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『アークナイツ』と現代のトーテム

『アークナイツ』を入口に、データベース型の作品の味わい方、キャラクターを横並びに配置する共時的な構造、現代のトーテムを捉え直す。ガチャ、収集欲、虚構の絆は、現実の人間関係の偶然性をどう埋め合わせるのか。

著者: 窗子中国語版校閲: 伦勃朗中国語版編集: 子厚翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

窗子の著者アイコン。マフラーを巻いた黒髪の人物。
窗子

生きるも死ぬも、去るも留まるも、舞台の操り人形。一本の糸が切れれば、何にもとらわれない。

重要ではない前置き:

新たな千年紀まで生き抜いたクロード・レヴィ=ストロースがこの光景を見たなら、現代における「構造」のすさまじい繁殖力に、さぞ歓声を上げたことだろう。この時代、神話はほしいままに広がり、蔓延している。互いに隔てられていた人間の想像力から、とっくに解き放たれているからだ。メディアとネットワークは、神話が自己複製を繰り返す新たな巣となった。こうなると、構造の普遍性を、部族間に偶然見つかる共通点に由来するものとして説明することは、もはやできない。その一方で、構造と人類全体の惰性との結びつきは、いっそうはっきりと見えてくる。まさにこの惰性ゆえに、人間がつくり出した構造が、逆に人間自身を支配するのだ。


一、動物化するポストモダン

黒地の五つの区画に、塔、龍、ペンギンなどの白い紋章が並ぶ。
『アークナイツ』の陣営を表す紋章。人物たちが属する組織や勢力が、並列の記号として示されている。左端の英字は「ロドス・アイランド」、中央は「ペンギン急便」、その右は「ライン生命」。右端の「BS」はブラックスチールの標章。左から二番目には龍の紋章がある。

『アークナイツ』の大ヒットも、「引き潮」に立つひとつの波にすぎない。無数のゲームやアニメに、これと似た「パターン」を見出せる。多彩なキャラクター設定と、その設定一つひとつの豊かさが、絶滅寸前だったゲームジャンル――タワーディフェンス――を再び表舞台に引き戻すと同時に、いわゆるゲーム性も物語そのものも、引き立て役へと追いやった。そのなかで『アークナイツ』が比較的うまくいったのは、人物、ゲーム、物語のあいだでバランスを取れたからだ。だが、この「群を抜いた」出来こそが、ある普遍的な構造、現代のトーテムをいっそう鮮明に映し出している。トーテムとは、空間のなかで凝固した時間である。そして現代人が作品を味わう習慣も、時間に沿って展開する通時的な物語から、諸要素が並び立つ共時的で精巧な構造へと、ひそかに移りつつある。絵画における主題の解体(モダニズム)、音楽における無調性の台頭(シェーンベルク)、文学における零度のエクリチュールという展望(プルースト)1は、いずれもこの流れの支流にほかならない。

歴史の始まりには、人の顔だけを残したトーテムから神話が生まれた――物語が人物に奉仕した。そこからさらに叙事詩へと姿を変えた――人物が物語に奉仕した。そこに私たちは、物語性の潮が徐々に満ちていく過程を見る。いま経験しているのは、それとは逆の引き潮だ。オフラインゲームの時代から、オンラインゲーム、eスポーツ、そしてガチャの時代へ。物語性はゆっくりと退き、浜辺には太古のトーテムだけがそびえ立つ。そのなかで歴史は動きを止める。歴史の停止とともに人間も衣を脱ぎ、再び動物となり、音楽や色事、いわゆる「声色犬馬」の遊興に耽り、文字どおり「犬馬」のなかへ消えてゆく。2

東浩紀の『動物化するポストモダン』(2001年)は、わずかなサンプル――『新世紀エヴァンゲリオン』(EVA)や『ポケットモンスター』――を手がかりに、この傾向を予見した。だが、ニーチェの言葉を借りれば、息子を観察することで、その父親をいっそう深く理解することもできる(『悦ばしき知識』第9節)。東浩紀の描くところでは、1990年以前のモダンな社会は、なお一揃いの「大きな物語」を土台としていた。それは表層にある一連の「小さな物語」を通じて人々の心をつかんでいた。日々の言葉を正しく組み合わせることで、意味が形になるのと同じように。ところが、物語と言葉そのものが断片化すると、いわゆる物語も意味も、割れた鏡の乱反射にのみ込まれ、無数の等価な可能性へと姿を変える。そこで東はEVAを根拠に、「データベース」型の鑑賞・消費のあり方を提示する。そこでは、読者――視聴者やプレイヤーも含めた受け手――は、もはやまとまった物語を求めない。代わりに求めるのは、「好きに感情移入し、自分の好みに合わせて物語を組み立てられる『物語をもたない情報の集合体』」である。要するに、二次創作を待ち受ける一連の背景設定と人物設定だ。

