
新月魔法学校の見習い魔法使い。
前書き:何か月もたって、あのからかうような「アノサ」の響きを再び耳にしたとき、小Aはきっと、『女子高生の無駄づかい』のPVが公開された、あの遠い夜を思い出すだろう。検索エンジンを片っ端から使っても、中国語のネットにはなんと中国語字幕版が一つも見つからなかった、あの夜を。当時の女子無駄のPVは、声優の顔ぶれで目を引く動画だった。ワセダの問題発言が耳にこだまして、なんともいたたまれない。そのまま再生していくと、脈絡もなく本編の断片が続く。どこを切り取っても、まあそこそこという程度で、いかにも七月らしいコメディを、あれもこれもと思い出させるものだった。
そう、この数年、七月はほとんど決まって「不作クール」「コメディ頼み」といった言葉と結びつけられてきた。それでも夏アニメには、七月の熱気の中でふと涼しい風や木陰に出会うように、焦りと無力感のただ中、小さなところで息をつかせてくれるものがある。何もかもが黙り込んだような中で、痛快さに出会えるのだ。去年の今ごろなら、それは『あそびあそばせ』の、火鍋のスープを飲み干したように喉を焼く、荒々しく痛快な刺激だったかもしれない。あるいは、いささか看板倒れではあったにせよ、際限なく期待させてくれた『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』だったかもしれない。『ハイスコアガール』のぎこちない3Dの奥にあった、涙が出るほどの懐かしさと淡い恋だったかもしれない……。
そしてこの七月、私にとってその役目を担ったのが『女子高生の無駄づかい』だった。コメディの衣をまとい、笑いの勢いも、共感させてくれるところも、文句なしのホームラン。そのうえ、笑いの合間には現実が顔を出し、断片的につながる物語の歯車が回り出すたび、何かが一歩先へ進む。キャラ設定や人間関係にはずいぶん属性を盛ったなと思いつつ、つい「早く、もっと見せてくれ(GKD、GDD)」と言いたくなる。この作品の笑いと涙は、気が滅入り、悲しく、神経のすり減るようなクールに、確かに笑顔をもたらしてくれた。とうに過ぎ去った高校時代の、いろいろな人たちと記憶の味わいも一緒に。
あの手この手で笑いを生む
女子無駄を一言で表すなら、たぶん「多彩」だろう。主な舞台はずっと桜高~~(なんでこんなに桜高ばっかりなんだ。この略称じゃ紛らわしいだろ)~~なのに、全12話を通して、笑いを作る展開や仕掛けが繰り返しになり、出だしをピークに失速するということがない。きちんとした筋立てのある作品も、シリアスな物語として受け止められるアニメさえも、型から抜いたように同じことを機械的に繰り返している。絵柄と名前を除けば、違いは型抜きがうまいかどうかしかない。そんな今、この一点だけでも、見続けたくなる大きな理由になる。(ある意味、出だしではほぼ知名度もなく、宣伝もなかった作品が、今期のbilibiliで視聴登録者数4位にまで上り詰めた理由もここにある。)
『あそびあそばせ』の衝撃的な芝居と、危ない境界線すれすれを走り回る「問題」発言に比べると、女子無駄の笑いは少し違う。バカこと田中の描き方には、特にロリの個人回など、ぶっ飛んでいてつかみどころがなく、わざとバカをやらせているようにさえ見えるところがある。だが、ほかのキャラで笑わせるときは、そこまで直接的なインパクトに頼っていない。むしろ、中国の寸劇〈小品〉や漫才のように、せりふのやり取りにフリを仕込み、オチで笑わせる話芸の仕組みを使っている。

