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機械としてのアニメーション――高畑勲批判、ラマールが「アニメーション=機械」を見落としたことについて

『かぐや姫の物語』を出発点に、ジブリと技術をめぐるラマールの二元論を批判し、アニメーション制作における技術装置と生の哲学を論じる。

著者: 屋顶现视研翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

原作者署名:作者君。本文は高畑勲、『かぐや姫の物語』、そしてラマールの「アニメーション=機械」論を論じる。

「一只非0的O」のアバター
一只非0的O

かつて私は幻の中で見た。

ダルシマーを手にした少女を。

それはアビシニアの乙女で、

その楽器で曲を奏で、

アボラ山の歌をうたっていた。

……

「重要なのは、神話が語られた時代ではなく、神話を語る時代である」。神話に関わる批評は、例外なくこの点に同意する。そしてこの命題は、技術哲学の研究において、より複雑なかたちで反復する。技術は根本的な水準で私たちの身体を、あるいは私たちの時間と空間の知覚を、すでに再編してしまったのである。1 したがって、前‐技術時代の物語を語り直すとき、そこに含まれる時空間の想像もまた書き換えられなければならない。たとえば今日、コールリッジの『クーブラ・カーン』を読む際には、東洋趣味的な幻想も「ザナドゥ計画」(Xanadu Project)のリバタリアニズムと重ね合わせなければならない。「ザナドゥ」との空間的距離は、もはや西洋‐東洋という物理的空間ではなく、(仮想的な)サイバー空間なのである。2

これらすべての議論は、私たちが『かぐや姫の物語』(2013)というテクストに入っていくための必要な準備である。多くの読解がすでに示しているように、『かぐや姫の物語』はジブリの他の作品と同じく、ある種の「自然」を物語の解答として選び取っている。この自然は田野のものでなければならず、田野のすべてを丸ごと引き受けなければならない。田野はつねに「田園詩」として存在するわけではない。というのも、ほとんどの時間、それは貧困だからである。かぐや姫が走った先にあるのは荒れ果てた林だけであり、この貧困は「物質性」(Stofflichkeit)の水準で農民の行動だけでなく思考にも影響を及ぼしている。テクストもその点を避けてはいない。3 捨丸は都市で盗みをして暮らすだけでなく、田野で暮らしていたころからすでに盗みを覚えていた。

ここで必要なのは、単純な道徳的判断ではない(そしてそれは同時に「不可能」でもある。すでに述べたように、あからさまなこの「悪」は田野の文脈とあまりにも絡み合っているため、その悪もほとんど素朴な性質を帯びてしまうのだ)。もし私たちが「貧困の生」(poor life)という、深く歴史化された概念を借用するなら、田野のもう一つの側面へと目を向けることができる。プラトーノフの『チェヴェングール』において、「周囲は一面腐敗し、人々は本能だけでここへ暮らしに来る」という状態は、反対に、過剰な生命力――植物の生命力(農民がかぐや姫に見せた若芽のようなもの)――を指し示している。

……それは自分自身の運命を見つけた。赤柳の若芽が伸びていたが、ほかの部分は泥の中で腐っており、将来藪になる根の芽の上に、靴の形を保っていた。靴底の下には、もっと湿った泥があったかもしれない。というのも、灰白色の草の葉が何本も、そこを突き抜けて外へ出ようともがいていたからだ。4

そして『かぐや姫の物語』では、この生命力が(植物/竹としての)かぐや姫のうちに、最も率直なかたちで現れる。

『チェヴェングール』を離れる前に、この二つのテクストのあいだのインターテクスト性を、もう一度指摘しておく必要がある。田野の、あるいは自然の生命力は、必然的に「技術」の拒絶として現れる。この姿勢は、ときに「家長の心配」のようなものとして逆向きに表現されるが、より多くの場合、それは拒否の姿勢として現れる。農民(peasant)はプロレタリアート(proletariat)になることを拒む。なぜなら、「プロレタリアートは自然を称賛せず、労働によって自然を破壊する」からである。5 この前提のもとでは、工業労働に同情を寄せる者は、ある種のフューチャリズムの熱狂として描かれる(「身体は列車の車輪の回転と、列車が素早く吐き出す息によって快くくすぐられ、機関車への同情の涙が一滴また一滴と彼の目を濡らした」)。同様に、『かぐや姫の物語』は、ジブリの他の作品と同じく、「技術」をできるだけ隠した世界を示している。このことはテクスト内に現れるだけではない。一方では、『かぐや姫の物語』の画面は、アニメーション史上のいかなる時期でもなく、平安時代の絵巻へ回帰しようとする。6 他方で、ジブリは制作過程において、「最小限のアニメーション技術、とりわけ精緻な分業と労働関係を必要とする技術」を要求する。7

