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祟るもの、あるいは都市伝説をめぐる諸概念

hephaestus が民俗学、流言研究、伝播の仕組みを手がかりに、都市伝説、伝統的な伝説、流言のあいだで絶えず動く境界をたどる。

著者: Hephaestus翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文レビュー: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

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詩と思索を大いに語る前に、驚きと畏敬こそが、ある種の物事の始まりなのだと覚えておこう。

「都市・空間」というテーマを目にしたとき、私はちょうど内田忠賢の報告「江戸の妖怪と都市空間」を読んでいた。伝統的な怪談文学そのものは、都市生活のなかでもさほど大きく変わっていないように思える。そして、個々の妖怪よりも、都市伝説を考察するほうが、現代の都市生活に近づけるのかもしれない。

『都市民俗生活誌文献目録』の赤い表紙
内田忠賢編『都市民俗生活誌文献目録』(都市民俗基本論文集・別冊2、岩田書院)。

イタリアに隠棲するどこかのフランス人が、自分の戦友は時間を止められるのだと世界中に知らせたのかもしれない。では、黒灰色の帽子をかぶった死神の、さまざまな噂を広めているのは誰だろう? 『Heroes of Might and Magic』や『The Elder Scrolls』に出てくる物知りの酒場の主人にも、そんな余計なことにかまける余力はあるまい。伝説は、友達の友達が実際に体験した話を教え合う人々の口から口へと伝わり、誰かが通勤途中にたまたま出くわした奇妙な出来事として街角の立ち話で語られ、真夜中の寮で怖い話をどううまく語ろうかと頭をひねる学生の頭のなかを巡る。エレベーターの重量超過や、人をさらって身体の一部を切り取るという「采生折割」の噂を話しているとき、怖い話と都市伝説の違いを意識する人は少ない。KFCの六本脚の鶏の噂や、首がなくても死なない鶏の伝説を語るのに、デマと都市伝説を区別する必要もない。rumor(噂)、legend(伝説)、urban legend/urban myth(都市伝説)、contemporary legend(現代伝説)を区別したり、gossip(噂話)、rumor(流言)、folklore(民俗伝承)、「噂話」「絵空言」の語源や変遷を考察したりすることは、この記事のそもそもの狙いには役立たない。ここではただ、私たちがいわゆる「都市伝説」として思い描くものに関わる事柄を、できるかぎり広く概観したい。

研究者が、都市伝説を主題に掲げた論文で、何の説明もなく妖怪や化け物、幽霊の話を延々と始めたら、読者も眉をひそめずにはいられないだろう。だが、小泉八雲の『怪談』やカルヴィーノが集めた『怪奇物語』から一篇の筋を取り出して少し手を加えれば、それも見事な都市伝説としてネットに広まるかもしれない。たとえば張震の「魂を奪うカメラ」と、エドガー・アラン・ポーの名作「黒猫」の関係のように。だとすれば、志怪小説や妖怪文学に代表される伝統的な伝説と、スレンダーマンのようにマスメディアを通じて次第に知られるようになったイメージとを隔てる線は、民俗学者や社会学者、メディア研究者が言葉尻をあげつらう遊びにすぎないのだろうか。こうした概念は区別すべきなのか。すべきだとして、どの水準で区別するべきなのか。

19世紀から20世紀への変わり目にチャールズ・ホイ・フォートが行った超自然現象の資料収集は、後のUMA、UFO文化や都市で語られる陰謀論に確かな土台を与えた。だが、リチャード・ドーソンやウィリアム・エジャートンが切り開いた、現代伝説をめぐる民俗研究との直接の関わりはさほど大きくない。もちろん、災厄をもたらすモスマンのような話を都市伝説のテクストとして扱えないと言っているのではない。ただ私個人としては、神秘主義と博物学を混ぜ合わせたこのアプローチは、いささか伝統的すぎるように思う。ブルンヴァンがまとめたように、都市伝説は、語り継がれるうちに形を変えることなど、伝統的な民俗伝説と多くの特徴を共有する。この点には同意するが、だからといって都市伝説は伝統的なモチーフ(話を構成する要素)の焼き直しと定番の筋の組み合わせにすぎない、と断言するのはあまりに乱暴だ。