たとえば第7話、ヤマイの個人回に出てくるガスマスクの呪いだ。制作側は、マジョの魔力が実際にどれほど効くのかをここでは伏せ、観客には肝心なところが分からないまま話を進める。同時に、前半では田中の理屈の通じなさを使う。キャラ設定に根ざしたその理不尽さで話を動かし、フリを仕込む場面でも、筋道より突飛さが前に出るようにする。そうして観客の目を、あの脱線コンビの魂レベルの息の合い方へ向け、そこで笑わせるのだ。そして後半、呪いのネタを回収する段になっても、笑いが爆発するのは、顔出し看板から頭が抜けなくなる呪いが、次々と的中するところではない。顔出し看板をめぐる一連の出来事の中にある、妙に身近な感じのする自撮り、記憶と共感を呼び起こす拍手、そして大まじめに学校の歴史を語っているのに歌詞はどこもかしこもどうかしている校歌なのだ。
あの勢いのある笑いが一通り終わってから、マジョの言っていた呪いや、マスクを使った人と、後で看板にはまる人とのつながりを思い返す。そこには、ヒッチコック的な映画のように、観客自身の想像から恐怖を生み出す効果がある。一話全体にさりげなく伏線を通す、中国の文章作法でいう「草蛇灰線」の手法もある。その両方が、この回の笑いを豊かにし、後から何度も味わえる余韻を残している。


画像内の日本語歌詞は「さいのたま たま たま たま」。上の中国語も、この繰り返しを表している。
第一印象では「夏限定のおバカアニメ」に見えた作品が、こんなふうにさまざまなやり方で笑わせてくる。笑いのネタの選び方に、流派ごとの「おかしさ」やコメディの捉え方が表れている、というだけではない。展開の余地がそう広いわけではないこの日常漫才も、12話を通して飽きさせない。笑いの勢いには波があっても、次に何が出るか分からず、工夫が尽きる気配もない。そのたびに、また期待させられるのだ。(たとえば、少しまじめで無難な最終回でさえ、最後のEDの途切れ方にはやはり面白みがあった。)面白いものの乏しいこの夏にも、まだ楽しみの余地はあった。
ちょっと「空気を壊す」ものを割り込ませよう
笑わせることを目的にした作品なのだから、面白さは当然欠かせない。ただ、笑いは真空の中で生まれるものではないし、現実と切り離された、みっともない姿や小ネタだけが笑いを生むわけでもない。風刺劇を持ち出すまでもなく、コメディは生活と、現実と、切っても切れない関係にある。だが女子無駄では、普通なら観客の共感を誘い、ネタの源となる現実が、それ自体で重みを持ち、作品の一部になっている。
この作品と現実とのつながりは、そもそも漫画の出発点が、実在する低所得Pの宣伝だったことにもある。第11話でボカロ曲2曲のカバーが流れると、低所得PのTwitterのフォロワー数は一瞬で倍になった。だがそれだけではない。作品の中でも、雰囲気にそぐわなくなることをいとわず、笑いを挟める場面をいくつもいくつも手放してまで、登場人物が抱える現実の問題に大まじめに向き合い、解決しようとするところがある。

物語の本筋が比較的強く出た第10・11・12話を振り返ってみよう。この3話では、ほかの回に比べ、ネタの密度も笑いの比重も大幅に抑えられていたのは間違いない。ヤマイ回にはぶっ飛んだギャグがぎっしり詰まっていたし、第8・9話はタイトルからしてキャラの魅力を売り、「ああ、萌え死ぬ」を第一の生産力にする構えだった。一方、最後の3話にある、三人組の関係の始まり、ヲタとワセダの運命の再会、養豚場の話には、もともと笑いにできるところがいくらでもある。そもそも謎解きだって、コメディではよく使う対立やすれ違いの仕掛けなのだから。
それでも原作者と制作陣が選んだのは、作品の趣旨にはいちばんそぐわないかもしれない、まじめな展開だった。(アニメで三人組の再会を描く際には、スーパーの試食コーナーという少し妙な場所まで、もっと普通の場所に変えている。)これは、普段ならボケとツッコミで高速走行している車の流れに、あまりにもまともで、感傷的ですらある低速バスを何台も割り込ませるようなものだ。想定する観客の期待をあまりに顧みないから、唐突で、ちぐはぐで、下手をすれば大事故にもなりかねない。(実際、終盤の評判を見るかぎり、観客との間でところどころ接触事故は起きていた。思い切りがよく、私には実にしっくりきた第11話でさえそうだ。作者自身の体験という強力な後押しもあったのに、雰囲気に合わなさすぎる、といった声をあちこちで見かけた。)