モダンの側から見れば、この変化は「深みを失った」「形式に終始している」「イメージ崇拝だ」と非難されるかもしれない。だがポストモダンの側に立てば、「シニフィアン(記号表現)の自由な戯れ」(ロラン・バルト)と称賛することもできる。「物語―言説―読者」という、読みうるテクストから、「言説―読者―物語」という、書きうるテクストへ。つまり、物語が言説を通じて読者に届けられるテクストから、読者が言説をもとに物語をつくるテクストへ。3 古典的な詩学から現代的な詩学へ。「記号を通して伝えられる思想」から、「思想を組み立てる記号そのもの」へ。


二、データベース型の美的享受と物語型の美的享受

スパイク、ジェット、フェイ、エドと犬のアインを組み合わせた人物図。
『カウボーイビバップ』のスパイク、ジェット、フェイ、エド、アイン。

まず、作品を味わう「物語型」と「データベース型」のあいだに、境界線を引いておく必要がある。たとえば渡辺信一郎の『カウボーイビバップ』や『サムライチャンプルー』は、どちらに属するだろうか。断片化だけを手がかりにするなら、どちらも間違いなくデータベース型に入る。一話一話が比較的独立しており、一つや二つ削っても大きな支障はないからだ。『ビバップ』の第11話「闇夜のヘヴィ・ロック」と第17話「マッシュルーム・サンバ」に至っては、まるで別世界から飛び込んできたような回で、パラレルワールドとでも考えるほかない。これらの作品では物語が脇へ退き、全話を見終えても、人物像だけがきらきらと輝き続ける。この点からすると、遠くEVAと呼応しているようにも見える。だが、百花繚乱のこの30年には、さらに典型的な別の一群が現れた。『Fate/Grand Order』(FGO)、東方Projectの幻想郷、『NARUTO―ナルト―』(『僕のヒーローアカデミア』/マーベル・ユニバース)、『艦隊これくしょん -艦これ-』(『アズールレーン』/『鉄道少女』4)、『ラブライブ!』(『けいおん!』)、『アークナイツ』(『崩壊3rd』)……。これらの作品は、理論のほうが現実に道を譲れ、と訴えている。ならば、靴に合わせて足を削るより、「データベース型の美的享受」のほうを定義し直すべきだろう。たとえば、こんなふうに。あくまで参考までに。

(1)データベース型の美的享受(共時的モデル)では、共通の特徴をもつ大勢の人物が、一つの平面に並べられることが多い。そのため、人物たちと読者との心理的な距離は、初めから等しい。これに対して物語型の美的享受(通時的モデル)では、人物たちはただ偶然に出会ったことで、一つの物語をともに織りなす。読者との心理的な距離は、物語の展開とともに近づいたり遠ざかったりする。

印を結ぶ緑谷出久と笑顔のうずまきナルト。画面の端には別の人物の一部も見える。
『僕のヒーローアカデミア』の緑谷出久と『NARUTO―ナルト―』のうずまきナルトを中心とする人物画。

キャラクターを同じ平面に並べる共通の特徴が、FGOでは神話や伝説の「英霊」だとすれば、幻想郷では「妖怪」、ナルトでは「忍者」、マーベル・ユニバースでは「ヒーロー」、アズールレーンでは「艦船」、ラブライブ!では「アイドル」、アークナイツでは「オペレーター」、崩壊3rdでは「戦乙女(ヴァルキリー)」になる……。私たちはすでに、こうしたラベルをごく当たり前のものとして受け取っているかもしれない。だが実際には、こうしたラベルが流行り始めたのは近年のことであり、古典的な小説にあっては想像すらできなかった。伝統的な文学が描くのは「人間」、さまざまな人間なのだから。さらに古い時代までさかのぼって初めて、「神」や「英雄」という特別な身分のなかに、似たような群像のつくり方を見出せる。こうしたラベルはフランス語の単純過去のように、初めから自らの「非現実性」をあらわにする。5 ホメロスの目的は神々の物語を記録することではなく、むしろ物語を通じてひとまとまりの神々の系譜をつくり上げ、それぞれの神の力を順に示し、最後には「どの神を信仰するか」という選択の指針を与えることだった、といったほうがよい。戦に勝ちたければアレスに祈り、知恵を得たければアテナを讃える。だから、神々の系譜は「選択」と切り離せない。どの神を信仰するかを選ぶとき、私たちは自分にとっての価値の序列を丸ごと選び、理想とする生き方と、なりたい自分の姿を選んでいる。叙事詩で詩人が、英雄をある神と結びつけることで、その特別な才能を示すように。このような型は、最終的には部族の「トーテム」的な思考へとさかのぼる。

