
言葉があふれ出す、紙コップに降りこむ果てしない雨のように。
ボオドレエルは白痴になつた後、彼の人生観をたつた一語に、――女陰の一語に表白した。
——芥川龍之介1
その一
富野由悠季はかなり多作な作家だ。アニメ作品の監督を務めるだけでなく、計23作の小説を執筆している。その活動において、小説の執筆が占める比重は小さくない。もう一つ見逃せないのは、一般に区分される「黒富野」(『機動戦士Vガンダム』以前)と「白富野」(『ブレンパワード』あるいは『∀ガンダム』以降)の二つの時期のあいだに、いわゆる「病気の富野」の時期(1994~1997年)があることだ。この時期の作品を研究することは、富野の思想の流れをたどり、その作風が一見180度も転じた理由を理解するうえで、重要な意味を持つはずだ。
富野が病んでいた時期を振り返るには、まず『V』から話を始めなくてはならない。頓挫した『F91』のテレビシリーズの代わりとして、『V』はサンライズや外注先の、経験の浅い若手スタッフを中心に制作が始まった。だが、制作はただ過酷だっただけではない。上からの指示が対立や混乱を引き起こした。たとえばバンダイは、ヴィクトリーガンダムを第1話に登場させるために横槍を入れ、本来の第4話を第1話に繰り上げさせた。バンダイの取締役、村上克司は、アニメにバイク戦艦を登場させるよう要求した。そして制作が終わった後になって初めて、富野は『V』が実はバンダイによるサンライズ買収交渉の材料だったことを知る。自分には、最後まで何も知らされていなかったのだ。
富野は病んだ。たびたびめまいに襲われ、立っていられないほどだった。テレビアニメの制作からは、いったん手を引いた。だが、この暗い時期に、彼はいくつかの小説を書いた。そのうち『アベニールをさがして』『ガーゼィの翼』『王の心』が、いわゆる「病気三部作」である。ファンの尽力によって希少な絶版本が掘り起こされ、18万~19万字に及ぶ作品が翻訳されたことで、富野最大の問題作、性と血の物語『王の心』(1995~1996年)が中国のファンにも読めるようになった。中国国内の富野研究にとって、間違いなく心の躍る出来事だ。
幻想小説である『王の心』に、ロボットは登場しない。舞台は架空の惑星。砂漠と海洋が広がり、王国はオアシスに沿って築かれている。そこに暮らす人々は、大地から得られる「アウラ・エナジィ」(Aura Energy)という生体エネルギーを持つ。そして、アジャリという特別な身分の者たちは、自分たちが信奉する聖典を用いて、「浮上エネルギー」と呼ばれる秘術を行使し、飛行機械を飛び立たせることができる。2小説は、次の一文で始まる。
「この時代、自国を浮島にすることが王たちの理想だった。」
この一文は、作品と富野のガンダムとのつながりを端的に示している。浮上すること、あるいは重力から脱することは、彼の作品に繰り返し現れる主題だ。重力は世の万物を決まった軌道に沿って落下させ、地上の人々の魂を縛りつける。魂はあまりに重い。大人の価値観、観念、思慮をずっしりと詰め込み、「欲望、憎しみ、知恵への囚われ」が誰をも飛べなくしている。これに対して、アウラ・エナジィを肯定し、生命を讃えることで、王国は惑星を離れ、浮かぶ大地となって、大空を自由に軽やかに飛翔する。それが本作における富野の「ユートピア」だ。これはまさに、〈重力の精神〉と〈生の意志〉という構図なのである。
興味深いことに、『王の心』で富野は、一方では悲劇の肯定を通じて生命そのものを肯定しようとする。人間は運命に抗うが、結局、誰一人として生の悲劇を免れない。これは『伝説巨神イデオン 発動篇』の逃れようのない「閉回路」のように、「黒富野」の時期の作品に対応する。他方、結末の「彼方の三星物語」では、物語本編から遠く隔たった後年、浮かぶ大地というユートピアがついに実現する。憎しみの連鎖を突き破り、「外部」が現れて閉回路を破るのだ。この超越性は、『∀』最終話「黄金の秋」に対応している。
