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仮面の下の千尋

宮崎駿が「鎧を脱いで野に帰った」あとの隠喩の変化を出発点に、千尋の成長、カオナシの仮面、子ども時代の堕落、汚された翼をたどる。神隠しにも似た社会のなかで、人はいかに罪と共に生き、自分の名前を取り戻せるのか。

著者: 窗子中国語版校閲: 伦勃朗中国語版編集: 子厚翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

窗子の肖像
窗子

死ぬも生きるも、去るも留まるも、舞台の上の操り人形。ひと筋の糸が切れるとき、何ものにもとらわれず、からりと自由になる。

白龍の顔を抱く千尋を描いた『千と千尋の神隠し』中国公開告知
中国での2019年6月21日公開を告げる記念画像。中国語のコピーは「愛を知り、そして大人になる」という意味。

はじめに――隠喩は鎧を脱ぎ、野に帰る

宮崎駿の長い戦いは1982年に始まった。敵の血を洗い落とせなかったナウシカは、師の胸に逃げ込み、声を上げて泣いた。12年後の連載完結時、すでに大人になった彼女は、巨神兵にシュワの墓所と新人類の希望を打ち砕くよう命じ、地に散らばった啓示のかけら1を『もののけ姫』へと託した2。だから、1997年にようやく戦いが終わり、アシタカとサンがシシ神の首を空へ返したとき、二人の目にはもう涙はなかった。

その後、『千と千尋の神隠し』から『風立ちぬ』までの四作品は、いずれも宮崎駿が鎧を脱いで野に帰り、肩の荷を下ろした心持ちのなかから生まれた。庵野秀明が『もののけ姫』よりも『千と千尋の神隠し』を好むのも、そのためだ。前者は力が入りすぎていて、張り詰めた空気から逃れられないという。ひょっとすると、心のゆとりが、そのまま技法を自在に操る余裕につながったのかもしれない。あの庵野の評には、もう一つの読み方がある。『もののけ姫』に比べ、『千と千尋の神隠し』の隠喩はもっと自由奔放で、型にとらわれていないのだ。

ホフスタッターは『ゲーデル、エッシャー、バッハ』の終盤で、隠喩の妙は和音に似ていて、近すぎても遠すぎても響き合わないと書いている3。真理を明かすには、まずそれを覆い隠さなければならない。隠喩の美しさは、つかず離れずの関係にある。だが、『もののけ姫』の生真面目さは、想像力に息をつかせてくれない。アシタカの旅は人類の闘争の歴史にぴったりと重なり、シシ神は自然の「象徴」というより自然「そのもの」である。その無垢なまなざしの先にいるエボシもまた、人間そのものだ。想像力はただ一つの解釈に縛りつけられ、抜け出せない。個人の運命は思想を伝えるだけの道具に成り下がり、隠喩は記号へと退化して、抽象の真空のなかを飛んでいる4。

それに比べると、『千と千尋の神隠し』はもっと「濁って」いて、底が見えない。もっと「気まま」で、どこか自分をからかっているようでもある。どの登場人物も「社会」を暗示しながら、解釈にのみ込まれない個性を保っている。ただの抽象的な記号ではない。物語が彼らに命を与え、その命の予測できなさが、今度は物語を現実へと引き戻す。ススワタリをひと目見れば、社畜の象徴だとわかる。判で押したような顔、判で押したような仕事。新人が道をふさげば怒り、新人に仕事を任せられるとなれば、今度は自分たちが手を休める。

石炭を運ぶススワタリ

思想を伝えるだけなら、ここまでで十分だ。ところが宮崎駿は、そうはいかないと言う――この人はいつだって、筋書きも決めずに話をしたがる。さらにいくつもの「余計な」描写を重ねて、ススワタリの無邪気さを描いていく。千尋の靴を隠したかと思えば返してやり、ネズミにされた坊とままごとをする。こうした取るに足らない細部は、登場人物に厚みを与えると同時に、それだけで記号の独裁を壊してしまう。ここで記号は濁り、透明ではなくなる。丸薬を飲んだ千尋のように、現実へ帰り始めるのだ。記号が隠喩へと変わったのであり、隠喩とは、いつだって言い尽くせないものである。もしこの文章に一つの目的があるとすれば、それは、透き通って見える隠喩を「かき濁し」、現実が沈殿する余地をつくることだ。