私にとっては、確かにぶつかる音は少々やかましい。でも、ここは命の懸かった高速道路ではない。どちらかといえば、遊園地のバンパーカーだ。この衝突がなくなれば、似たタイプの多くの作品とは違う、現実としっくり結びついた感じも大きく失われるだろう。現実の境遇の中で答えを求める――ask for an answer――あの手応えや切実さも。
第10話では、三人組が幼いころに出会い、離れ、再会した経緯が、今との対比で笑いを生むネタにされている。だが、描かれる出来事そのものは、楽しいばかりのものとはとても言えない。成長するなかで避けられない別れ、成績によって分断されるつながり、小さな仲間集団が生む孤立や排除、そして向き合わなければならない大事な選択が、そこでは正面から取り上げられている。このくだりでは、田中が珍しく大まじめになる。(ほかにまじめになるところも、大抵は回想の中だった気がする。この両生類、ちょっとひどくないか!)それに、自分の人生は自分で決めるというロボの意志が重なる。ずいぶん意志の力に頼っていて、中二っぽくはある。それでも、現実にある厄介な問題に対して、いつも当てになるわけではないにせよ、ちゃんと解決への道筋を示してくれる。ギャグ漫画の自由さにかこつけて、適当に流してしまうのではなく。(このくだりの直接の目的は、やはり対比を作ることなのだけれど。)

第11話も同じだ。こちらは徹底して少女漫画のような展開になっている。(ただ、今の中国語訳の進み具合では、この一話に組み込まれた原作の何話かのうち、中国語で読めるのは出発点に当たる第13話だけだ。ワセダが、ヲタのネット名であるAkaneの正体は女子高生ではないかと漠然と予感する、アニメのこの回で最初に笑えるくだりがそこにある。)互いの正体を知らない状況は、笑いの種だらけだ。だがアニメはそこを膨らませるよりも、ネット時代ならではの、オタクっぽさを帯びた憧れに正面から向き合う。ヲタが伝えた思いに、紆余曲折を経てワセダが応え、それが生きる力になっていく。正体をめぐる思い違いをオチに使い、互いにはぐらかして話を引き延ばし、気まずさを大笑いに変える。そういうよくあるやり方に比べれば、こちらの展開は、むしろこの作品にあまり似つかわしくないのかもしれない。
だが、ヲタこと茜は胸をどきどきさせながらも、勇気を出してネット越しのやり取りから一歩踏み出し、大胆に、熱く慕う気持ちを伝えようとする。ワセダも少し背中を押されると、正体を隠すのをやめて応えようとする。そしてその返事が、最後の2話では未来と夢への答えになっていく。そんな流れを見せられると、「なんてまっとうなコメディなんだ!」と言わずにはいられない。