レヴィ=ストロースはこう書いている。「『私は熊だ』とは、世界と、そのなかにおける個人の位置についての宣言であり、共同体での個人の地位や他者との関係を示すものだ」。私たちはトーテムの言説の体系を通じて世界に出会い、それを理解する。まさにこの意味で、データベース型の美的享受は「野生の思考」をよみがえらせる。英霊、忍者、ヒーロー、アイドル、オペレーターは、一連の「現代人のトーテム」なのだ。その一員になることを選ぶことで、私たちは空想の世界に「象徴的に」自分の居場所を定め、理想の人間関係を保つ。そしてこの関係こそ、現実を拒んだオタクが、その埋め合わせとしてつくり出すものである。面白いことに、ほかの作品と比べても、『アークナイツ』の「先祖返り」はいっそう鮮明だ。オペレーターに、動物としての属性や気質を直接与えているからである。孤高のシャチから気性の荒い火竜まで、優雅なユキヒョウから繊細なネコ――ムースとジェシカ――まで。そこには、人類の起源への、いっそう直接的な敬意が見て取れる。

(2)共時的モデルでは物語が設定に奉仕し、人物の違いは図鑑によって示せる。これは、キャラクターが物語上、ある程度の代替可能性をもつことを意味する。一方、通時的モデルでは設定が物語に奉仕し、一人ひとりが比較不能な独立した存在である。それぞれが自らの物語にはめ込まれ、物語を動かし、また物語に動かされる。

損壊した街路に立つフロストリーフ。中国語の台詞欄で、フロストリーフ自身の命を無駄にしないよう仲間へ告げている。
『アークナイツ』第四章「急転直下」。仲間を逃がすために命を懸けるフロストリーフ。画面の中国語を訳すと、話者名は「フロストリーフ」、台詞は「私の命を、無駄にするなよ」。右上の操作表示は「自動」「スキップ」。

第四章「急転直下」を例に取ろう。偵察小隊に誰が派遣されたかは、じつは重要ではない。フロストリーフとメテオリーテを別の誰かに置き換えても、物語は同じテンポで進んでいくだろう。唯一の条件は、誰かが自己犠牲の精神をもっていることだ。だが、それはどのオペレーターに当てはめても難なく想像できる。だから、ある一人だけに固有の資質とは言いがたい。これに対して『サムライチャンプルー』の物語は、あの奇妙な三人にしか演じられない。彼らはいつでも別々の道を行くつもりでいながら、互いの運命をたどって再び出会う。どの一人が欠けても、あの長く荒唐無稽な旅は泡と消える。

(3)共時的モデルでは、人物設定も物語の枠組みも初めから出来上がっており、両者は比較的独立している。人物設定と物語の枠組みを自由に組み合わせることで、筋が展開してゆく。一方、通時的モデルでは、物語と人物がともに育ち、絡み合う。人物の性格は物語の展開とともに徐々に形づくられ、そのたびに物語は新たな方向へ導かれる。