一、成長の悲喜劇

千尋の成長は誰の目にも明らかだ。ハクと出会ったとき、油屋の上には不吉な雨雲が重なっていた。別れのときには、扇が振られるうちに重苦しさも消え去り、空はどこまでも晴れ渡っている。だが、おとぎ話の結末にとどまって、王子と姫をいつまでも幸せに暮らさせておけば、あらゆる悲劇はいずれまた始まってしまう。忘れてはならない。油屋に残ることを選んだハク、オルフェウスを思わせる、振り返ってはいけないというあの言葉、車のボンネットに積もった落ち葉。そのすべてが、明日の不幸を私たちにささやいている。これが成長の悲喜劇なのだ。14歳の千尋も、いつか大人になり、両親と正面からぶつかる。今度は千尋自身が豚になる番ではないのか?

子どもたちはまだ世間にもまれてすれてはおらず、純粋な気持ちで大人に従い、敬い、親たちから教わった素朴な道理を心から信じている――たしかに宮崎駿は、そんなことを言ったのかもしれない。『千と千尋の神隠し』では、私たちの少女は実際に、その「ほとんど本能的な」ひたむきさによって救われたのかもしれない。だが、そこには初めから矛盾があるのではないか。成長とは、大人に近づくことだ。ところが、その大人が罪悪の象徴なのである。では、いったいいつから、私たちは悪くなったのか?いったいいつから、「大切なものがすり替えられた」のだろう?

漫画『風の谷のナウシカ』で、虚無はナウシカを激しく嘲る。足元を見ろ、自分の足元を見ろと繰り返し迫る。そこにある死体には彼女が殺した者もいるのに、まだ知らないふりをする気かと問い詰め、あんまりではないかと責め立てる。いつまでも清らかな子どものふりはできない、王蟲ももう彼女を許しはしないと畳みかける。彼女も愚かで汚れた人間の一人にすぎず、すでに大人の人間であり、呪われた種族の血を受け継いだ女なのだと罵る。そして、死者と共に苦しみのなかをさまようがいいと突き放す。

夜の橋で神々に混じって油屋へ入る千尋とハク。左側にはカオナシがいる
『千と千尋の神隠し』、夜の油屋へ渡る橋。中国語字幕は、客を迎える「旦那様、いらっしゃいませ。どうぞ、どうぞ」という挨拶を表す。

宮崎駿の夢のなかで、大人になることは特別な悲劇的意味を持っている。大人になるということが、正反対の二つの世界を隔てている。片方は人間の善良さと純真さのすべてを担い、もう片方は人間の罪悪と汚れのすべてを担う。この二つの世界をつなぐ狭い「トンネル」こそ、「人間についての無知」である。だから、大人になるとは、自分の背負う罪に気づくことだ。カオナシを油屋に招き入れたのは、ほかならぬ千尋自身だったと気づくことだ。そして、子ども時代というエデンの園から、容赦なく追い出される。

子どもたちは必ずエデンの園を追われる。誰もが逃れられない運命であり、神から与えられた呪いだ。坊のように、ぬいぐるみでいっぱいの部屋に居座り続けられる者はいない。最後には、無知そのものさえ罪になるのだから。坊は千尋の腕をつかんで、外へ出れば千尋も病気になる、ここにいろと言う。千尋は、ここにいたほうが病気になる、と怒る。皮肉なことに、二人とも間違ってはいない。子ども部屋の外は油屋だ。垢と泥の浮いた風呂の湯であり、ありとあらゆる欲望の染み込んだ大きな染め桶である。では、中はどうか。こちらも大差ない。偽物の太陽が偽物の動物を照らすそこは、子どもが思う存分乱暴を働くために用意された狩り場だ。千尋はこうして、二つの世界の隙間に挟まれ、動けなくなる。この場面で人間への嫌悪は頂点に達し、かつての幻影が夢の世界を侵し始める。その幻影は涙を浮かべながら、宮崎駿が現実から身を隠すための最後の砦――子ども時代の無垢――を焼き払ってしまう。

