな誇張である。比喩をこれほど密集させ、まして比喩の中へさらに比喩を入れ込むことは、ふつうはしない。ここでは、誇張された一文そのものが、もう一つの比喩の対象になっている。関連性理論の言葉を借りれば、こうした比喩の氾濫は、意味の上で余計なものを加えているため、伝達原則に反する。最大の関連性を求める読者は、「カレー魔」には何か意味があり、「危険」という言葉以上に深く鮮明なものを表すはずだと考える。しかし実際には、最も必要のなさそうなところで「カレー魔」が持ち出される。その無駄こそが、この一節に子どもっぽい楽しさを与えている。
(三)名詞の意外な反復によって生まれるユーモア
「韋駄天コタツも油断ならんぞ」「韋駄天コタツ? コタツはコタツだが、韋駄天とは何だ」「妙な連中がコタツに入って、構内をうろついてんだよ。あんまり神出鬼没だから、韋駄天コタツと呼んでいるのさ」
『夜は短し歩けよ乙女』
この対話は「韋駄天コタツ」という名の由来を説明している。韋駄天は足の速さで知られる仏教の護法神である。その名と暖房器具のコタツを結び合わせるだけでも意外だ。読者は最初、それを正式な命名ではなく、その場限りの比喩だと受け取りやすい。まじめな呼称にはあまりにふざけているからである。ところが森見は、その後も「韋駄天コタツ」という名を何度も使う。そこで初めて、これが固有名詞として使われているとわかる。最適な関連性をもつ解釈とは、そのコタツが韋駄天に似ているということではない。構内を担がれてさまよう、あの一台のコタツが「韋駄天コタツ」と呼ばれている、ということである。
森見作品では、「四畳半」「偏屈王」「代理戦争」といった表現にも同じ手法が使われている。新奇な語を次々と重ねることが、物語の表現力を大きく支えているのである。
関連性理論を使えば、ほとんどの一節に含まれるユーモアの要素を分析できる。しかし、逃れられない限界もある。この理論が説明するのは、ひとまとまりのテキストが文脈をどう変えるかであって、小説全体という大きな尺度で働く要素までは捉えきれない。個々の分析はどうしても散らばり、同じ人物にまつわる出来事のすべてを結びつけることも、作品全体が築く文脈を十分に考慮することもできない。関連性理論は厳密だが、射程は限られている。本稿でこの理論を用いるのは、ユーモアが生まれる最も基礎的な仕組みについて、一つの説明を示すためである。
喜劇性から見るユーモア――喜劇としての森見文学
ヘーゲルは次のように述べている。「本質と現象の対立であれ、目的と手段の対立であれ、そこに矛盾や不釣り合いが現れ、現象が自らを否定するか、対立が実現の過程で無に帰すなら、そのような事態は滑稽と呼べる。しかし喜劇性には、さらに深いものが要求される。」
一つの作品を、空疎な笑いの場面をつぎはぎしたものと見なせば、全体として備えているものをいくつも見落としてしまう。そのうち最も重要なのが、喜劇性である。
ヘーゲルにおいて、実体性とは普遍的かつ理性的な倫理的諸力の総体であり、法と主観的道徳に体現された最高善を指す。これに対して主体性は、倫理的実体の客観的内容をもたず、個人の内面に生まれる善悪の基準にすぎない。喜劇では主体性が主な要因となり、実体性は後景へ退く。悲劇で作用するのは、実体性のほうである。
ヘーゲルの美学から見ると、『四畳半神話大系』は典型的な作品とは言い難い。主人公が夢見る「薔薇色のキャンパスライフ」を、社会的地位や個人の価値にかかわる観念、すなわち実体的なものと考えてみよう。すると実体性は、作品を通じてずっと存在していることになる。主人公は当初、現実的な価値から自分がひどく隔たっていると感じ、そこには悲劇的な色合いさえある。しかし物語が進むと、大きな反転が起きる。実体的なものを飽くことなく追い続ける状態そのものが、馬鹿げて見えてくるのである。各話は、荒唐無稽な帰納的反復を通じて、同じ悲劇的結末、あるいは主人公が悲劇だと思い込む結末へ行き着く。無限に連なる四畳半の平行世界から全体を眺めて初めて、彼は自分が望んだ「薔薇色のキャンパスライフ」など存在しないと悟る。したがって『四畳半神話大系』の喜劇性は、喜劇だけにあるのではない。悲劇の型が解体されることにもある。