たしかに、よく知られた都市伝説の話型に表れる社会心理には、伝統的な伝説にも簡単に対応するものが見つかる。たとえば、生まれたばかりの赤ん坊が口をきいて疫病を防ぐ方法を教える、あの有名な都市伝説と、寛政年間に鼠が薬をくわえて恩返しに来る話は、どちらも疫病の流行するなかで人々が思い描いたものだ。アラン・ダンデスが精神分析や構造主義の視点を取るというだけの理由で、ブラッディ・メアリー伝説が広まる要因についての彼の分析の妥当性を否定するつもりは、もちろんない。思春期の女性が性的成熟に抱く複雑な感情、という分析である(女性が最も美しい年頃にその命を終わらせるブギーポップの伝説も、こんなふうに広まったのだろうか?)。とはいえ、鉤のイメージをファルス(男根)に結びつけようとすることも、都市伝説研究者の大半が目指す方向や用いる方法ではない。(もっとも、『民俗解析』の「ウサギ飼い」の話型を扱った一篇で、鼻の大きな人を助けるくだりに、広く流布する鼻の「男根の隠喩」を持ち込んでいるのは、なかなか面白い。)

ここまで私は、1960年代以降の研究者による都市伝説の具体的な定義を、まだ一つも挙げていない。客観的に見れば、「〔原資料に欠落〕」も「〔欠落〕」も、あるいはもっと複雑で詳しい定義も、異なる概念の範囲に属する「〔欠落〕」をすべて包含するのは難しい。この記事のように広く捉えるなら、恐怖を含む伝説(噂/書き込み/デマ)や、あえてその裏をかくユーモラスな反伝説をいったん除いても、単なる有名人の逸話、もっともらしい噂や荒唐無稽な噂まで「都市伝説」に含められる。(たとえば、菓子のレシピに法外な値段がついていた、あの有名な伝説。実際、SNSでは、恋のアバンチュールや、怖くも奇妙でもない出来事を指して都市伝説と言うこともある。厳密さを少し脇に置けば、牛乳が19世紀前半、街頭で売り歩いても見向きもされないバターの副産物から、何にでも効く健康飲料へと変わっていった過程にも、科学、広告、工場主が織りなす都市伝説めいた伝播が伴っていた、とさえ考えられる。)

「都市伝説は、現実の生活で起きた出来事に基づいているのか」。ブルンヴァンらの研究者によるこの問いの探究は、順調には進まなかった。異伝が広まる範囲はあまりに広く、細部の違いは大きく、語り継がれる時間も長い。テクストを集める研究者にとって、現実に原型があるのかどうかを突き止めるのは難しい。一方、私たちの視野は、1980年代末にこの種の話題に取り組み始めた大塚英志や、それ以前の専門家たちの視野よりも広がっている(1988年には世界都市伝説研究会が結成され、『消えるヒッチハイカー』も日本語に訳されたばかりだった)。都市伝説研究は「世間話」(噂話や流言)も、噂――デマや流言を含む――も排除しない。この種の都市伝説は、それ自体が「確かめられていない」という性質ゆえに、虚実のあいだにある。もちろん、人面犬は石丸元章の創作だ、下水道にワニはいない、台湾省のあるブランドの菓子を食べても物事がうまくいくようにはならない、と反論することはできる。だが、軽薄な若者が氷でいっぱいの浴槽で目を覚ます話や、棺桶の形をした「小さな贈り物」を受け取る話について、いつ、どこで起きたのかを突き止めることに、何の意味があるのか? こうした都市伝説の「真実性」をめぐる探究は、次第に、より具体的に取り組みやすい「信憑性」の分析へと変わっていった。つまり、語り、聴く(読む)という伝播の過程で、都市伝説はなぜ信じられるのか。その伝播は、信じられることに依存しているのか。(事実に基づくか――truth――から、信じられうるか――belief――の分析へ。)