「ユートピア」という概念の政治性も忘れてはならない。「臣民たちよ、おまえたちが勤勉であれば、その生体エネルギーはカロッダの大地を大空に飛翔させる力となり、私たちを新たな大地へ運ぶ。勤勉で正直でなければ、カロッダは灼熱の大地へ落ち、二度と浮かび上がることはできない。」カロッダの大地を浮かせているのは、国民の高まったアウラ・エナジィの共振(統一)である。富野は、そこに潜む危険を忘れてはいない。ファシズムだ。第一巻では、カロッダのグラン王が陰謀によって命を落とし、後に残った政権は、大地を浮かせる力によって大陸の他の諸国を支配しようとする。ここには、国家体制に対する富野の一貫した悲観が表れている。『閃光のハサウェイ』では、富野はギギの口を借りてこう言う。
「絶対に間違いを犯さないやり方があるとすれば、それは理想の独裁政権をつくることだ。」
一方で、富野は戦争の男性的な性格にも目を向けていた。「戦争に入ってしまえば、女性の論理はまったく役に立たなくなり、女性も男性となって、男性の論理で戦わざるをえなくなる」というのだ。政治、あるいは組織と戦争に対するこうした独特の省察があるからこそ、『∀』には女性的な気質を持つ男性主人公が置かれ、最終話「黄金の秋」では、地球と月のそれぞれに女性の指導者が置かれる。もう一つ面白いのは、子どもの世話を引き受けるのが、むしろ男性であるジョゼフだという点だ。ここでは明らかに、ジェンダーとしての男性と女性も、いわゆる男らしさと女らしさも、社会と文化によってつくられたものにすぎない(この先で論じるのも、まさに社会的に構築される性別、そして生理的な性の特徴に愚かしいほど直接に結びつけられた社会的偏見である)。こうして、生物学的な性を根拠とする文化的・政治的な差異はしだいに消えていく。女性は政治の舞台の中央へ出ていけるし、男性も家事を引き受けなくてはならない。進歩的な政治家を自任する日和見主義者のグエンは、リリに言う。「スカートをはいた人間にも産業革命を起こせる時代が来るには、まだしばらくかかるでしょう。」だがリリはグエンに別れを告げ、きっぱりと言い切る。
「お元気で。スカートをはいた私にも、アメリアを治めることはできます。」
しかし、「病気の富野」の時期に書かれた『王の心』は、なお悲劇を中心とする小説である。実際に描かれるのは失敗であり、とりわけ「女性の失敗」だ。これを「女性嫌悪」と受け取る人もいるかもしれない。つまり、女性の姿やその失敗、すなわち何もなしえない姿を描くことで、男性に完全性と権力の幻想を与え、男性主導の秩序と階層制を再確立している、と。しかし、ここまでたどってきた富野作品の系譜から考えれば、それは間違いなく誤読だと私は思う。実際、『王の心』の語りを主導するのは女性であり、その主体性、欲望、能動性が物語の中心に据えられている。しかも、はるか後年の結末「彼方の三星物語」では、浮かぶ大地の人々は、太陽が姿を変えた三つの星に、本作の女性登場人物であるアカイアー、ライラ、イシェスの名を与え、2大地が大空を航行する力を与えたのは彼女たちだと考えている。このユートピアは、女性のユートピアなのだ。だから、むしろ逆なのである。富野が描いているのは、男性の社会的な優位と女性に対する支配の終わり、あるいはその終わりが近づいているということなのだ。
だから私は、作家としての富野は、女性が男性の言説を超える必要を明らかに自覚していたのだと思う。女性は男性の言説の外へ身を置き、越境と欲望を通じて独立した存在を求め、自分が何者であるかを自分で決めなくてはならない。自分が何者かを、自分では決められない――社会的に構築された二項対立、つまり生殖器官に直接結びつけられた能動と受動の関係の中で、ジェンダー・アイデンティティを求めなくてはならないとは、なんと不条理なことだろう……。だが、事はそれほど単純ではない。姿勢を示せばそれで終わり、というわけにはいかない。富野が作品の中で女性の失敗を通じて問い続けているのは、実はそこにおける男性の逃れようのない責任だ。グラン王が小説の中で繰り返し強調する、自ら犯した「業」がまさにそれである(一夫多妻制もその一つだ)。