『アークナイツ』は、設定の奥へと誘う味わい深い細部をいくつも埋め込み、各勢力の複雑な関係網を築いている。だが、それらはすべて、物語に入る前からオペレーターの資料が教えてくれていることだ。読者は人物の性格を知ったうえで物語に入り、多くの人物が次々と登場しても、難なくついてゆける。物語そのものは、もはや人物に厚みを与えるという重い役目を担わない。だから、わずかな言葉で時を飛び越え、さらに広い光景を見せることができる。背景の説明を付け加えなければならないSF――たとえば『三体』第三部や『ファウンデーション』第一作――を除けば、設定資料をそのまま提示する手法は、伝統的な小説ではあまり見られない。一つには紙という媒体の表現手段が限られているからであり、もう一つには、連続する筋の起伏から読者の注意がそれることを恐れるからだ。ところが、まさにここで、物語の断片化がすべてを正当化する。時間という次元を離れてしまえば、作者はもう、多くの情報を、段階を追って展開する美しい流れに組み込むために苦心する必要がない。その仕事は読者自身に委ねられる。こうして、情報の無数の配列と組合せから、無数の真相、無数の物語、無数のハムレットが生まれ、シニフィアンの遊びの世界に調和して共存する。バルトの理想はここに受け継がれたのだ。デリダは、「文学テクストはひとたび書き上げられると、宗教的な崇拝の対象になってしまう」と嘆いている(『エクリチュールと差異』)。6 それは大部分、従来の読者が、物語はすでに終わり、言葉そのもののなかに封じ込められていると信じているからだろう。彼らにとって物語とは、そこに見え隠れするひとつの客体なのだ。

だが、データベース型の美的享受は、その前提を覆すよう私たちに促す。作品を、読者と作者がともに書き上げる交響曲として捉えるのだ。それは紙の上で完成するのではなく、推測や交流や二次創作のなかで生まれる。

とはいえ、輝かしい理論と現実のあいだには、かなりの隔たりがある。桶にためられる水の量がいちばん短い板で決まるように、この種の作品の質を決めるのは、もはや作者の力量ではなく、読者の力量になるからだ。データベース型の作品が築く迷宮は、目を回した読者を出発点へ連れ戻す。古典劇のように、感情を一歩ずつ葛藤の頂点へ導くことはできず、ただ自分自身を映すことしかできない鏡を読者に渡す。言い換えれば、プラトンのいう「劇場支配」、つまり観客が支配する状態に堕してしまう。「観客は詩人の知性を引き下げてしまう。本来なら、自分たちより優れた人の詩を聴き、それによって、よりよい喜びを繰り返し味わうべきなのに」(『法律』)。

本から自分自身しか読み取れない読者は、真の戦慄をいつまでも味わえないのかもしれない。私たちが作品を味わう習慣は、千年にわたる伝統との小さな出会いの積み重ねによって、形づくられてきたのだから。物語型の美的享受において、筋とともに成長するのは主人公だけではない。読者である私たち自身もそうなのだ。私たちは綾波レイの肩に立ち、ともにこの不条理な惑星を見下ろす。私たちはシンジとともに狂気へ追い詰められ、アスカとともに答えを見つける。そして、これらすべての悲劇の果てに、幸運な者はひょっとすると、「凝り固まった個体化の原理」を打ち破り、「万物の母胎へと酔い沈む」ことさえできるだろう(ニーチェ『悲劇の誕生』)。7 物自体の劇場の椅子から、この世の華やぎがすべて散り果てたさまを振り返るのだ。

多くのポケモンが一つの画面に細かく整列する集合図。
『ポケットモンスター』のポケモンを一覧にした集合図。下部の英字は「ポケモン全キャラクター」の意。

三、収集欲と現代のトーテム

付け加えておくと、純粋な共時的モデルや通時的モデルは、おそらく決して存在しない。この二つの要素は、異なる方向から力を合わせ、一つの物語を織り上げる。とはいえ、ゲームの流行の歴史をたどれば、共時的モデルが次第に表舞台へ出てくるという大きな流れは、たしかに見えてくる。物語は人物の引き立て役となり、もっぱら人物を見せるための舞台になる。

(1)オフラインゲームの時代(1980年頃〜)

初期のステージクリア型ゲームでは、プレイヤーは一本の時間軸に厳しく縛られていた。操作の自由度が物語を左右することはない。物語はすでに書き上げられているからだ。この意味では、こうしたゲームもギャルゲーとともに、ビジュアルノベルの列に加えることができる。ただしステージクリア型では、読み進める速度がプレイヤーの操作に密接に結びついている。一方、ギャルゲーでは複数の筋が一つのゲームに撚り合わされており、見るかどうかをプレイヤー自身が選べる。したがって、オフラインゲームの時代には、物語の形式はまだ損なわれずに保たれていた。

(2)オンラインゲームの時代(2000年頃〜)