青い建物を背景に、白い服と紫のスカートの金髪の人物が手すりに腰かけている

都市伝説、デマ、流言の三つが並べて論じられるようになったのは、主に1970年代以降だ。1969年、エドガール・モランが、オルレアンのユダヤ人商人が試着室で女性を誘拐しているという噂の調査を刊行したときには、まだ自らの調査対象を「現代の神話」と呼んでいた。ブルンヴァンの『アメリカ民俗学概論』は、三者の共通点として、少なくとも一つの出来事を含むこと、形式の自由さ、話をもっともらしくする合理化、土地に合わせる地域化を挙げている。ゲイル・ド・ヴォスが青少年の集団を出発点として書いた1996年の『物語・流言・噂話』(Tales, Rumors, and Gossip: Exploring Contemporary Folk Literature in Grades 7-12)は、特徴、内容、形式、伝播の方法という各水準で、三者の違いと共通点を検討した。だが、同書の著者も率直に認め、私たちも先ほど述べたように、語り手に三つのジャンルを自覚的に区別するよう求めるのは現実的ではない。人々はそれを伝える過程でも、ほとんど区別しない。(『空の境界』の大輔と幹也の叔父・甥コンビが、礼園女学院や殺人鬼の噂を話し始める前に、一つひとつの情報が流言なのかデマなのかを分類するところを想像してみよう。)伝統的な伝説、都市伝説、噂が、互いに姿を変えうることを扱う研究も、なかなか面白い。ある都市伝説から暗い語り口が消え、猟奇的な要素が薄れていけば、それはある意味で、民俗学者が伝統的な伝説として認めるものになりうる(あるいは、普通の民話に近いものになる)。また、噂がさまざまな語り手によって口伝えにされるうちに手を加えられ、一世を風靡する定番の都市伝説になることもある。

いま述べたように、都市伝説というジャンルは、デマや流言と比べて「語り口」が暗い。中国のある研究者は「都市伝説は都市生活の鬱屈を吐き出す下水道だ」とさえ言い切っている。ほとんどの人も直感的には、都市伝説という言葉を聞いた時点で、これから語られる話には猟奇的な色合いがあるのだろうと思うはずだ。一方では、デマと互いに行き来しうることから、都市伝説はたしかに、比較的暗く極端な口調で、ある種の不安、恐怖、道徳的訓戒を表す。他方では、伝統的な怪談や怪奇物語の定番の筋を数多く取り込み、作り変えてきた。そして何より、ほどよく猟奇趣味をくすぐることは、口伝えであれ、もっと現代的なメディアであれ、話の流行にきわめて有利に働く。これは現実が幾度となく証明してきたことだ。(都市伝説による怪談の取り込みについては、冒頭で引いたブギーポップの例がある。顔のないものに出くわすという、中国の怪談ではよくあるくだりは、小泉八雲の「むじな」にも見られる。月ノ美兎の百物語配信のアーカイブを見てみよう。寄せられた話には、既存の怪談に対応する筋を見つけられるものが無数にある。)

都市伝説の分類法も、大筋では、民俗学で用いられるモチーフと話型による分類の範囲を出ない。同じ伝説の異伝が地域ごとに形を変えていくことについては、民俗学者フォン・シドウがこの分野に導入した「地域型」(oicotype)、すなわち土地ごとに定着した型という概念が参考になる。最も有名な例は、先に挙げた、モランが調査した試着室での誘拐伝説だろう。日本で語られるものには手足を切断されるくだりが加わり、私たちが中国語のネット掲示板で読んだものでは、東南アジアに旅行に出かけた中国人の新婚夫婦の悲惨な体験に変わっている。(もう一つ例を挙げれば、有名な都市伝説「ボーイフレンドの死」は、ヨーロッパとアメリカの異伝で犠牲者の死に方が大きく異なり、そこにはたしかに地域文化や伝統的な観念が関わっている。だが、花子さんの伝説が福島県、山形県、岩手県でそれぞれ異なること――たとえばトイレの白い手や三つ首の花子さん――には、どんな社会心理が表れているのだろうか?)