二、カオナシの仮面の下には……

この映画で最も奇妙なのは、カオナシが千尋のあとを追い、油屋から魔法の森までついていくくだりだ。この病的な執着は、よく「少女の親切に報いたいから」と説明される。だが、それではわからないことがまだ多すぎる。たとえば、なぜ最初は千尋にしかカオナシが見えないのか。なぜカオナシは、ほかでもない千尋について油屋に入ったのか。実際、番台の前の場面で、カオナシはすでに千尋に恩返しをしている。薬湯の札を山ほど持ってきたのだ。ところが、それで欲望の炎が消えるどころか、ますます激しく燃え上がってしまった。

別の説では、カオナシは貪欲の象徴だという。あちこちで人を誘惑し、その欲の報いを受けさせるのが本性だ、と。だが千尋によれば、カオナシが悪くなったのは油屋に来てからなのだ。電車のなかでのおとなしい様子を見ても、本来の善良さがうかがえる。

私にはどう考えても腑に落ちなかった。ところが、あるときふと、『風の谷のナウシカ』のよく似た場面を思い出した。王蟲の心の深淵で、ナウシカはかつての宿敵ミラルパと出会う。彼はすでに虚無にむしばまれ、骨と皮ばかりになっていた。ここでナウシカは、難しい選択を迫られる。敵を救い、森の果てまで連れていくべきなのか。セルムは引き止める。この森は彼女の心のなかにあるのだから、闇から来た者は闇へ帰るべきだ、と。それに対してナウシカは、自分の心にも闇はある、この森が自分の内なる森なら、彼――ミラルパ――もまた自分の一部なのだと反論する。

電車の赤い座席で千尋の隣に座るカオナシ

法力を失ったミラルパは、子どものようにおとなしかった。旅のあいだはナウシカの足元にうずくまり、最後には、果てしなく広がる野原で笑いながら消えていった。このくだりは、そのまま『千と千尋の神隠し』にも現れる。もとの姿に戻ったカオナシは、道中ずっと静かに千尋に付き添い、森の果てに新たな住まいを見つけ、そこに残って銭婆を手伝うことにする。これも間違いなく、別のかたちでの成仏なのだ。

さて、この類比を認めるなら、カオナシの正体はおのずと明らかになる。あの不気味な仮面をはがせば、私たちは千尋自身の顔を目にして愕然とするだろう。カオナシは千尋の心の闇だ。二人は道連れとなり、影のように離れない。

橋の上で手を上げる坊と、歓声を上げる油屋の人々。千尋は右奥を駆けていく

三、子ども時代の堕落

周知のとおり、宮崎駿は千尋を、見た目も性格も、ごく普通の子どもとして描こうとした。それは、彼女にも子どもの「嫌なところ」が必ずあるということだ。原罪説に慣れた私たちには、当たり前に思えるかもしれない。だが宮崎駿にとって、さらにはジブリ全体にとって、それは痛みを伴う、自分自身への裏切りだった。『風の谷のナウシカ』から『もののけ姫』まで、一度でも間違いを犯した子どもはいない。キキが道を見失ったことさえ、この社会のほうが「物分かりが悪い」せいにされる。私たちの小さな英雄たちは、初めから正しい道を歩いている。大人には見えない遠くが見え、大人には聞こえない啓示が聞こえる。彼らは神話の黄金時代を象徴し、ルソーが自然に託した夢想を一身に背負っている。だが、子どもとは本当にそういうものなのか?