オンラインゲームにおける共時的モデルは、選択肢として用意された多くのキャラクター、職業、衣装、転生、武器、ペットなどに現れる。小学生のとき、中国のオンラインRPG『梦幻西游』に初めて触れたころを思い返すと、私は誰を演じればよいのか、本当に悩んだものだ。一人ひとりが固有の魂と天命をもっているように見えた。選択肢に目移りする感覚は、職業を決めてゲームの世界に入ったあとも続いた。いま自分がたどっている道筋の外には、無数の可能性がある。そのことを絶えず思い出させてくれたのだ。こうして図鑑は、共時的な楽しみを託す大切な場所になる。数値や説明や姿が少し変わるだけで、別の生き方を思い描けるからだ。この気分は、商品を選んで買うときの期待と少しも違わない。だが、こうしたオンラインRPGとFGOやアークナイツとの決定的な違いは、ここでは「主体性」がなお盛んに働いていることだ。プレイヤーの演じる人物は、筋の展開に強く介入し、物語を動かす重要な役割を担う。職業も衣装も武器も、「私」が強くなる、格好よくなるということを中心に選ばれる。だから、オンラインゲームの時代には、伝統的なトーテム意識の典型が見られる。自分をトーテムの動物に投影することで、私たちは想像のなかで、力への意志が絶えず高まっていく快感を手に入れる。

これに対して、ほとんどのガチャゲームは、プレイヤーの存在感をできるだけ低く抑えようとする。プレイヤーは顔を失い、性格を失い、物語をただ見ているだけの傍観者へと成り下がる。この点で、私たちに「掃除係」を演じさせる『崩壊3rd』は、明らかに最も成功した例だ。「掃除係」とはプレイヤーである艦長の呼び名で、ここでは物語に関わらせてもらえない立場を揶揄する中国語圏のネタだ。よく考えると、これはじつに奇妙なことである。ガチャゲームは、私たちのまったく別の快感を狙っていることになるからだ。この二つの快感がはっきり異なる証拠は、次の点にある。単なるトーテム意識からは、人々の収集欲はどう見ても生まれない。だが、課金を促す原動力は、ほかならぬその収集欲なのだ。レヴィ=ストロースが述べるとおり、トーテムとは私と世界との理想的な関係を宣言するものであり、「私」の象徴として、おのずから一つにまとまっている。オンラインゲームのプレイヤーの多くは一人のキャラクターを使い続け、最初につくったキャラクターに特別な思い入れを抱く。その思い入れは、むしろあとからつくったキャラクターを遠ざける。要するに、私たちが心を寄せるのはたいてい一つの生き方だけであり、別の生き方には好奇心を抱くにとどまる。したがってガチャゲームは、「伝統的なトーテム意識」とは異なる「現代のトーテム意識」を表しているに違いない。前者が力への意志へと向かうのに対し、後者は収集癖へと向かう。この種のトーテムの原型が何なのかを、さらに見定めなければならない。

(3)eスポーツの時代(2000年頃〜)

eスポーツの時代は『Spacewar!』に始まり、『ストリートファイター』(『ザ・キング・オブ・ファイターズ』)で盛んになった。ただ、『Command & Conquer: Red Alert』からDOTAまで、一連の作品は同じ型に従っている。人物も陣営も、使い始めるための条件はなく、最初からプレイヤーに開放されているのだ。共時的モデルは人物や陣営の豊富さに現れているものの、そこに収集の要素は組み込まれていない。『遊☆戯☆王』は紙のカードでは「カード収集+対戦」を売りにしているが、オンラインのゲーム版では、これらの対戦ゲームと同じく、プレイヤーに収集の圧力をかけてはいなかった。転機をもたらしたのは、『リーグ・オブ・レジェンド』と『ハースストーン』の二作である。開発チームが「データベース」そのものから消費を生み出せることに気づき、ガチャという仕組みを導入したのだ。

(4)ガチャの時代(2010年頃〜)