黒地に富江の白黒の横顔。左に赤い『富江』『伊藤潤二』の文字とハードコアチョコレートのロゴ
伊藤潤二『富江』の図柄。左下の「HARDCORE CHOCOLATE」はブランド名「ハードコアチョコレート」。右下に「© 伊藤潤二/朝日新聞出版」と記されている。

都市伝説に関わる民俗的な活動は、大きくオステンション(ostension)、擬似オステンション(pseudo-ostension)、伝説探訪(legend trip)に分けられる。オステンションとは、伝説を実際の行為で示すことだ。いわば、都市伝説を現実へと移す一つの道筋である。人々は都市伝説に描かれた行為を実行し、その信憑性を強める。それに対し、擬似オステンションでは、行為のなかで伝説の筋を模倣することに、より重点が置かれる。そして私たちに最もなじみ深いのは、おそらく伝説探訪だろう。ペンや皿を使う降霊遊びの「筆仙」「碟仙」、幽霊屋敷やいわくつきの家の探索などは、この類に含められる。(こうした文化的伝統は古くからある。日本の肝試しや百物語の会、中国の唐代以前や明清期の志怪小説の流行などがそうだ。)

都市伝説は、もはや伝統的な民話のように、口伝えや紙の記録にとどまらない。マスメディアとインターネットが介在することで、このジャンルはかつてない影響力を持つようになった。デマと広告の結びつき、現実の事件を伝奇的、猟奇的に報じるメディアによって、私たちはますます現実感をつかめなくなっている。その姿がますます曖昧になるダークウェブ、「親愛なるデイヴィッド」や「デイジーの赤ちゃん」、写真からモキュメンタリーへ、ゲームから映画へと広がるスレンダーマン、次の千件のファイルが織りなす雰囲気は誰にも見通せないSCP……。

シャルトルのサン・ピエール修道院のパウルスが記したオルレアンの火刑から、魂を抜き取る妖術をめぐる「叫魂」事件まで――後者では、よそから来た石工や僧侶はきっと妖術の使い手だと考えられていた。エイズ患者が針でコンドームに穴を開ける話から、東南アジアの人々はいまも邪悪な呪術「降頭」を使っているという揺るぎない確信まで。都市で人が移動することは伝説の広がりを助け、住まいを定めることは、住民がそれぞれの観念や文化的偏見を徐々に形づくることを可能にする(そこから異文化への恐怖や、見知らぬ者への排斥も生まれる)。自分の交友圏にいる誰かに語るとき、それを「友達の友達」の実体験だと言えば、話の信憑性は増す。時間、場所、文化の隔たりは、無数の変異を重ねるうちに、やがて消えていく。興に乗った都市の人々は、新たなモチーフを用いて、私たちの伝説と神話を編み続ける。

後記

ここでは一つ、共通の理解を持っておきたい。たとえば、ある人が『千変英雄』や、それに類するもっと専門的な本を読み、神話や伝奇叙事詩のある種の型や構造をひととおり知ったうえで、神話の魅力を大いに語る。それにどれほどの説得力があるのか、私たちは疑わずにはいられない。同じように、エンリルの洪水からニュー・ウィアードの小説家が描くロンドンの地下まで読み進めたとしても、体系的に考えてみようともせず、関連分野の研究成果を読もうともしないのなら、その人にできるのはせいぜい、たらふく飲み食いした後の雑談の種にすることだけではないか。そう疑わずにはいられない。

個々の怪談や伝説をそれなりによく知ること、研究者の議論を広く読むことは、もちろん基礎である。それに加え、都市伝説の生まれ方、伝わり方の特殊な仕組みは、それを論じる人に、自分が語る対象について何らかの私的な体験を持つことも求めているように思う。テクストの収集や理論の取りまとめにとどまっていてはならない。ローマ人が書き残した恐怖の十七通りの修辞を持ち出すくらいなら、地道に知の考古学に取り組んだほうがいい。だが、中世フィレンツェで出版された悪魔の辞典や年代不詳の妖怪図鑑から源流をたどるくらいなら、前世紀以来の都市伝説研究者の成果を読んだほうが、まだいい。

コメント

一只非0的O:「都市伝説」は、私がずっと論じたいと思ってきたテーマの一つだ。都市の「暗部」を、白昼の秩序を補うもの、あるいはその対立物として片づけるのはたやすい。しかし、『メトロポリス』(1927)的な論理のなかでは、暗い「地下都市」こそが都市の真理のありかだということも見えてくる。注目したいのは、この「暗部」が一方では24時間・週7日、眠ることなく続く電子監視や、夜通し点いている電灯によって、ますます包囲され、抑え込まれながら、他方ではインターネットを通じて――「ダークウェブ」を例に取ればいい――回帰していることだ。都市が自らの伝説を生み出すこと、そして都市伝説が逆に都市へと及ぼす影響を、今日の文脈でどう問い直すか。これは間違いなく、掘り下げて考察する価値のあるテーマだと思う。