『もののけ姫』が一挙にすべての戦いを終わらせて、宮崎駿は初めて夢から目を覚まし、かつての思い込みを清算し始めた。千尋という人物像はその反省の成果だが、まだ不完全だ。少女がもらった花といえば、誕生日の一輪と、友達との別れのときの一束だけだった。だから彼女には、わがままを言う資格がある。両親に甘え、駄々をこねる資格がある。それは無知な子どもの特権なのだ。母親に会いに一人で行こうとしたメイの無邪気さを、誰も責めないように。物語はこうして波風なく進む。坊が登場するまでは。坊は、千尋に描かれていなかった子ども時代の一面を、最も暗いかたちで埋め合わせる。外へ出たくないと坊が泣きわめくとき、私たちはふと物語の冒頭へ戻り、嫌そうな顔で両親に文句を言う千尋を目にする。あの子ども部屋は、千尋がそれまで通っていた学校であり、私たちが別れたくないと駄々をこねる子ども時代でもある。千尋は坊を叱ると同時に、過去の自分をも叱っているのだ。

こうして宮崎駿は、自分の最も得意な人物造形へと戻っていく。千尋の目から迷いを消し、彼女の進む先には、信念という線路をまっすぐに敷く。反省はここで立ち止まる。宮崎駿は普通の子どもを描くという約束を裏切り、子どもをめぐる無邪気な幻想のなかへ、また逃げ込んだのだ。

坊に腕をつかまれ、言い返す千尋の顔のアップ
中国語字幕は「ここにいたほうが病気になる」という意味。

子どもだって、もちろん間違いを犯す。なのに、宮崎駿の映画を見ているとき、なぜ私たちはみな、それを直視しようとしないのか。なぜなら――なぜなら、カメラが巧みに私たちを誘導し、欺いてきたからだ。『となりのトトロ』『天空の城ラピュタ』から『魔女の宅急便』まで、カメラは一貫して少年少女の背中を追いかける。それは第三人称を装った第一人称の視点であり、そこでは、何もかも自己の内に取り込む〈同〉の独裁帝国が整然と機能している(レヴィナス『全体性と無限』)。子どもたちが自分を省みる必要はない。一挙一動に、あらかじめ用意された理由がついているからだ。千尋が坊を叱る場面になって、私たちは初めて、子どもという存在が第三人称の視点から問い直されるのを見る。自己の住まう〈同〉の世界に、無限を象徴する他者の顔が現れる。そこに倫理的な関係が生まれる。子どもたちは恥じ入りながら他者からの問いを受け入れ、すべてを全体性のうちに取り込む力を、自ら手放す。これが社会性の始まりであり、大人になることの始まりだ。大人の世界でこそ、〈同〉のなかに閉じこもる子どものあり方は罪となるのだ。

よく考えると、これはいっそう悲しい皮肉である。初めて夜が訪れたとき、大人の世界は百鬼夜行の姿で千尋の幻想を打ち砕いた。その奇怪きわまりない姿は、子どもが理解できる最大の悪を表していた。ところが、成長した千尋の目には、すべてが逆さまに映る。油屋の人々は親しみやすく、最大の悪のほうが、坊という「巨大な赤ん坊」の憎たらしい姿をとって現れるのだ。大人は子どもにとって悪の原型であり、子どももまた大人にとって悪の原型である。この事実は、いわゆる「成長」を笑い話にしてしまう。それは一つの悪を捨て、別の悪を選ぶことにすぎないのだから。ここで、夢を支えていた土台――子どもたちの無垢――が砕け散る。かつては正反対だった二つの世界が、同じ地平に引き寄せられる。どちらも無垢であり、どちらも罪を負っている。そうなれば、宮崎駿がなぜ約束を破り、千尋を普通の少女からもう一人のナウシカへと引き上げなければならなかったのか、理解するのは難しくない。――夢を見続けよう。残酷な現実から逃れられるのは、夢のなかだけなのだから……。

四、汚された翼

『千と千尋の神隠し』で宮崎駿が正直になったのは、ほんの一瞬だった。どこにも救済はないと、正直に認めた一瞬である。だが、まさにその瞬間から、大人の世界の影がおとぎ話の世界を覆い始めた。その兆しは、汚された翼に現れている。

『もののけ姫』を境に、「鳥/翼/空を飛ぶ道具」という一群のイメージは、あからさまに堕落した。『風の谷のナウシカ』のころ、ナウシカの飛行具はまだ、予言に現れる使者の翼だった。それは、千年に及ぶ浄化がまもなく訪れると告げていた。『天空の城ラピュタ』では、飛行石がパズーとシータを引き合わせた。もっとも、古代兵器を動かす鍵でもあるのだが。『魔女の宅急便』のほうきは、キキが町の人々を助けるための魔法の道具だった。『紅の豚』に至ると、飛行機は男のロマンとなり、ファシズムには断じて屈しない自由の旗印となっていた。宮崎駿は何かがおかしいと気づいていても、その戸惑いを懸命に暗がりへ押し込めていた。