『王の心』は実際には、家父長制のイデオロギーのもと、この象徴秩序の中で女性が必然的に失敗する、その物語なのだ。この失敗が必然であるのは、表面上の見え方とはまったく逆に、女性をめぐる問題が単純な男女の二項対立ではないからである(言い換えれば、女性が対抗しなくてはならないのは、男性という具体的な存在ではなく、女性自身をも呑み込んだイデオロギーのブラックホールだ。その大きな特徴の一つは、自分はイデオロギーの外にいると思う者ほど、しばしばその内側にいることだ)。女性はすでに象徴秩序の中にいて、分裂した、性化された主体となっている。ここでの抵抗、つまり男性を超えるために主体性を求める試みは、どれもまず女性が男性となり、男性の言説を使うことから始めざるをえないように見える。とりわけ、資本主義と消費主義の現実の中では、権力を手にするにも男性と同じゲームに加わるほかないように見える。資本がなければ、声を上げることすらできない。こうして抵抗は、逃れるすべもなく家父長制の回路に回収されていく。
『王の心』のメスジアがそうだ。彼女は仕事、政治、権力といった公的領域で男性が享受する権利に反抗し、男性と同じ欲望、快楽、喜びを享受することを求める。境界、位置、規則を軽んじ、アイデンティティ、システム、秩序をかき乱して、男性の閉回路を超えようとする。だが逆説的にも、「能動的な立場」を得るためには、男性的な様式を採らざるをえない。男性の力を用いて家父長制の権力の働きを押しとどめながら、同時に女性性を仮面としてまとうのだ。共謀しながら抵抗するというやり方を採る以上、彼女は二つのジェンダー・アイデンティティのあいだを揺れ動かざるをえない。自分を男と仮定しながら、女に扮するのである。メスジアは自己矛盾を抱えている。その矛盾は肉体の次元にも現れる。富野は彼女を、生殖能力を持たず、「産み出す」ことのできない人物として描く。だが読者は、その矛盾をすぐに理解できるとは限らない。小説の最後の「ネジアと戦うメスジアが好きだ」という一文に至って初めて、彼女の抱える矛盾にはっと気づくのである。
第一節を締めくくるにあたり、今度は小説からアニメへと目を戻し、その系譜を考えてみよう。今振り返れば、『V』(1993年)は、女性をめぐる問題を意識的に論じ始め、それを重要な主題に据えた、最初期の日本アニメの一つではなかったか。ザンスカール帝国は表向きには母系社会を標榜するが、女性を支配する家父長制文化の制度的な土台は維持されており、だからこそ必然的に失敗する。その後の幾原邦彦による『少女革命ウテナ』(1997年)は、王子になることを望むウテナが、男性の操る言説によってできた「伝説」の物語へ、あえて足を踏み入れる話だ。庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン』(1995年)は、アスカや葛城ミサトらが、女性として自分は何者かを求める精神的な行き詰まりを描いた(余談だが、男性主人公のシンジ――中国語表記では「真嗣」――の名から連想される「真実」は、ウッソの名が響かせる「嘘」にじかに対応している)。この意味で、富野の先進性が見えてくる。そして『王の心』は、『V』を大人向けに展開し、さらに押し進めた作品と見ることができる。