南泉斩猫:本稿は、散文的な知の考古学によって、「都市伝説」という概念の連続性を止揚した。著者は、ふだんは別々に切り分けられているさまざまな種類の語りを、帰納や類推、具体例による補足を通じて、真剣な分析のなかに一つひとつ並べていく。それによって、「伝説」と市民(Bürger)との距離は広がる。この隔たりを通じて、「伝説」は、現代人の超越的な精神と思想との分離を具体的な形で示しうる存在へと昇華される……すなわち、著者が後記で述べる「語る対象についての私的な体験」である。こうして人間は、「伝説」を通じて、平凡な生のなかでは得がたく、しかも語ることのできない「生きる意味」をつかめるようになる。まさにこの次元において、「伝説」はある種の崇高な価値を与えられる。「伝説」を見つめることは、時代精神を理解することなのだ。

Jack Cade:一般に、現代生活の主な舞台である都市が形づくる文化は、ある意味で、権力の立場を正当化する戦略の現れでもある。だから、不協和音を響かせる都市怪談は、社会批判の観点から見れば、身を隠し、偽装しながら、支配的な「価値体系」に対抗し、それを破壊しようとする対抗文化のように見える。だが、その対抗性を強調する前に、都市怪談と支配的な価値体系との関係が、実際には対話的な構造を持つことに目を向けなければならない。この、闘争に見える対話は、ほかでもない、普遍的で統一されたコードを共有する二つの言説のあいだの対話なのだ。ある意味、口裂け女の野蛮さと血なまぐささは、野蛮とは相容れない。彼女は怨霊になってもなお、「美しさ」というスペクタクルに深く酔いしれている。それはむしろ、彼女が「美しさ」に限りなく忠実であることを、裏側から示している。

だから、都市伝説に対して簡単ながら系譜学的な考察を行ったことは、本稿の著者の評価すべき点だと思う。都市伝説が単なるテクストとして自律性を持つという幻想は、体系的に破壊しなければならない。怪談が陰気で謎めいた言葉として現れるのは、まさに、押さえつけられて沈黙へと戻され、周縁に追いやられた声の大半が、対話のシステムのなかに自分のふさわしい位置を直接には見いだせないからだ。それらの声は、華やかな都市からあふれ出す吐き気を催すもの、あるいはその暗い影へと堕ちるしかない。そうした形で、現実の都市を象徴界で構造化する過程を完成させるのだ(だから、怪談そのものがたちまち消費主義によって作り変えられてしまうのも、不思議ではない)。世界中の大都市で売られているご当地グッズ――たとえば「上海が大好き(❤)」というTシャツの標語が語っているのは、私たちと都市との、心からの「宮廷愛」にほかならない。

しかし同時に指摘しなければならないのは、ただこのように事例や概念を大づかみに積み重ねるだけでは、都市伝説を、社会階級間の対話の体系のなかで本来占めるべき位置へ戻すことはできない、ということだ。それどころか、すでにある周縁の言説や対抗文化を、新味もなく再確認するだけのものへと転落しかねない(何しろ民俗学もすでに有力な研究分野の一つであり、この道筋をたどっても、私たちにその研究者たち以上のことはできない)。私からの提案は、議論の範囲を絞り、一つの怪談、あるいは互いに密接に結びついた一連の怪談を対象にすることだ。大衆文化の視野のなかで、それらの怪談にあらかじめ与えられている善悪の道徳的な軸を、歴史に即して問い直す。そしてそれを手がかりに、怪談を社会的・歴史的な矛盾へと結びつけるイデオロギーの要因を、詳しく論じる。そうしてこそ、コード化された情報としての都市怪談の流通を、より有効に覆すことができる。本稿が意図したことをいっそうよく成し遂げ、薄っぺらなものに終わらせずに済むはずだ。

本文終わり

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