だからこそ、映画の終わり近く、かぐや姫が「地球」を振り返るショットはいっそう唐突に見える。画面左半分を占めるかぐや姫の横顔を除けば、右半分の黒い背景(「宇宙」)には、私たちのよく知る「ブルー・マーブル」(The Blue Marble)――地球全景のイメージ――が、まぎれもなく浮かんでいる。もちろん、今日の観客にとってこのようなイメージはあまりにもありふれているため、その皮肉を指摘しようとする批評家は誰ひとりいなかった。地球を全体として観察する視点は、技術の支えがあって初めて成立するものであり、その技術の発展もまたごく最近のことなのだ。1972年、アポロ17号の飛行によって、初めて「ブルー・マーブル」の全貌が撮影された。ところが、平安時代の神話を語り直そうとする『かぐや姫の物語』では、この技術化された世界像が、あっさりと前提にされている。

ここから、私たちは『かぐや姫の物語』の構成を反省する必要がある。スロターダイクがすでに指摘しているように、「ブルー・マーブル」に示されるような「球体」(Sphären)こそが、現象学的な意味での「世界」(Welt)ではなく、グローバル化時代を正しく記述するものである。後者はつまるところ具体的で可変的であり、現象学が固持する経験の秩序に属している。それに対して前者は「つねに、その必然的な不安定性によって妨げられ……存在すること自体があらゆるものからのリスクを引き受け、容易に砕け散る」。8 したがって、球体の内部の生命は不安定化された生命として、すなわちアガンベンのいう「剥き出しの生」あるいはバトラーのいう「脆弱な生」として表現される。

ここで、テクストの内容と形式のあいだに深い亀裂が導入される。明らかなことだが、自然の、田野の生命力はいかなる特定の目的も持たない(「執行委員会はないが、幸福でありながら役に立たない人々は大勢いる」)。それどころか、自身が存続することさえ目的にはならない。『かぐや姫の物語』もその点をさらりと認めている――木材が尽きても、別の山を探せばよいだけなのだ。もちろん、この目的を持たない生命、あるいは造物は、すでにカフカの筆によって最も生々しく描かれている。

この組立て品は以前は何か用途にかなった形をしていたのだが、今ではそれがこわれてこんな形になってしまっただけなのだ、と人は思いたくなることだろう。だが、どうもそういうことではないようなのだ。……全体は意味のないように見えるのだが、それはそれなりにまとまっている。……死ぬものはみな、あらかじめ一種の目的、一種の活動というものをもっていたからこそ、それで身をすりへらして死んでいくのだ。このことはオドラデクにはあてはまらない。9

自然の生命力は、こうして死なずに存続するものとして表現される。それとは正反対に、不安定化された状況においては、死とその可能性が生命の内部に深く内在している。ハイデガーはそれを「死へ臨む存在」と呼んだ。死は人間が越えることのできない有限性の地平として受け入れられ、そして実際、かぐや姫の理想となる。月は死の場所ではなく、単調な無‐生命なのだ。認めなければならないのは、かぐや姫と両親の最後の会話において、彼女がヒステリックに掴もうとしていたのは、田野の生活でも(彼女自身が捨丸を拒んだ)、父親役によって与えられた身分でも、決してなかったということである。むしろ、彼女が最後まで貫いたのは、この拒絶的で自殺的な姿勢だった。10

