
世界のない時代に、無意味な愛を広める。
もちろん、この回答は一つの考察であって、DIOは悪人ではないと言いたいわけではない。
金田淳子先生のDIO論には衝撃を受けた。階級とフェミニズムの視点からDIOを分析するとは。しかも、かなり筋が通っている。この分析に触れれば、DIOとその悪を新しい角度から捉えられるはずだ。
まずは階級の話からしよう。DIOの設定はとても面白い。彼は下層の出身で、父親はチンピラ程度の悪人にすぎず、母親は働きすぎで早くに亡くなった。ジョナサンも幼くして母親を失っているが、父親の教育がよかったおかげで、健全な環境のもと、のびのびと育ったと言える。
ジョナサンにとって、階級上昇などそもそも問題にならない。だがDIOにとっては切実な問題だ。そして、DIOの階級上昇を支えたのは、突き詰めれば「おれは人間をやめるぞ!」という決断そのものではなく、彼をその決断へと導いたものだ。「おれは人間をやめるぞ!」は、厳密に言えば、ジョジョ的な意味での「勇気」ではなく、計算である。DIOの知恵は生まれつきのものばかりではない。学び続けることで身につけたものでもある。忘れてはいけない。DIOは初登場の時点ですでに本を読んでいるし、その後も読書する姿は至るところに描かれている。ジョセフが漫画を読むのは娯楽のためだが、DIOにとって読書は階級上昇の手段であり、地道な努力なのだ。それは同時に、学もなければ何の能もない父親への拒絶と否定でもある。彼は、自分の体にまだあの男の血が流れていると思うだけで、気が狂いそうになると言う。

画像内の中国語字幕の意味:醜くずる賢く、母さんにさんざん苦労をかけて死なせた。
DIOは金持ちが嫌いだと言う。具体的な恨みがあるわけではなく、とにかく嫌いなのだ。この嫌悪には階級的な色合いがあると言える。ジョースター家の階級的特権に理由がいらないのなら、DIOの恨みにも理由はいらない。それを、彼が単に「悪」だからと説明する必要は必ずしもない。初めのうち、彼は金持ちに対するよりも貧しい人に対するほうが、明らかに態度がよかったのだから。
DIOの父親の墓碑には1880年とあるので、物語の舞台はヴィクトリア朝だと推測できる。ヴィクトリア朝は、「青年期」という概念が生まれた時代でもある。まさにこの時期、教育がいっそう重視されるようになり、若者が勉学に励むことで上の階級へ移る可能性も広がった。
少し私なりに話を広げてもよければ、バリバールによる「人間」という概念への批判を引きたい。人間は市民から生まれるのであって、市民が人間から生まれるのではない、という批判だ。もちろん、これは皆さんを人間ではないと罵っているわけではない。資本主義のもとでは、「人間」という概念がひどく疑わしいということだ。いつも一部の「人間」がその枠から排除され、アガンベンのいう「剥き出しの生」となる。そして、「実体をもたない主体」であるプロレタリアートは、まさに「人間」ではない存在なのだ。DIOが「おれは人間をやめるぞ!」と言うときのあの高笑いにも、どうにもならないという思いがあるのではないか。第7部のジョニィ・ジョースターの言葉を借りれば、Dioは生まれたときから運命までも奪われた人間なのだ。1

これに対して、ジョースター家には代々受け継がれていくものがある。空条承太郎の名前にも入っている「承」の字は、ジョースター家のキーワードなのだ。歴代のジョジョは継承者であり、DIOは搾取される者である。ある意味では、DIOは初めからすでに(社会に)何も残らないほど搾取されていたから、他人を搾取するほかない。一方、ジョジョは初めから階級のもたらす大きな恩恵を享受しているのだから、その恩恵を受け継げばいい。
ここで、階級の分析からジェンダーの分析へ移ることができる。DIOは父親を憎んでいるが、その父親に搾取される母親には同情している。ジョジョたちが父親や師、仲間に同一化するのだとすれば、DIOは逆に、自分と同じく搾取される母親に同一化すると言える。DIOの「世界(ザ・ワールド)」に対応するタロットカードには、「女性」と「両性具有の存在」という意味がある。DIOは、プロレタリアートや女性といった社会における他者を代表しているのだ。

DIOは自分の「世界(ザ・ワールド)」について、止まった時間の中にいるのは自分ただ一人だと語る。他者の侵入を拒むという点から見れば、この能力は悲壮な孤独だ。忘れてはいけない。DIOは初めてジョナサンに会ったとき、体に直接触れられるのはもちろん、鞄に触れられることさえひどく嫌がっていた。DIOが他者を絶対的に拒絶するのは、彼自身がすでに社会にとって絶対的な他者だからだ。

もちろん、はっきり言っておくが、DIOが人を、とりわけ下層の人々を道具扱いしていることは、どうやっても擁護できない。