富野とフェミニズムとの距離にも注意を向けなくてはならない。疑いなく、彼は男性の視点から女性をめぐる問題を見ており、女性に何らかの超越的な本質があるという幻想も抱いている。だが一方で、女性の失敗を描くからこそ、男性の側から「女権」、つまり女性の権利を求める主張に批判を加えてもいる。『V』のカテジナが母系社会に憧れるのは口先だけで、実際にはクロノクルに依存し、男を使って自分の欲を満たそうとしている。だがそれは、女性である自分の無力さに早くから気づいていたからだ。だから彼女は、女性が世界を動かせると本気で信じているわけではなく、ただ自分より強い者が誰であれ嫌いなのである。ザンスカール帝国の女王マリアは、一方では実の娘シャクティを捨て、現実の母親としての責任を果たさずに、空虚な「聖母」となる。他方では帝国の宰相をはじめとする野心家たちに利用され、表舞台へ押し出されただけで、実権は持っていない。『V』の女性たちは、ハリウッド的な「神話」の中で輝く女性像のようには構築されていない。物語の中心にあって、自らの欲望を肯定し、行動する。絶えず行動する。それでも、男性に依存するカテジナ、男性に利用されるマリアのように、女性はなお「第二の性」として構築されているように見える。そして最後には、悲劇が来るべくして来る。ここにこそ富野の複雑さがある。人間を信じないことが「黒富野」の最大の特徴だ。可能性を描きたい、だがまず、何もなしえない姿を描く。それは、出発点にある、現実への絶望から来ている。

その二
この節では、『王の心』の第一、第二の物語を、より具体的に読み解いていく。ただし、読者自身の読書体験をできるだけ損なわないようにしたい。
第一巻の第一の物語「アカイアーの復讐」には、富野の創作の特質がよく表れている。バザンがフェリーニの『カビリアの夜』について評したのと同じく、富野の人物は「性格」によって定まるのではなく、もっぱら作中で見せる姿や振る舞いによって形を取る。つまり、登場したばかりの描写だけでは、その人物がどんな人間なのかを決めることはできない。平板な人物なら、何をするかまでそのまま予想できるだろう。だがここでは、まったく逆なのだ。予測できない決定的な一瞬に、あるいは物語の最後に至って、その人物が見せてきた姿をすべて見渡したとき、私たちはようやく、目の覚めるような思いでその核に触れる。『機動戦士Ζガンダム』を例に取ろう。私たちは最初から、主人公カミーユに振り回される。彼は行動する。また行動する。だが、その振る舞いを咀嚼し、一つの人物像へ組み立て、自分たちの中にある型に当てはめて、もっともらしい予測を立てることがまるでできない。いや、彼がただティターンズの一軍人に仕返しをするために、いきなりガンダムへ乗り込んだとき、私たちはようやく、それまでの言動に合点がいく。だがそれでも、その後のさまざまな姿を十全に説明することはできそうにない。そして結末で彼が狂気に陥り、その途方もない衝撃を受けて初めて、私たちは彼を全体として捉えられるようになる。富野の人物は予測を拒む。姿を変え、また変える。次々と突きつけられる事実や事態に揺さぶられ、そのつどさまざまな選択をし、対応を変えざるをえない。人間には無数の微細な意識や動きがあるため、人間は「絶えず企てられ、また消し去られる存在の投企」となる。富野の人物はまさにそうだ。絶えず移り変わる可能性を持ち、さまざまな偶然を抱え、その変化は、いわゆる「根本的投企」が働くところで起こる。第一の物語の終わりにアカイアーが納骨堂を出るとき、あるいは砂漠を歩むとき、富野の生み出す矛盾に満ちた、恐ろしくも哀切な美しさをたたえたイメージが目の前に現れる。そこで初めて、私たちは自分の座標の上に彼女の姿を描き出せるのだ。
アカイアーは自らの処女性を取引の材料にして、四人の騎士が待つ荒野の朽ちた教会跡へ一人で向かい、男たちに続いて地下の薄暗い納骨堂へ降りていく。男、鮮血、教会、生首、処女。性と死が、こうして狭く暗い空間で繰り広げられる。荒野での出来事は、王女の貞節と騎士の名誉には縛られながら、もはや法には縛られていないように見える。異教徒の教会跡では、禁欲と肉欲が絡み合い、神聖さと罪悪が互いを照らし出す。そして地下、そこは「下降」しなければ入れない場所だ。これはまさに、共存できないものの並置、ヘテロトピアである。そこには現実の矛盾と汚濁が現れ、男たちは取引に差し出された処女性に熱狂する。同じく熱狂するのは、読者である私たちだ。強姦、放縦、乱交の猥褻な空想へと誘われる。富野はアカイアーを、そのまま他者へ、受虐癖の対象へと仕立ててしまったかのようだ。