ところが『千と千尋の神隠し』から、封印に裂け目ができる。湯婆婆は人間の頭と鳥の体を持つ怪物となって夜空を旋回し、迷える魂を狙っている。人頭鳥身の伝説は各地にあるが、宮崎駿がモデルに選んだのは、明らかにギリシア神話のセイレーンだ。ハクによる湯婆婆の説明を見ればいい。隙を見て千尋を誘い、家に帰りたい、働きたくないと言わせようとするのだ。この人頭鳥身の邪悪な姿は、『ハウルの動く城』へと受け継がれる。ハウルがソフィーに見せたがらない醜い姿であり、私たちの目に見えない場所で戦争が歯止めなく広がっていることも暗示している。

半透明になった千尋の靴と足のアップ
中国語字幕は「今すぐ消えて」という意味。

翼はかつて、子どもたちの最も無邪気な憧れであり、子ども時代の象徴だった。だが、もともとは白かった翼も、王蟲の血に染まったかのような深い藍色へと堕落してしまう。『風立ちぬ』に至って、宮崎駿はもう自分も観客も欺けなくなった。飛行機には罪がないとか、その魅力は戦争と切り離せるとか、もう言えなくなったのだ。それは、こう告げるに等しい。子どもにさえ、罪はある。知らないことも、知らないふりをすることも、罪悪に加担するのだから。現実を受け入れまいとする千尋が、膝に顔を伏せ、震えながら消えてしまえと叫ぶとき、消えるのは目の前の世界ではない。ほかならぬ千尋自身なのだ。

二郎は子どものころから、飛行機が吐き出す死の匂いを嗅ぎ取っていた。だが、考えたくなかった。戦争を取り仕切る者たちが飛行機への要求を突きつけても、我関せずと聞き流した。菜穂子をそばに置けば彼女の病気が悪化することもわかっていたのに、黒川の忠告を退けた。身勝手と言わずにはいられない。ただし、その身勝手さは菜穂子も黙って認めていた。それどころか、彼女もそうなることを望んでいた。いちばん美しい自分を夫に見せ、それから風と共に去っていくことを。二郎はずっと、二重の矛盾のなかで苦しみ、もがいていた。何もかもが砕け散る結末はすでに決まっていた。それでも彼は、自分にできることを、全力でやり抜く道を選んだ。

カプローニは、二郎と初めて出会った草原を指して、ここが二人の夢の王国なのだと言う。二郎は、自分には地獄に思える、と自嘲する。彼はずっとわかっていた。自分が世界中の人殺したちのために、殺戮の道具を造っていることも、妻が自分のために日ごと死へ近づいていることも。それでも、罪と共に生きることを選んだのだ。これが宮崎駿の「成長」であり、ナウシカがサンに託した啓示でもある。

ナウシカは、なぜあの人たちは気づかなかったのかと問う。清浄と汚濁、その両方があってこそ生命なのだと説き、苦しみも、悲劇も、愚かさも人間の一部なのだから、清浄な世界でさえ消し去ることはできないと語る。そして、苦しい暮らしのなかにあっても、人間には喜びと輝きがあるのだと言い切る。

だから、成長とは、けっして自ら「選んで」大人になることではない。大人になることを「強いられる」のだ。何の前触れもなく油屋へ放り込まれ、世界中の罪悪を目の当たりにする。何の前触れもなく、それまでの道から外れ、「現実」から神隠しに遭うのである。