ヘーゲルは、喜劇の対象となりうる内容を三つに分けて簡潔に論じている。森見作品の文脈で、いずれも詳しく検討する価値がある。
(一)目的も性格も実体性をまったく欠き、しかも矛盾を含むため、みずからを実現できない場合
『四畳半神話大系』では、存在しない「完璧な薔薇色の生活」への主人公の渇望と貪欲さが、この種の喜劇性を生む。その生活は抽象的で、実在しない。彼はそれを追うあまり、いまの生活に満足する可能性を自ら手放す。目標へ到達できないだけでなく、その途中で多くの価値あるものや機会まで捨ててしまう。喜劇的な転回が起きるのは、理想の生活へ至れないと悟った最後の一巡で、主人公と小津のやりとりが、それ以前とは逆転するときである。
それまでの周回で、主人公はまだ完璧な生活を求めている。
私は、可哀想な私をさらに惨めにして何が面白いのかと問い詰めた。小津はいつものように妖怪じみた笑みを浮かべ、へへへと笑った。「これは僕なりの愛です」
「そんな汚らしいものは要らん」と私は答えた。
物語の最後で、主人公は自分が追い求めていたものの実体が空虚だったと悟る。失敗など気にも留めず、晴れやかにそれを乗り越える。
「つべこべ言わず、私に払わせろ」
「どうしてそんなに払いたいんです?」
私は邪悪な笑みを浮かべた。「これは私なりの愛だ」
「そんな汚らしいものは要りません」と彼は答えた。
(二)実体的な目的と性格を実現しようとしながら、個人としてはその実現をことごとく妨げる道具になってしまう場合。
森見作品にもこの種の喜劇性はある。ただし最終的には解消され、読者がその喜劇性を誤認するよう、意図的に仕向けられる。たとえば『夜は短し歩けよ乙女』では、パンツ総番長が思いを寄せる女性と出会うまで下着を替えないと誓う。一見すると、自ら目的の達成を妨げている典型例だが、実際にはその誓いが彼女との出会いを左右することはない。アニメ映画版には、もっとわかりやすい例が加えられている。先輩は李白の電車から自分のズボンを取り戻そうとするが、手を伸ばす前に電車が走り去ってしまう。こうして彼は下半身をさらしたまま黒髪の乙女の前へ現れる。あらゆる苦労を乗り越えてようやくたどり着いたのに、ひどい第一印象を与え、「お友達パンチ」で水へ叩き込まれるのである。

なぜ森見作品には、この型の喜劇性がはっきりとは現れにくいのか。大きな理由の一つは、森見文学が鋭い社会問題を前面に出すことが少なく、個人を中心に据え、結末も悲劇に終わることが少ない点にある。とりわけ男子大学生を描くとき、森見は彼らの行動を理由に、その集団全体を嘲笑することはない。何しろ、自身もかつてその一人だった。一方で、ときに度を越す彼らの振る舞いから目をそらすわけでもない。多くの物語作家と同じく、まず状況に喜劇的な形を与え、その後に肯定的に扱う。最後に求めているのは、読者が巧みに人物へ共感できるようにすることであって、部外者の位置から盛大にあざ笑うことではない。
(三)外からの偶然が状況を複雑にし、目的を実現させ、内面の性格と外的な事情の双方を喜劇的な矛盾に変え、喜劇的な解決をもたらす場合。
『四畳半神話大系』の各話は、いずれもこの仕方で終わる。最後のきっかけはいつも、明石さんが蛾を怖がることと、彼女がなくしたもちぐまんを主人公が持っていること、この二つにかかっている。どちらも偶然に生じたことである。
森見はまた、偶然と、目に見えて複雑な人物関係とを組み合わせ、喜劇的な場面を作ることを好む。たとえば『有頂天家族』の終盤では、狸の長老たちが次の偽右衛門を選ぶ会議を開いている。その隣室では、先の騒ぎで会場を移すことになった金曜倶楽部が、狸鍋を囲む宴会の支度をしている。怒りに燃えた矢一郎は大虎に化け、部屋の仕切りを壊してしまう。この偶然によって矢三郎は母を救う機会を得て、文章の空気も喜劇へとほぐれていく。