だが、ヒッチコックの映画と同じく、これもまた富野の策略である。事が望みどおりに運ばないとき、私たちの期待は覆され、不安が生まれる。それが逆に、私たちの加虐的な「享楽への意志」を暴くのだ。ここに欲望の病理的な本質がある。私たちはこの物語の主人公アカイアーに同一化しているようでいて、実は、同一化する位置をひそかにずらし、自分の欲望を四人の騎士の欲望に重ねている。これに対応するように、富野はアカイアーを他者として構築していると見せながら、実はその対象化を拒んでいる。アカイアーは情欲の対象、欲望される対象となることを拒む。それは読者の期待を打ち破り、物語と象徴の二つの次元で「男性」を殺害する。
これに対して第二の物語「アジャリ・ビィー」は、第一の物語「アカイアーの復讐」と、ちょうど構造的に逆の関係にある。第二の物語に入る前に、少しだけ私自身の昔の体験を話すことを許してほしい。まだ小学生だった頃、私は一人で近所の銭湯へ通っていた。湯から上がって脱衣所で服を着ていたとき、二人の男の会話が聞こえてきた。一人が方言で、下品にこう言った。「まんこでも一つ捕まえて遊ぶか?」子どもの頃のことはずいぶん忘れたが、あの太った裸の男が発した一言は、その声や調子まで、今もはっきり聞こえる気がする。大きな衝撃だった。そんな言葉の使い方は聞いたことがなかったのに、その意味はすぐにわかった。器官によって人を言い表す換喩、人を見下し、取るに足りないものとする態度、そして子どもには想像もつかない淫らな含み。もう一つは、中学を卒業したときのことだ。クラス全員で街の有名なホテルのカラオケへ行った。ちょっとした探検のつもりだったのだろうか、私は別の空き部屋へ入ってみた。その頃は世の中の何もかもが気に入らず、世俗的な娯楽という娯楽に反感を抱いていた。テーブルの上にはルーレットがあった。見るのは初めてだった。区切られたマスには、長短さまざまの、口にするのもはばかられる猥褻な指示が並んでいた……。
この二つはもちろん、私が世の中でたまたま出くわした暗部だ。だが、ごく普通の生活の中でも、家父長制は一つの枠組みのように存在している。私たちはその枠組みの中で考えながら、枠組み自体には気づかないことが多い。この意味で、枠組みは「透明」なのだ。金銭=権力=性的資源というこの資本主義の現実において、女性の記号を消費すること、すなわち見ることは、暗黙の了解となっている。見られることに合わせて生産された記号が私たちを取り囲み、ネット空間にあふれている。私たちは、それらの記号を通じて快感を得るよう訓練され、それが繰り返し強化される。そして二項対立を通じて何度もジェンダー・アイデンティティが生産され、私たちは呼びかけられ、定義される。「各自、所定の位置へ」。
こうした象徴秩序の中では、女は男の症状であり、男の欠如=〈大他者〉の欠如が投影される場である。女は〈大他者〉の求めるイメージ=記号を提供(生産)し、自らをもって〈大他者〉の欠如を埋めようとする。そこに目がなくても、女はなお男=〈大他者〉のまなざしを感じているのだろうか。その象徴的なまなざしで自分を見つめ、自らのアイデンティティを構築し、他人を見つめ、不安を感じているのだろうか。あるいは、目とまなざしの分裂が覆い隠され、まなざしはすでに意識されなくなっているのか。女は、自分自身が見ているのだと思う。