作品のさまざまな要素に混ざり込んだ、この大まじめさとまっとうさが、笑いに確かに奥行きを与えている。だからこの作品への愛着も、ただ話芸が好きだという気持ちにとどまらない。「これも、誰かの生活なんだな」といった感慨とともに、少ししゃんとするような、そんな感じなのだろう……。
おなじみの要素でも、おいしければ問題ないよね
オタクに媚びる、なんて言い方も今さら新しくない。アニメ・漫画・ゲーム・ライトノベルの業界では、女性キャラの特徴はもう出し尽くされたかのようで、流れ作業で加工したようなキャラ設定が大量にできている。顔に眼帯や絆創膏があれば中二病、不良娘ならギャップとして純情で恥ずかしがり、といったお決まりの型だ。女子無駄にも、その手の要素を見つけたときの既視感は、確かに強すぎるくらいある。中二病の負けヒロイン(違う)の金髪設定、笑わないキャラとオーディオテクニカのヘッドホンの切っても切れない関係、小柄なロリキャラの、ツンとしていても根は優しいところ……。正直、作者のインタビューを読む前は、市場の好みを狙い撃ちして作ったキャラ設定なんじゃないかと本気で思っていた。(だからこそ、ロボ以外の登場人物には多かれ少なかれ自分の一部が入っているとインタビューで知ったときは、ビーノ先生が一時、現実に現れた漫画を描く魔法少女みたいに見えたのだけれど(逃)。)
キャラの属性は、そのままあだ名になっていて、本名がほとんど覚えられないほどあからさまだ。それだけでなく、話の中にもお約束の要素がいろいろある。たとえば、無限カップリング製造機のマジメを中心にした数々の百合営業。あるいは、田中の突拍子もない行動を使ってキャラ同士を引き合わせる、いつもの手口。バカ以外のほぼ全員にあふれんばかりに抱いている好意をいったん脇へ置けば、やはりこういう定型を少し盛りすぎでは、とも思う。
でも、見出しにも書いたとおり、アニメを見るとき、キャラへの愛を抑える必要なんてあるのか?(直球……。)定型的な発想のキャラ設定や、要素を盛り込んだ話であっても、自分と同じようにベッドでだらだらするヲタを見るたび、いつでもイケメン感と彼氏力がにじみ出ているマジメを見るたび、百合成分でそのつどお腹いっぱいになっているリリィを見るたび、あっという間に、実に効率よく顔はニヤけ、手足までじたばたしてしまうのだ(草)。見た目も中身も面白くて、好みと共感のど真ん中を射抜いてくるキャラは、多ければ多いほどいい(理性を失って爆笑中)。

中国語字幕は、やっと、やっと会える、という意味。
もちろん、ここで理性を取り戻して分析(という名の言い訳)に戻るなら、こうした要素には、好かれること以上の働きもある。(好かれること自体、簡単だとは思わない。本作の田中だって、後の各話で評価を上げていなければ、評判はもう救いようがなかったかもしれない。ムダムダだ。)作者の使い方は、少なくとも、属性ありきで話を動かすものではない。筋の通った論理で話を組み立て、その話の中に属性を織り込んでいる。(これは基礎ではあっても、要素の強さが勝敗を決める今では、当たり前にできていることではない。筋もへったくれもなく百合営業だけをする作品もあるし、それ自体がネットのネタになったりもする。)
本作では、たいていの作品ならフィギュアというプラスチックの人形を売るための下準備になる水着回でさえ、ホラー映画のように先の読めない不安を仕掛けてくる。もともとお約束の要素を見せるためにあるような回が、後からじわじわ効いてくるものになるのだ。それまでの各話の百合要素も、かなり密度は高いが、基本的には、さんぺい聖監督が語っていたように、描き方を抑えている。(もっとも、制作会社のパッショーネがその前に手がけたのは、百合要素過多の『citrus』。さっきの悪口も、まさにこの作品に向けたものなのだけれど。)友情や短いエピソードの合間に百合要素を挟みつつ、ちょっと照れる程度にとどめている。そうして、話の中で行きすぎないように描くから、不快にはならない。(私の許容範囲が広がっただけかもしれないが。笑。)