隣の座敷では、長老から幹部までがぎっしり詰め込まれていた。「金曜倶楽部が来たぞ!」という警告を聞くや、言葉にならない悲鳴が部屋いっぱいに上がった。慌てふためく狸たちは次々と化けの皮を脱ぎ、無数の毛玉が湧き出して、床一面がうごめく絨毯に覆われたようになった。そこへ淀川教授が「ごめんなさい! ごめんなさい!」と叫びながら飛び込み、もちろんわざとではないのだが、少なからぬ毛玉を蹴飛ばした。
『有頂天家族』
偶然は喜劇だけのものではなく、あらゆる物語でおなじみの手法である。それでも森見文学が、「事故」を使って独特の新鮮さを生み出していることは確かだろう。
「造語」と充実した物語構造
一つのくだりから作品全体へと尺度を広げて森見文学を見てきたところで、今度は、より特徴的な技法を詳しく考えたい。私がとりわけ注目するのは「造語」である。関連性理論によって、その語が初めて現れるときの不調和はすでに分析した。しかし、あれは個々のくだりの意味に限った説明だった。造語は登場時に働くだけではなく、一冊の物語、さらには複数の作品の物語に奉仕する。それは一節だけの修辞ではなく、小説の語りそのものに組み込まれた要素である。以下、いくつかの例からその働きを見ていこう。
(一)一度説明され、何度も使われる語
「お友達パンチ」「パンツ総番長」「金曜倶楽部」などがその例である。
「お友達パンチ」を御存知であろうか。たとえば手近な人間のほっぺたへ、やむを得ず鉄拳をお見舞いする必要が生じた時、人は拳を堅く握りしめる。……しかしここで、いったんその拳を解いて、親指をほかの四本の指でくるみ込むように握りなおしてみよう。こうすると、男っぽいごつごつとした拳が、一転して自信なさげな、まるで招き猫の手のような愛らしさを湛える。……
幼い頃、彼女は、姉から「お友達パンチ」を伝授された。
姉は、次のように語った。
よろしいですか? 女たるもの、のべつ幕なく、鉄拳を振るってはいけません。けれども、この広い世の中、聖人君子などは、ほんの一握り。残るは腐れ外道か、ど阿呆か、そうでなければ、腐れ外道であり、かつ、ど阿呆です。だから、振るいたくない鉄拳を敢えて振るわねばならぬ時もある。そんな時は、私の教えた「お友達パンチ」をお使いなさい。
固く握った拳には愛がないけれども、お友達パンチには愛がある。愛に満ちた「お友達パンチ」を駆使して、優雅に世を渡ってこそ、美しく調和のある人生が拓けるのです。
美しく調和のある人生、その言葉が、いたく、彼女の心を打った。
『夜は短し歩けよ乙女』
冒頭の説明によって、「お友達パンチ」は「愛のある」拳の振るい方として定義される。それは黒髪の乙女に、美しく調和のある人生を願う無垢な姿を与える。発想は生き生きとして面白く、しかも妙に説得力がある。その後、東堂さんから迷惑を受けた場面でこの言葉が再び使われると、乙女の優雅さを損なうことなく、その断固とした態度を示すことができる。意味の表現としても新鮮である。
(二)何度も説明され、何度も使われる語
「偽電気ブラン」「猫ラーメン」などがその例である。
「電気ブランの製法は門外不出だったが、京都中央電話局の職員がその味を再現しようと企てた。試行錯誤の末、袋小路のどん詰まりで奇跡のように発明されたのが、偽電気ブランだ。偶然できたものだから、味も香りも電気ブランとは全然違うんだよ」
『夜は短し歩けよ乙女』
グラスに注がれた偽電気ブランは、水のように澄んで、ほのかな橙色を帯びていた。グラスを手に取り、そっと香りを嗅ぐと、目の前に大きな花が開いたような錯覚に陥った。
『夜は短し歩けよ乙女』
謎めいた偽電気ブランは、『夜は短し歩けよ乙女』で繰り返し描かれ、強い神秘性を帯びていく。それは、もはや特定の酒を指すだけではなく、森見が創造した一つの事物になる。李白との飲み比べでは、さらに別の価値が与えられる。芳香に満ち、人生を内側から温める味である。この描写が、偽電気ブランの性格をいっそう強めている。また『有頂天家族』には偽電気ブランの工場が登場し、登場人物たちの世界では何の説明もいらない、ごく普通のものとして扱われる。そのことが作品の幻想的な色彩を一気に濃くする。