ネット上で「女権」を唱える一部の女性たちも、自分が見ているのだと思っている。だがそれは見せかけにすぎず、むしろ彼女たちは最も強烈な欠如そのものかもしれない。なぜなら、「自分が見ている」と思う彼女たちは、男性との対立によって主体性を得られると思っているからだ。それは、最も激しい男女の二項対立と、社会的に構築された性別への偏見に依拠し、かえって偏見を強固にする。しかも、消費に託して権力を得ようとした結果は、資本の論理に従った自己の客体化であり、女性はやはり家父長制へ回収されるのである。
まさにこの意味で、アカイアーとは正反対に、アジャリ・ビィーは「他者」なのだ。彼女はまなざしの対象でありながら、まなざしを感じない。不安を覚えることもなく、自分の美しさに満足し、それによって相手の男、ダラミエルの欠如(欲望)を埋める。2彼との関係は安定した、さらには幸せとすら呼べるものに見える。だが彼女は、自分の本質が欠如であることに気づいていない。ダラミエルがその欠如を暴き、彼女を「嘘」だと言った後でさえ、言葉にして伝えることさえできれば彼を説得し、以前の関係に戻れると信じている。なんとも憎らしく、哀れな人物である。アカイアーの扱いとは逆に、富野はわざわざ筆を費やし、繰り返し彼女の美貌を細かく描く。しかも最初の彼女は、神秘的で近寄りがたく、ダラミエルの手の届く範囲をはるかに超えているように見える。だが、しばらく言い寄られると、たちまち彼と床をともにし、その虜となる。第一の物語の禁欲的な趣とは正反対の、放縦な趣だ。富野は彼女をこのように描く。表向きは貞淑で家庭をよく守り、内ではこのうえなく淫蕩。ダラミエルに媚びへつらい、徹底的に征服されることを進んで受け入れ、そこから快感を得るという、マゾヒスティックな倒錯傾向さえある。彼女はまさに、男性の幻想が外に形を取ったものなのだ。しかし、その理想化された美、そうした女性神話が必然的にもたらす反対の側面もまた、アジャリ・ビィーの秘密の中にひそんでいる。
〔訳注:以下は『第二の性』からの引用。〕3
「子宮という、温かく静かで安全な隠れ家が、湿った形のないどろどろのものへ、肉を食らう植物へ、暗く伸び縮みする渦へと変わる。そこには毒蛇が潜み、飽くことなく男の力を吸い取っている。」
――完璧な「他者性」が、ついには不幸と悲劇を招いたかのようだ。では、ダラミエルはどうか。何の罪もない被害者なのか。まさに逆だ。彼こそが加虐的な主体なのである。彼は、アジャリ・ビィーがいったいどんな人間なのかにまるで関心がない。読者も同じで、富野が幾重にも暗示を重ねても、彼女の肉体の向こうを見抜けない。危機を感じてはいても、それが何なのかはわからず、ひたすら果てしない肉体の快楽を享受し、男性の幻想に溺れている。もちろん、「恋する者が相手の中に見るものと、恋される者が自分について知っているもの」の非対称性は、どんな性的関係にもある。だがここでは、その非対称性が際限なく強調されているように見える。ダラミエルはまさに、高みに君臨する男性の理想的な自我であり、アジャリ・ビィー(彼の欲望の対象であり、その原因でもある)は、彼の幻想の投影であるかのようだからだ。
ここで、偽りの性的関係の基本形を示そう。男は、ペニスを持つという偶然の生殖上の違いだけを頼りに、何の根拠もなく、自分には女を絶頂に達せさせる力があると思い込むか、そう装う。一方、女は男に合わせ、男によって絶頂に達したふりをする。双方とも、実は相手のことなどまるでわかっていないのに、これで幻想を満たすことはできる。そして現実の中で、飽きることなく演じ続ける。これが「各自、所定の位置へ」というロールプレイであり、記号の再生産である。だが富野は、この十全で、円満で、満たされた、幸福な幻想を一挙に打ち砕く。女性神話が崩れるのとともに、男性の美しく、完全で、力強い理想の自我もまた、最後には突如として崩壊する。ボードレールが書いたように。
彼女は私の骨髄をすっかり吸い尽くした。
私はぐったりと力なく彼女のほうへ身を向け、
愛の口づけを返そうとした。そのとき見えたのは、
皮袋が一つ、両脇はぬめり、目にあふれる膿と血!