月と地球という、さほど巧妙でもない対立のなかで、「生命」(Leben)という概念はあまりにも広くなり、「生命と死、美学と現実経験、古代と現在」の境界までもがぼやけ始める。古い神話を語り直す際、この死への執着的な態度は、疑いなく私たちに生の哲学(Lebensphilosophie)の議論を不安なかたちで思い起こさせる。

[ドイツの]若者たちは、次のことを学ばなければならない。死と生命は互いに結びついており、生命とは大きな脅威に直面する瞬間によって定義される。若者たちは成長し、生の闘争(Kampf des Lebens)に参加しなければならない。11

あるいは、1920年代半ば、生の哲学者たちがバッハオーフェン(J. Bachofen)をめぐって交わした論争では、次のように述べられる。

[母は]生命を与えると同時に死をも与える――彼女は運命の化身である。「自然」という語は、ロマン派にとって運命と同じ意味を持つ。

明確にしておかなければならないのは、生の哲学運動をナチスの発明と単純に要約することは到底できないという点である。生の哲学の起源の時点(竹内好なら、それが「自覚」を得た時点と呼ぶだろう)は、「不安の混じった躁的な動揺と、気落ちした鈍さ」が入り混じった19世紀末、あるいは特に「世紀末」(fin-de-siècle)にある。シュレーバー高等裁判所長官の妄想症において、この退廃(Entartung)への恐怖はさらに、さまよえるユダヤ人(the Wandering Jew)のイメージにその支えを見出した。ユダヤ人と、彼らが運ぶとされたウイルス(世紀末において、そのウイルスとは梅毒だった)は、長いあいだ、深くアーリア人を腐敗させてきたのである。12 したがって、カフカの本文とはほとんど関係のない「家長の心配」という題名も、この歴史的文脈を通してのみ説明できる。すなわち、具体化された享楽としてのオドラデクにカフカが注ぎ込んだユダヤ性こそが、(ヨーロッパの)家長の心配の最終的な源なのである。ゆえに、生の哲学は、それが現れた瞬間から、根本的な問題意識の周囲に完全に組織されていた。すなわち、新しい哲学(教育)を通じて、アーリア人における個体と自然のあいだの前‐ロゴス的統一をいかに「回復」するかという問題である。そして私たちが知っているように、同じモチーフは高畑勲の作品群にも何度となく回帰している。『かぐや姫の物語』がそうであり、それ以前の『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994)、さらには極めて論争的な『火垂るの墓』(1988)もそうである。

同じくらい重要なのは、生の哲学が「像」(Bild)に与えた存在論的地位である。ルートヴィヒ・クラーゲス(Ludwig Klages)によるニーチェ読解において、(ギリシアの)前‐歴史的時間は陶酔(Rausch)の周囲に展開する。

この情熱的な感性は、その本質において性愛に満ち、思考することのできない豊かな色彩、音、匂いへと向かい、私たちをエロスの奇跡へと導く。陶酔のなかで、この奇跡は初めて完全に実現され、魂を運ぶものを、不可欠な世界の魂の像へと連れていく。

ここでクラーゲスは、ギリシア神話のクロノスに賭けている。クロノスは歴史の神ではなく、時間の神である。このような時間の感覚は、近代性の道具によって測定することができず、身体に直接作用する。同様に、現実の経験も、(夢化された)像の流れが感覚に与える衝撃へと作り替えられなければならない。像、あるいは欲動は、前‐歴史的時間の別名にすぎない。このような議論も、私たちはすでによく知っている。

……しかし、それは力とリズムを真に伝え、線の震えのなかで、怒り、悲しみ、狂気といった複雑で混沌とした情動を人に感じさせ、この一節を有機的な全体として形づくっている。これはベルクソンが「持続」(durée)について語ったことに非常によく似ている。「強烈な恋愛や深い悲哀は、私たちの心をすべて占領する。そのとき私たちは、何百もの異なる要素が互いに溶け合い、浸透し合うのを感じる。それらには明確な輪郭がなく、互いの関係において自らを外在化しようとする傾向も少しもない」。……アニメーターが時間の流動の経験を観客へ伝えた、あるいは身体が持続と生命の流れを直観し体認したことが、身体へと還流した、と言えるだろうか。13