以上の例から、「造語」について一つの型を取り出すことができる。
中国語のラベルが示す順序は、「語が作られる」→「第1の説明」→「第2の説明」→「第3の説明」→「語が物語環境1へ入る」→「語が物語環境2へ入る」→……。

新しい語が作られたとき、まずその形の字義的な意味が生じる。たとえば「韋駄天コタツ」なら、文字どおりには走るコタツを思わせる。学園祭事務局長による説明が、最初の意味を加える。事務局にとって、それは手を焼かせる存在なのである。やがて事務局長が、その上でパンツ総番長が『偏屈王』の脚本を書いていると知ると、第二の意味が加わる。同時に、この物は何度も物語に入り込む。黒髪の乙女が乗り手たちと偶然出会い、その後に起きる一連の出来事。天板の豆乳鍋。樋口師匠がそこを拠点に本を転売して儲けること。そして、パンツ総番長がロマンに満ちた様子で脚本を書き続ける姿である。
このような語には、具体的にどんな働きがあるのか。まず、物質を指す普通名詞を考えてみよう。「扉の鍵」という言葉を目にすると、特定の扉を開ける道具であり、鍵穴へ差し込む細長い部分と、手で持つ太く短い部分があるものを思い浮かべる。これは、それまで鍵に接してきた経験から取り出した抽象的な情報である。同じように、「彼は扉の鍵を手に扉へ向かった」と読めば、ふつうは鍵で扉を開けるつもりだと考える。この推論も、鍵という物についての経験から生まれる。つまり名詞は、その指示対象だけを表すのではない。私たちが与えてきた多くの属性を背負っている。
造語は、初めから二つの既存名詞を組み合わせていることがあり、それぞれの属性の一部を受け継いでいるように見える。だからといって、最初から多くの属性を備えているわけではない。むしろ、まだ説明されていないため、読者には未知のものとして現れる。既存の経験から得られるのは、可能性にすぎない。造語は定義を狭めることもある。たとえば「韋駄天コタツ」が指すのは、あの一台のコタツだけである。こうした指示対象はまったく新しい事物として理解でき、描写され、物語へ参加するたびに新たな属性を獲得していく。
この方法は、一般には人物造形に使われることが多い。森見はそれを、造語が名指す人や物にも広く用いる。本来、物は最終的に人物の描写へ奉仕するはずだが、森見はときに物そのものを物語の主体とし、その背後で表現される人物を表面から隠してしまう。すると物の奇妙さが、物語の社会全体へ広がっていく。この手法こそが、森見作品にある目くるめくような感覚、独特の不調和を生む源の一つなのかもしれない。
主題にかかわる事例分析――『四畳半神話大系』
森見作品のユーモアを分析するには、テキストそのものを精読するだけでなく、作品の主題に貫かれたユーモアにも目を向ける必要がある。そこには、作者自身や読者に向けられた自嘲や、登場人物に対する優越感が含まれる。主題は作品ごとに異なるため、一作ずつ検討しなければならない場合もある。ここでは『四畳半神話大系』を例に、試論を示したい。
『四畳半神話大系』は、森見がたびたび描く大学生ものの代表例である。主人公は「薔薇色のキャンパスライフ」に憧れながら、自分ではひどいと思う生活を送り、その最大の原因を悪友の小津に求める。幾度も周回を重ねて初めて、欲していた理想の状態など存在しないと悟る。理想を手放し、現在の生活を楽しむこと。それが『四畳半神話大系』の示す一つの答えである。
大学生を主人公にすることで、学生生活の困難が直接描き出される。作品はその根に、理想主義と現実との極端な不均衡を置いている。ヘーゲルの喜劇論から見たように、結末は悲劇的な語りを崩し、作品の喜劇性を強める。しかし結末へ至るまで、主人公は「失われた時間は取り戻せない」という悲劇を何度も経験する。各話の前半では、「次々と騒動に巻き込まれる、この世で最も不運な大学生」のようにさえ見える。そこで読者にも覚えのある共通体験が呼び起こされる。読者は優越感と自嘲の双方へ引き込まれ、作品が与える、一見もっともな答えに満足する。現実と理想の違いを受け入れ、現実を楽しめ、という答えである。