私は目を閉じ、恐怖に全身から冷や汗を流した。
強い光の中でふたたび両目を開くと、
傍らにいた、あのたくましい人形、
たっぷり血を蓄えているように見えたものは、
ばらばらに震える残骸の塊と化していた。
冬の夜、風見鶏や一枚の
看板が、鉄の棒の先で風に揺れ、
ひとりでに幾度も叫び声を上げるように。
——「吸血鬼の変身」4

その三
第二節では、最初の二つの物語について、ごく浅い分析を行った。取り上げたのは本全体の一、二割にすぎないが、長大な議論を書くつもりはない。作品全体については、読者自身で考えを深めてほしい。言いたいことはまだ到底言い尽くせていないと痛感するが、この文章も「ただそれだけ」のものではある。富野が描く両性の関係をどう見るにせよ、確かなのは、富野作品の女性たちが自らの情欲を一切の妥協なく肯定していることだ(これは、さらに先へ進め、広げていくべき道筋でもある)。富野自身の言葉をもって、結びとしたい。
「描く対象に対しては、“作り手の好きな女性像”としてではなくて、女性キャラがその世界にいる、というふうに描くしかありません。……僕の描く女性は自分のセクシャリティ、つまり自分のセックスに対する欲望というものを全肯定しているんです。男の慰み物になる暇なんてないよね、ということです。」5
編者注
一般の読者だけでなく、少数の理論派の人たちもここまで読むかもしれないので、誤解を避けるため、以下に著者の断りを記す。
本稿はあくまで、富野由悠季のテクストを分析するために書いた、手引きのような随筆である。短い文章として、解釈の面でほんの少しでも何かを示唆できればと願っているだけだ(まったくできていないかもしれない)。明瞭簡潔を目指した(正反対の方向へ行ってしまったかもしれないが)。本稿には、厳密な意味での理論的基盤は何もないし、問いと結論からなる構成をつくるつもりもない。いくつかの理論的資源を「発見の手がかり」として用いたにすぎず、それを徹底したわけでもない。そのため、理論家の名前はすべて意図的に伏せた。実際には、ほかの理論書や、互いに相容れないかもしれない理論学派を参照しており、とりわけスー・ソーンハムの『激情的疏离:女性主义电影理论导论』を多く引用している。本稿が触れるものは、ひどく雑多かもしれない。だから、一文を取り上げて、理論の面からどんなに激しい批判を加えることもできるだろう。ただ、本稿を批判するのであれば、そこからもう一歩進んで、今ここに生きる女性が現実に直面している問題について考えてほしい。著者もまた、その地点から出発したのだから。
本稿の参考文献:スー・ソーンハム(Sue Thornham)『激情的疏离:女性主义电影理论导论』(中国語訳。書名の意味は「情熱的な距離――フェミニズム映画理論入門」。原著:Passionate Detachments: An Introduction to Feminist Film Theory)。