また、いろいろな要素で作られたキャラ設定の中にも、固定観念を裏切る部分があって、お決まりのままでは終わらない。たとえば、まさに作者の愛娘というべきヲタ。低所得Pが新曲を投稿したときの、心のパンツまで見せてしまうようなオタク特有の興奮や、Instagramやpixivでひたすら「いいね」を押す姿には、もちろん強く自分を重ねてしまう。ところが、そのヲタは、作中でいちばん服装のバリエーションが多いかもしれないキャラでもあり、制服を勝手にアレンジするなど、ずいぶんリア充っぽいところもある。アニメも、オタク女子という属性を使う多くの作品のように、ヲタに陰気な裏の顔をくっつけてはいない。むしろ、温かさや、何かを楽しみにする気持ちがちゃんと伝わってくる。要素を積み重ねるだけなら、固定観念の再放送にもなりうる。だが女子無駄は、そうした属性を持つキャラの多くを、お決まりの人物像から少しずらして描いている。そのおかげで、このおいしさには型にはまらない、温もりのある魅力が加わっているのだ。
流れる、止まる? 無駄にする、前へ進む? 青春の日常!
初めてこの作品のタイトルを見たとき、まず思い浮かんだのは、『けいおん!』ののんびりとお茶を飲んでおしゃべりする感じと、『男子高校生の日常』の寒い冗談めいた味わいを、いくらか混ぜたようなものだった。だがアニメを最後まで見た今、私には、単なるギャグアニメというより、あまり評判のよくない青春劇とも、思っていたよりずっと深いつながりのある作品に思える。
少なくともアニメを見るかぎり、絶え間なく続く笑いの中で、作品は青春期のさまざまな問題を扱っている。友情と現実の関係。子供と大人の間にいて、自分が何者なのか曖昧なことに、どう向き合うか。誰かを慕う思いをどう受け止めるか。そして、未来や夢をどう実感するか。どれも、まさしく青春文学の定番の話題である。
たとえばロリは、成長期を共に過ごす家族が祖母しかいない。両親から送られてくる子供服も、ある意味では、彼女の自己像が子供のまま止まっていることと呼応している。個人回で不良ぶることや、化粧の回で「大人の女性」に憧れることは、そこから変わっていく過程なのだ。

もちろん、こうした問題の扱い方や、桜高という舞台設定が描き出すのは、作品全体の陽気な空気にふさわしい、ユートピア的な高校生活であり青春だ。この作品には悪人がいないだけでなく、暗い面すらなく、あるのは絵を彩る飾りにもなるような、愛すべき欠点だけだと言ってもいい。(これも、ビーノ先生自身の後ろ向きな考え方を裏返した願いなのかもしれない。)それでも、この理想的な条件の中、タイトルからして何もせず日々を過ごすように思えるのに、作品の青春はただ止まっているわけでも、『生徒会役員共』の桜才学園のように同じところを巡っているわけでもない。(ぶっちゃけ、マジョには本当に魔法が使えるという設定があるのだから、時空が螺旋を描くようなことをやっても、桜才よりずっと筋が通ると思う。)むしろ、弁証法の基本法則でいう「運動は絶対的であり、静止は相対的である」のと同じように、変わらないように見える日々も動き続けている。
アニメの時間は、高校1年生の一年間を通り過ぎていった。第11話の終わり、クリスマスの夜に「little bunny」が流れ、ヲタが涙で目を潤ませた後も、変わらないのは、田中が相変わらず正真正銘のバカであること。変わらないのは、ロリが相変わらず、とてもとても素直ないい子であること。その一方で、マジメのクローゼットは男物ばかりで、まるで中国の紳士服ブランド〈海澜之家〉。普通の女の子らしくするにはどうすればいいのか分からず迷っていたこのイケメンも、第9話を経て浴衣を着た。(正直、原作の設定を考えると、マジメは本当に残念すぎる。)第2話では少し漫画を描いただけでだらだらモードに入っていたヲタも、小学校のプロフィール帳に書いた漫画家になりたいという夢を、本当の意志と行動する力に変え始めた。この変わらなさと変化こそが、いわゆる「青春」なのだろう。EDのように、変わらないのはキラキラ、変わっていくのは周りの何もかも。

タイトルの「ムダ」は、あまりにも目立つ。人生から見れば、私たちが費やしてきた時間や、経験してきたことの多くは、ただ無意味なのかもしれない。それでも、理由もなく響く、録音めいたお決まりの笑い声に包まれながら、すべては巡り、変わり続けていく。その無駄な時間にある笑いと、現実を見定めたうえでの前向きさこそが、こうして日々を無駄に過ごすことの価値であり、効用なのだろう。
春がぜんぶ連れ去ってしまう。
――ED「青春のリバーブ」(作詞:Agasa.K)より
コメディは、重たいことを語るのにはあまり向いていないのかもしれない。青春だって、もちろん決まった形などない。それでも、笑った後に残るあの共鳴、青春を傍らから眺める者の羨ましさ、感動の後でつい立ててしまう役にも立たない誓い。そうしたものも、退屈で味気なく、つらい夏から私を救ってくれたこの作品が、さらにくれたおまけなのだろう。