「ガチャ」の概念は、ゲームセンターに置かれたカプセル玩具の販売機にさかのぼる。もともと「ガチャ」は、ハンドルを回したときに鳴る音を指していた。2002年、セガは『WORLD CLUB Champion Football』(WCCF)にいち早く「ユーザーアカウントとトレーディングカード」の仕組みを導入し、カプセル玩具の仕組みをオンラインへ持ち込んだ。このゲームが、その後の一連のガチャゲームの原型となった。ガチャを成り立たせる鍵は、膨大で緻密なキャラクター設定にある。だが、そこには問題もついてくる。それほど大勢の人物を収めながら、一人ひとりの持ち味も保てる物語など、ほとんど存在しないのだ。J・R・R・トールキンもジョージ・R・R・マーティンも、この分野では頂点に立つ芸術家だ。それでも『指輪物語』や『氷と炎の歌』の中心人物は十数人にとどまる。しかもそれは、長年のたゆまぬ仕事の成果なのである。ならば、この難題を乗り越え、多くのキャラクターを「同時に」物語へ結びつける唯一の方法は、共通の特徴をもつ人物として一つの平面に彼らを並べ、その身分や組織や種族を限定することだ。アニメ『ポケットモンスター』を例に取れば、物語の主軸は、サトシがポケモンたちを率いて各地のジムに挑むことである。その「ポケモン」が誰なのかは、じつは筋に実質的な影響を及ぼさない。これが、データベース型の美的享受を「物語におけるキャラクターの代替可能性」によって定義する理由だ。

だが、まさにここで、この文章で最も重要な矛盾にぶつかる。物語のなかでキャラクターが代替可能ならば、プレイヤーは特定の誰かに感情を重ねにくいはずだ。それなのに、なぜその一人にすべてを賭けるのか。言い換えれば、代替可能性は、プレイヤーの感情を各キャラクターへ均等に振り分けるはずであり、そのぶん、一人に向かう感情は従来の物語より薄くなるはずだ。だが、現実はそうではない。私たちは特定の誰かに執着するだけでなく、すべてのキャラクターと同時に強い「絆」を結びたいと願う。

そう、「絆」である。少し振り返れば、あらゆるガチャゲームで繰り返し現れる概念だとわかる。『遊☆戯☆王』の主人公がカードに寄せる信頼から、『ポケットモンスター』の人間とポケモンとの深い友情へ。指揮官と艦娘を結ぶ婚約指輪から、マスターとサーヴァントを結ぶ令呪へ。プロデューサーがアイドルを指導する関係から、ドクターがオペレーターを任命する関係まで(どうやら掃除係にだけは人権がないらしい)。「絆」という概念は、ほとんどすべてのガチャゲームを貫いている。しかも、本来ならその仕組みと矛盾するはずなのに。

これは単なる偶然だろうか。私はそうは思わない。むしろ、この矛盾こそ、現代のトーテムの本質を明かしている。伝統的なトーテムが、人間関係の主体である自分の側を示す宣言だとすれば、現代のトーテムは、その関係の客体、つまり対象となる相手の側を浮かび上がらせる。伝統的なトーテム――自分をトーテムの動物になぞらえること――は、自らの力を示したいという欲望を満たす。一方、現代のトーテム――伴侶をトーテムの動物になぞらえること――は、親密な関係を築きたいという欲望を満たす。だからこそ、それは必ず、何らかのかたちで絆を強調するものとして現れるのだ。

長い耳と青い目のアーミヤが困ったように見つめるミーム。下に中国語の一言が添えられている。
アーミヤの耳をロバに見立てる「阿米驴」いじりに添えたミーム画像。下の中国語は「また私をいじめるつもりでしょ」という意味。

「阿米驴」――アーミヤの中国語名「阿米娅」をもじり、ロバを意味する「驴」を当てた呼び名――の流行は、ある意味でこの見方を裏づけている。このネタの面白さは、決して単に「耳がロバに似ている」という事実にあるのではない。その事実が、耳の象徴する「親密な関係」を戯画的にひっくり返してしまうことにある。「ウサギ」は、広く共有された理想の親密な関係を象徴する。男たちはいつも、自分の伴侶がウサギのように従順で、身軽で生き生きとしていてほしいと願う。だが、その可能性は「ロバ」の象徴によって台無しになる。「ロバ」にはいつも、不器用さや頑固さがつきまとう。それが想像力を大いに刺激するのだ。人とロバのような親密な関係とは、いったいどんなものなのか、と。

大人になると、私たちはある残酷な事実に気づく。キャラクターの代替可能性は、ゲームの世界だけで生じるのではない。それはむしろ、現実の人間関係の典型的なあり方なのだ。