寄り添う眼鏡の男性と、花飾りをつけた赤い着物の女性のファンアート

五、神隠しから逃れる

ここで、隠喩は再びその濁りを見せる。「現実から姿を消される」という過程が表すのは、成長の抗いがたさだけではない。そこには、想像よりはるかに複雑な意味がある。宮崎駿は「神隠し」の奇怪さと恐ろしさを借りて、子どもたちに三つの掟を告げる。一、働かない者は、他人にどう扱われようと抵抗できない豚に成り下がるしかない。二、油屋の食べ物を食べなければ体が透け、最後には消えてしまう。三、社会に打ちのめされるうち、人は自分の名前を忘れ、かつて大切にしていたものを、いつの間にか失ってしまう。四つの隠喩は牢獄の四方の壁となって、私たちを社会のなかに閉じ込める。逃げ場はない。ルソーの『社会契約論』の有名な言葉どおり、「人は自由なものとして生まれる。それなのに、いたるところで鎖につながれている」。5子どもたちは否応なく社会へ入り、自分の手で自分に鎖をかける。社会に貢献しなければならない、さもなければあの無情な機械に押し潰されてしまう、と私たちは心のなかで繰り返す。自分だけ清く生きるわけにはいかない、糧は社会のなかでしか得られないのだから、と自嘲する。だが、この二つの前提を受け入れた途端、少年少女たちは次々に歯車となり、角を削られ、顔を消され、名前を奪われてしまう。

これは、抜け出しようのない循環ではないか?

……

影だけの乗務員が、車両のあいだを静かに行き来する。「皆さま、どうぞ安心して、お席でお待ちください。海底に沈んだ列車は、まもなく水面へ浮上します。」

ここまで『千と千尋の神隠し』の暗い面をこれでもかと描いてきたのは、「光」に舞台を譲るためでもあった。

墓所の主はナウシカに怒鳴る。「お前は危険な闇だ 生命は光だ!!」

ナウシカは答える。「ちがう いのちは闇の中のまたたく光だ!!」

闇のなかでしかまたたけないから、光にはいつも濁りがある。だが、まさにその濁りこそが、迷える魂を慰める。宮崎駿を打ちのめすことは、誰にもできない。彼はいつも、最も深い闇のなかで光を見つけ直すことができるからだ。傷だらけのナウシカが、なおも大地に微笑みかけられるように。大地が汚されているなら、その汚れと共に生きればいいではないか。生きてさえいれば、いつか希望がやってくる。ススワタリになったって、遊ぶ力まで失うわけではない。冒頭の伏線がここで回収される。隠喩が濁っているというなら、それが映す現実そのものが濁っているからだ。大人の世界とおとぎ話の世界は、同じ地平へと引き寄せられた。大人の世界の影がおとぎ話の世界を覆う運命にあるなら、おとぎ話の世界の光もまた、大人の世界を照らす運命にある。これこそ、千尋が油屋にもたらす救済なのだ。

おわりに――湯屋の衆生:名前、労働、助け合い

昔の人々にとって、「名前」には不思議な力が宿っていた。プラトンは「事物そのもの」という呪文で、後世の人々を手のひらの上でもてあそんだ。フレイザーは『金枝篇』に、名前を通じて効力を発揮する呪術をいくつも記した。『西遊記』の金角と銀角は、名前を正しく呼べば、あの暴れ猿、孫悟空を屈服させられると知っていた。そして今の人々にとって、いちばん馴染み深い例は、おそらく『夏目友人帳』だろう。物語の発端は、主人公のあの無責任な祖母にまでさかのぼる。彼女は打ち負かした妖怪の名前を帳面に書き込み、それによって妖怪を操る力を手に入れた。では『千と千尋の神隠し』はどうか。この映画は名前を、子どもが大人の世界に立ち向かうための魔法にした。

もちろん宮崎駿は、その意味をわざわざ解き明かしたりはしない。一人ひとりに自分の名前があるように、「名前に込められた意味」も、それぞれが自分で探し出すべきなのだ。「自我」だという人もいれば、「夢」だという人も、「素朴な道理」だという人もいる。共通するものがあるとすれば――それはきっと、社会のなかで失われてしまう何かだろう。

社会が人を搾取する最も直接的な手段は、社畜として働かせることだ。湯婆婆の「ブラック工場」が何かを風刺しているのは明らかだ。だが、銭婆を小農経済の代表として見るほうが、もっと面白いかもしれない。森の奥にある自給自足のユートピアは、坊を変えただけでなく、カオナシにも居場所を与えた。だからといって、そこから宮崎駿の哲学的立場まで推し量るのは、むろんばかげている。それでも、『千と千尋の神隠し』における労働の二面性は、はっきり見て取れる。