鋭敏な批評家たちはすでに、高畑勲と押井守という大きく異なる二人のスタイルのあいだに、ある共通性が存在すると指摘している。二人はいずれも、劇の時間(記号界の時間)と現実の時間のあいだに結びつきを築こうとしているのである。そして、画面に厳密に従ったこの考察を外へと広げるなら、『かぐや姫の物語』でかぐや姫が疾走するショットと、『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(1995)の有名な都市シークエンスとの共通点も見えてくる。(強烈な背景音楽を伴いながら)どちらも、ある普通の動作を拡大することによって、物語そのものから離脱し、アニメーション/都市のスペクタクルを示すためだけに存在するものとなる。おそらくこれは、タルコフスキーの『ストーカー』(1979)における追随ショットへのオマージュと言えるだろう。それは惰性的な、現実界の時間であり、時間がハイデガーの「大地」に引き寄せられた産物である。14 つまり、ここで「主体は周囲の感覚的な物質的現実とのつながりを失ったときに夢へ入るのではなく、知性を放棄し、物質的現実と直接つながったときに夢へ入る」。これこそ生の哲学の究極の夢であり、高畑勲や押井守の像のなかに隠された直接的な帰結でもある。

ここで、私たちは前段で繰り返し回避してきた核心的な対立に戻らなければならない。すなわち、生の哲学の自然は、技術によって形づくられた世界像、あるいはナチの工業化の姿と、どのように両立するのか。この問いへの最初の答えは、生の哲学が覚醒と夢のあいだの隔たりを打ち破ろうとする欲望に見いだせる。クラーゲス本人の長年にわたる深刻な不眠を持ち出しても、この狂熱を説明することは到底できない。反対に、これは生の哲学が世紀末の時間形式を洞察した結果だと認めなければならない。ここでもまた、『チェヴェングール』はこの症候の記述を私たちに提供してくれる。

……夜警は時間を感じ始めた。時間に対する彼の感覚は、悲しみや幸福に対する感覚と同じくらい鋭敏で正確だった。何をしているときでも、眠っているときでさえ……一時間が過ぎるとすぐ、夜警はある種の警告、あるいは欲望を感じ、鐘を鳴らして時刻を告げ、そして再び静かになった。

ジェイムソンはこれを「世俗的な有機的時間についての偉大な初期経験」と記述している。しかし彼には、主体が「昼」や「夜」ではなく、なぜ「時間」によって時間を区切るのかを説明できない。したがって、私たちは冒頭で述べた議論を語り直す必要がある。技術は私たちの時間感覚を作り替えた。工業生産のために定められた時間表は、農民が用いていた伝統的で自然循環的な時間に取って代わり、「人々を訓練して怠惰な労働習慣を改めさせ、複雑な自動化の不変の法則に同意させる」ために機能した。15 同時に、1880年代以降、都市に街灯が広く設置されたことで、古い睡眠のリズムは、照明によって支えられた(長時間にわたる)明るさによって破壊された。覚醒と睡眠という両極は、工業生産の目標のもとで同時に統合されなければならなかった。16 (覚醒した)現実と(夢の)幻影が初めて結びついた。これが、生の哲学と、その論敵である精神分析が共有する前提である。

同様に、生の哲学が(ユダヤ人によってもたらされた)腐敗を敵視する姿勢も、世紀末の科学/医学研究と同じ道を選んだ。近代性を前にすると、身体はこの労働のリズムに適応できず、疲労と病気は、近代性に対する身体の愚かな抵抗の現れとなった。1847年にヘルムホルツが熱力学第二法則を記述して以来、労働力エネルギー(labor power)の枯渇を阻止することが、各分野の研究者の志向となったのである。世界全体が同じ熱力学的システムに組み入れられ、人と人との関係も、人と自然との関係も、エネルギーの動態として現れる。デカルトが『方法序説』(1637)で記述した、人間と動物‐機械との区別は、もはや意味を持たない。魂があるかどうかは、この普遍的な熱交換に何の影響も与えないからである。17 したがって、生の哲学の宇宙は、深く機械論化された宇宙として現れる(その語彙がそれを拒んでいるとしても)。不器用な身体は、世界の運行に適応するよう改造される。フーコー的な反転によって、淫蕩(そしてそれがもたらすウイルス)という、前‐近代的で、さまよえるユダヤ人によってもたらされた享楽は放棄されなければならない。そして新しい生物学の統治に従う身体が、反対に陶酔を得るのである。