この万能薬のような答えは、確かにユーモアを生む。しかし実は、劇的な曖昧さを含んでいる。『四畳半神話大系』は、自分のあらゆる可能性を知ることのできる「果てしなく続く四畳半の部屋」を想定する。主人公はそこをさまよい、自分が送りえたさまざまな人生を見た末に、到達不能な理想状態には手が届かないと悟る。彼の理想は、現実に追求しうる理想とは違う。あらかじめ到達不能とわかっている完璧な状態にすぎない。しかし現実の理想には、しばしば手の届くものもある。そのとき変えるべきなのは、気軽に自分と折り合うことではなく、勇気をもって前へ進めない自分のあり方だろう。この二つを混同して現実へ当てはめれば、極端な場合、自らの能動性を取り消す宿命論へ行き着く。
別の角度から見ると、『四畳半神話大系』が示す考え方には、単一の評価軸を築く制度への批判と、多文化的な意識が個人に働きかけることへの期待も潜んでいるように見える。「完璧」という理想は、権力によって定義され、構築される。そこへ届かないなら、いっそ気にせず、多元的な価値体系を作ればよい。これは、長く単一民族国家と想像されてきた日本における、多元主義の議論とつながっている。グローバル化によって多くの文化が接触し、日本でも「多文化社会」が次第に強く意識されるようになった。その議論の一端が、『四畳半神話大系』の主題の底にあるのではないか。大学という制度のなかで、主人公は「異邦人」の位置にいる。完璧な学生生活へ届かないのと同じように、異邦人もまた、日本民族の一員にはなりきれない。
だが問題は、『四畳半神話大系』の期待が「異邦人」のほうへ向けられていることにある。それは教訓めいた妥協、社会の現状をやむなく受け入れることにも見える。多文化社会を作ろうとするのではなく、共同体から排除された個人の心の持ち方を変えようとするからである。読者がこの観念を受け入れれば、ユーモアはシニカルな嘲笑へ変わる。問題を解決せず、自らを低く見せるふりをして、斜に構えた態度を示すだけになってしまう。
おわりに
ユーモアは複雑な研究領域であり、その原因には、いまだ統一的な説明がない。そこで本稿は、三つの主要なユーモア理論から出発し、ミクロからマクロへと、いくつかの道筋に沿って分析を進めた。語用論の水準では関連性理論と最適な関連性、喜劇性の水準ではヘーゲル美学、物語の水準では森見の「造語」という技法、主題の水準では個別作品の分析である。文学作品に現れるユーモアの要素を、できる限り全面的に捉え直すことが目的だった。
その過程から、作品のどの水準にもユーモアの要素があり、原因と効果はそれぞれ異なりながら、互いを押し進めていることがわかる。ミクロな水準では、作品が違ってもユーモアの仕組みは似ていることがある。しかしマクロな要素になるほど、その作品に固有のものになっていく。その段階では、一作ごとの分析によって説明する必要があるだろう。
参考文献
- 蔡辉、尹星「西方幽默理论研究综述」『外语研究』2005年第1号、5-8、15頁。
- 王勤玲『幽默言语的认知语用研究』復旦大学博士論文、2005年。
- 刘洋『关联理论视角下的〈哈利·波特〉中的幽默乖讹与消解』中南民族大学修士論文、2011年。
- 王泽芳、张小波、李军「关联理论视角下脱口秀幽默话语分析」『中国报业』2020年第6号、78-79頁。
- 李藤「关联理论视角下英语笑话言语幽默的解读」『农家参谋』2020年第3号、226、291頁。
- 王莹『从关联理论角度分析〈老友记〉中的言语幽默』西安外国語大学修士論文、2019年。
- ヘーゲル『美学』商務印書館、北京、2006年。
- 张天棋『试论黑格尔〈美学〉中的戏剧美学思想』山東大学修士論文、2019年。
- 贺文汇「黑格尔〈美学〉思想初探」『戏剧之家』2015年第11号、256-257頁。
- 盛百卉「表现主义艺术溯源及精神内涵」『文化创新比较研究』第3巻第8号、2019年、16-17頁。