千尋が道中ずっと怯えているからこそ、働くことが重苦しく映る。火を噴く湯婆婆の恐ろしい姿は、その印象をさらに強める。どう見ても、油屋で仕事を求めるのは、追い詰められてのことなのだ。千尋が懸命に働くのは両親を救うためであり、湯婆婆があちこちで金をかき集めるのは坊を幸せにするためだ。ここにも、対称をなす一組の隠喩がある。子どもは親を養うために働かされる――親が人質になっている。親もまた、子どもを養うために働かされる――子どもが人質になっている。最も身近な人が社会にさらわれ、人質にされているのだ。だからこそ労働にはしばしば、大義のために堂々と身を捧げるような献身の精神が伴う。宮崎駿も、おそらくそれを尊んでいる。この隠喩では、呪いによって動物にされるのは、貪欲だからというだけではない。自分のことしか考えていないからでもある。そうした者たちには気にかける相手がおらず、当然、働く必要もない。自分の小さな縄張りに一日中閉じこもっているだけだ。だが、社会とは人と人とのつながりである。だから彼らは必ず追放され、動物になる。ここから、労働のもう一つの面が見えてくる。互いに助け、いたわり合うことだ。

橋の上で坊を囲んで歓声を上げる油屋の人々と、右奥を駆ける千尋

一人で夢を見ると笑われるのなら、みんなを誘って、共に夢を見よう。

物語全体を振り返れば、すぐにわかる。油屋がすっかり変わったのは、千尋が自分の名前を神隠しのなかへ持ち込んだからなのだ。こうして蝶が羽ばたき始め、風が少しずつ力を蓄え、油屋の上の雨雲を吹き払っていく。千尋は自分の名前を思い出した。だからこそ、河の神を助ける力を得られた。河の神は泥を洗い落とし、お礼に団子を千尋へ贈った。だからこそ、カオナシは本来の純真さと善良さを取り戻せ、ハクにかけられた湯婆婆の呪いも解けた。呪いが解けたからこそ、ハクは湯婆婆をはっとさせ、周囲の偽りを見抜かせることができた。湯婆婆は自分の大切なものを見つけ直したからこそ、ハクが千尋を迎えに、帰り道のない遠くの地へ出かけることを許した。そしてハクは、数々の困難を乗り越えて千尋と再会して初めて、愛する人の助けで、自分の名前を取り戻せたのだ。

そう、油屋の淀んだ均衡を破ったのは、千尋がやって来たことだった。社会全体の秩序さえ、一人の少女の誠実さによって、これほどたやすく支えられる。そのことに気づいたなら、大人である私たちが、どうして行く手を恐れる必要などあるだろう?

階段を駆ける千尋、カオナシ、白龍を藍色の画面に配した『千と千尋の神隠し』中国公開版ポスター
中国公開版の公式ポスター。中国語のコピーは「振り返らず、まっすぐ前へ」という意味。2019年6月21日公開。

編集者注:私たちは本当に、一人の少女の――もちろん隠喩としての少女だが――純真さとひたむきさに、希望を託すべきなのだろうか。それとも、これが闇のなかの唯一の光なのか。ほかの道を見つけることは、まだできるのではないか。私は、できると思う。

本文終わり
注05

注釈

  1. この啓示については「優しく、残酷な風」(原題「温柔又残酷的风」)を参照。 ↑

  2. 宮崎駿が『もののけ姫』の企画に着手したのは、まさに『風の谷のナウシカ』の連載が終わった1994年だった。 ↑

  3. 表面的によく似ているもの同士に深いつながりがあるとは限らず、深くつながっているもの同士が、一見まったく無関係に見えることも多い。 ↑

  4. 『純粋理性批判』の有名な隠喩。カントはこれによって、経験の境界を離れた理性の使用を批判した。 ↑

  5. ルソー『社会契約論』第一編第一章。引用はフランス語本文からの訳。 ↑

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