これで、私たちはラマールの見解に応答できる。ラマールは、技術への態度の違いによって、ジブリとGAINAXのあいだに一本の境界線を引く。前者は技術を拒絶する、あるいは技術の最小化を呼びかける。後者は技術を受け入れる。18 しかしラマールが見落としたのは、ジブリ作品の(原)ファシズム的イデオロギーの背後に、生の哲学が前提とする技術化された世界があるということだ。かぐや姫が宇宙飛行士の視点から地球を振り返ったとき、彼女が目にする地球は、『風立ちぬ』(2013)で零式戦闘機を生産した地球でもある。『火垂るの墓』では、蛍の光が戦後の繁栄した都市の明かりへと徐々に移り変わるとき、技術を拒絶する最小限の態度さえもついには跡形なく消え去り、民族性と工業の神話に道を譲る。(ナチ哲学者)ハイデガーの文脈における技術に、フーコーの体系で対応するものは装置(dispositif)である。すなわち、自然の対象化、そして社会の対象化であり、後者は当然のように生政治、あるいはより広範な人間の統制へとつながる。これこそ、ジブリ作品への批判の最後の一歩でもある。生の哲学を抱擁するイデオロギーでありながら、生の哲学の世界の再現を拒むことの代償として、死は作品の症候として観客の解釈に現れるだけでなく、テクスト‐商品において抑圧されたものとして制作過程へ回帰する。19 近藤喜文の「高畑先生は僕の命を狙っている」という訴えは、あまりにも重視されてこなかった。20 ラマールや他の批評家が見落としたジブリの技術は、まず画面上に現れるのではない。それは生産の場に現れ、さらに幽霊として商品へ回帰し、そこで自らの存在を主張する。これが批判の限界であり、同時に批判が始まる場所でもある。

編者按

本文が批判する「技術」は、もちろん工学技術だけを意味するものではない。私が理解するかぎり、この技術は近代性のイデオロギーとしての技術であり、本文でいう「ハイデガーの文脈における技術に、フーコーの体系で対応するものは装置(dispositif)である。すなわち自然の対象化、そして社会の対象化である」というものだ。つまり、ラマールの視野におけるジブリの「技術を拒絶する、あるいは技術の最小化を呼びかける」という区分も、無効な区分になる。なぜなら、その区分は「技術‐自然」という二元論を前提としているからである。ついでに言えば、だから『風立ちぬ』などの映画に登場する技術のイメージ(飛行機)を挙げて、ジブリが「技術」を好む、あるいは反対していると証明することもできない。というのも、画面に現れる飛行機の技術は、ここで問題にしている「技術」そのものではないからである(もちろん、ある意味では、『風立ちぬ』が零式戦闘機という軍事的造物に頑固なまでに執着するフェティシズムは、あまりにも直球でひどい。これは、「飛行機の技術は悪い用途に使われたが、本来私は……と望んでいた」などという、当たり障りのない台詞を登場人物に言わせるだけでは相殺できない)。

こうした技術のイメージを迂回し、ジブリのテクストが抱擁する生の哲学的価値観を分析すると、その表面上は「生命(力)を崇拝し、自然を称賛する」という言説の修辞を採用しているように見えるが、実質的には近代性に対する、機械論化された生物学的統治への反応であることがわかる。たとえば『風の谷のナウシカ』の漫画版では、一見すると「新人類をモルモットにした旧人類を殺し、新人類自身の未来を切り開く」ことは、技術による統制の拒絶であり、人間の生命力への称賛であるように見える。しかし、人間を分類し、消滅させ、統治するこのやり方自体が、疑いなく「技術装置」化されている(もちろん興味深いことに、新人類自体も人工的‐技術的な存在であり、真正で原初的な「自然」ではない)。以上が、本文についての私なりのわずかな敷衍である。