運命の無情さに照らせば、ある時期に私たちが、ほかの誰かではなくその人と親密な関係を結ぶことに、筋の通った理由など何もない。だから、すぐに思い知ることになる。偶然の出会いから生まれた感情が、初めはどれほど揺るぎないものであっても、時が来れば、停泊していた二隻の船は別々の道を行く。ニーチェが嘆いたように。「だがその後、使命のもつ絶大な力が私たちを再び引き離し、異なる海へ、異なる太陽の照らす地へと駆り立てた。もう二度と会わないかもしれない――あるいは会うことはあっても、互いにそれとわからないかもしれない。異なる海と太陽が、私たちを変えてしまったのだ! 私たちが互いに見知らぬ者にならねばならないこと、それが私たちを超えて支配する掟なのだ」(『悦ばしき知識』)。8 見知らぬ者になることは、初めから定まっている。この関係は、最初から代替可能だったのだから。一人と友人になれたなら、誰とでも友人になれる。その関係を陰で守る運命や必然性などない。そして友情の誠実さも、偶然とすれ違いへの恐れのなかで失われていく。ガチャに執念を燃やすのなら、そうなるだけの現実の理由が必ずある。

まさにここで、ガチャを引くという行為は、親密な関係の背後にある偶然性を、象徴的に乗り越える。一度そのキャラクターを引けば、私たちは彼を「永久に」所有し、深い絆を結ぶ。もはや、どんな運命も私たちを引き離せない。だから、ガチャの魅力は、「偶然性」を「必然性」へと昇華させる、あの金色の光にある。それは現実の暗雲を払い、移ろいゆく暮らしから私たちを逃れさせてくれる。そして、ガチャを引く原動力を、象徴的に親密な関係を築こうとする欲望だと捉えてこそ、収集欲が何に向かうのかも、ようやく見えてくる。ポケモン、艦船、サーヴァント、オペレーター。彼らは財産として欲望のなかに現れるのではなく、友人、あるいは伴侶として、私たちのそばへやって来る。財産ならば、星6だけで十分なはずだ。だが私たちは、全員が欲しい。みんな私たちの友人であり、私たちの翼なのだから。

源石、新聞、龍門の都市図、杖と玉座状の意匠、医療記録、ロドスのロゴと身分証を白い枠で結んだコラージュ。
『アークナイツ』の世界観を構成するモチーフのコラージュ。源石、「チェルノボーグでの暴動」と題した紙面、「龍門」と記された都市の立体図、杖と玉座を思わせる意匠、「医療記録」、そして「ロドス・アイランド」の標章と身分証が並ぶ。身分証の文字は「ハイビスカス」「医療助手」。括弧内は図中の英語の意味。

編者注: 一点、見方を補っておきたい。ガチャの仕組みは、時間を費やし、課金することを、関係を保障する条件にする。相手を得られないかもしれないという不安を、プレイヤー自身の支払い能力や、注ぎ込む労力が足りないという問題へと置き換えているのだ。ここには、後期近代を動かす一つの論理が潜んでいる。生産労働の形式が、ゲームという余暇の過ごし方へ持ち込まれているのである。

編者注2: 東浩紀の名に過敏な主体が発作を起こさないように(……)、ひとこと。作者の主眼は冒頭の東浩紀にはありません。あれは、あくまで導入です。

本文終わり
注08

注釈

  1. 訳注:「零度のエクリチュール」はバルトの著書・概念に結びつく語。書誌はみすず書房『零度のエクリチュール』を参照。 ↑

  2. 訳注:中国語の「声色犬馬」は音楽・色事・犬・馬などの遊興を指す成句。ここでは「犬馬」を文字どおりの動物に引き戻し、「動物化」に重ねている。 ↑

  3. 著者注:後者は読者にひとつの役割を、想像力を働かせる余地を与える。前者では読者のすることはなく、テクストを拒むか受け入れるかという自由しか残されていない。 ↑

  4. 訳注:原文は「铁道少女」。鉄道擬人化作品の例として挙げられているが、指す作品を確定できないため、表記を残した。 ↑

  5. 訳注:単純過去はフランス語の時制。ここでは、物語が作り物であることを示す形式としての働きをたとえにしている。バルト「小説のエクリチュール」の仏語本文・邦訳対照(PDF23–25頁)にも同趣旨の議論がある。単純過去が文法上つねに虚構を意味する、ということではない。 ↑

  6. 訳注:この一文は、張寧による中国語訳をめぐるデリダへのインタビューにも見える。 ↑

  7. 訳注:個体化の原理とは、存在を別々の個体として区切る原理。ここはその境界を越える陶酔をいう。 ↑

  8. 訳注:ニーチェ『悦ばしき知識』第279節「星の友情」。ドイツ語原文の該当範囲から訳した。 ↑

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