最後に、作者の補足を引用しよう。「テクストのなかには非技術的な自然など存在しない。技術が総体的な前提なのだから、ラマールの区分は誤っている。そしてこの技術の現れ方は生の哲学と同じ系譜にあり、それゆえテクストにおける生命の現れ方にも影響する。これが本文の進路である」。

記事の図版

本文終わり
注20

注釈

  1. Crary, J. 『知覚の宙吊り――注意、スペクタクル、近代文化』.江蘇:江蘇鳳凰美術出版社.2014. ↑

  2. Streeter, T. 「あの深く奇妙な大きな裂け目」:リバタリアニズム、新自由主義、コンピューター文化. ↑

  3. Chehonadskih, M. Soviet Epistemologies and the Materialist Ontology of Poor Life: Andrei Platonov, Alexander Bogdanov and Lev Vygotsky. 2017. ↑

  4. Jameson, F. 『時間の種子』.北京:中国人民大学出版社.2015. 以下の関連する引用もすべてこの書物からのものであり、個別には記さない。 ↑

  5. これは教条的なマルクス主義者を不安にさせることは間違いない議論だが、逆にジジェクの耐えがたい傲慢へと導くこともできる。「剥き出しの生」それ自体は問題ではなく、唯一の問題は、資本主義世界がそれらを取り込もうとするときに露呈する矛盾なのだ。Žižek, S. “Nomadic//Proletarians”. The Philosophical Salon. 2019. ↑

  6. アニメーションと現実、あるいは高畑勲のリアリズムの座標. ↑

  7. Lamarre, T. The Anime Ecology: A Genealogy of Television, Animation, and Game Media. Minneapolis: University of Minnesota Press. 2018. ↑

  8. Sloterdijk, P. Spheres(第1巻).Wieland Hoban 訳.Cambridge: MIT Press. 2011. ↑

  9. Kafka, F. 『カフカ全集』.河北:河北教育出版社.1996. 日訳は青空文庫の『家長の心配』も参照できる。 ↑

  10. かぐや姫とアンティゴネーのあいだの類似性は、私たちをある種の「フェミニズム的」読解へ誘う。しかしこの読解は、最大限慎重な仕方で展開されなければならない。「すべてを犠牲にした/しかし犠牲そのものは犠牲にしなかった」の背後には、美学によって無害化を遂行する一式の仕組みがある。Žižek, S. Antigone. London: Bloomsbury. 2016. ↑

  11. Lebovic, N. The Philosophy of Life and Death: Ludwig Klages and the Rise of a Nazi Biopolitics. New York: Palgrave Macmillan. 2013. 以下の関連する引用もすべてこの書物からのものであり、個別には記さない。 ↑

  12. Santner, E. L. My Own Private Germany: Daniel Paul Schreber’s Secret History of Modernity. New Jersey: Princeton University Press. 1996. ↑

  13. アニメーションと現実、あるいは高畑勲のリアリズムの座標。ベルクソン自身も生の哲学者であった。クラーゲスと同じく、彼もバッハオーフェンの著作から多くの議論を吸収し、クラーゲスの思想に深い影響を与えた。クラーゲス以前には、ベルクソンの生の哲学における重要性はディルタイ(Wilhelm Dilthey)に劣らなかった。 ↑

  14. Žižek, S. The Thing from Inner Space. ↑

  15. Crary, J. 『24/7――後期資本主義と睡眠の終焉』.北京:中信出版社.2015. ↑

  16. Wolfgang Schivelbusch. Disenchanted Night: The Industrialization of Light in the Nineteenth Century. Angela Davies 訳.Berkeley, CA: University of California Press. 1988. ↑

  17. Rabinbach, A. The Human Motor: Energy, Fatigue, and the Origins of Modernity. Berkeley: University of California Press. 1992. ↑

  18. Lamarre, T. The Anime Machine: A Media Theory of Animation. Minneapolis: University of Minnesota Press. 2009. The Anime Ecology の序文にも収録。 ↑

  19. 宮崎駿の危険と無邪気. ↑

  20. 鈴木敏夫「四十五歳の新人監督」近藤喜文が泣いた夜.『ジブリの教科書』(G-1-9).文春ジブリ文庫.2015. ↑

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