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私たちはどう出会ったのか――消えない感覚を手がかりに『君の名は。』を読む

セカイ系、可能世界、無意識を手がかりに、『君の名は。』の瀧と三葉がなぜ忘却を越えてなお互いを認められるのかを問う。

著者: 红茶泡海苔翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

アーカイブ付言

この『君の名は。』論は、私が批評を書いていくうえでの節目だった。おそらく私の文章のなかでもっとも広く好評を得た一本であり、初めて原稿料を得た評論でもある。前作の杉井光論で整理しきれなかった問題が、この論考ではすでに姿を現している。細かく読むと、身体交換を論じる小さな動作のところで、杉井光の作品『请记得我』の台詞を意図的に響かせ、瀧と三葉の身体交換を演じさせていることに気づくだろう。この批評は、私が批評を書くときの文体と構成の基礎にもなった。

この批評の原型は、S1フォーラムに掲載した新海誠『君の名は。』をセカイ系から考える「運命」だった。専用スレッドで同好の士が議論を重ね、S1フォーラムの利用者ハリー・シェルドンの仲介を経て、Anitamaの編集担当者・加叔のもとでこの作品が生まれた。当時Anitamaをめぐって報じられていた知らせには、深く心を痛めている。この原文リンクが404にならないことを願う。


新海誠は中国でしばしば「小清新」「文芸派」などと呼ばれ、作品は個人的な体験の表現だと見なされがちだ。しかし、実際はそうではない。新海作品はたしかに特異だが、この特徴をもつ作品はほかにも数多くある。そうした作品は、一般に「セカイ系」と呼ばれている。本稿ではセカイ系を手がかりに、誤解されやすい点を整理したうえで『君の名は。』を読み解いていく。

セカイ系とは何か

いまもっとも広く流通しているセカイ系の定義は、日本の批評家・東浩紀が示したものだ。セカイ系とは、私とあなたの小さな関係が、社会などの中間項を挟まずに、世界の終わりの危機のような大きな存在論的問題へ直接つながる想像力である。

補足しておきたい点がいくつかある。セカイ系は、必ずしも自然災害のような危機を描かなければならないわけではない。重要なのは、危機の背後に生と死のような存在論的な問題があることだ。またセカイ系は、制作者の人生経験が乏しいということでもない。社会や他者を幼稚に排除しているのではなく、平成日本の社会環境において、他者を風景のようにしか見られない状況を反映している。セカイ系では、私とあなたの関係と世界の危機が同期し、抽象的な世界の危機は、たいてい私とあなたの関係を通して象徴的に描かれる。

隕石と運命

以上の定義から、『君の名は。』における世界の危機(存在論的な問題)とは何かを考えてみよう。多くの人は直感的に「隕石災害」だと思うかもしれない。しかし、この隕石による被害は、「世界の危機」と呼ぶには規模が小さすぎる。隕石が糸守町全体を破壊したときも、作品のほかの地域――たとえば中学生の瀧が暮らす東京――にとっては、美しい天文現象にすぎない。そこには危機感も破滅の感触もなく、この時代を生きる私たちにとっての幸運とさえ映る。もちろん、隕石が作品の重要な要素であることも、東日本大震災とのつながりも否定しない。だが『君の名は。』の核心的な危機は、「隕石が糸守町を滅ぼした」ことではない――もしそれだけなら、隕石は一つあれば十分だ――。地表近くで二つに割れたあの隕石のように、「隕石によって、愛し合う二人が、永遠に出会えない二つの時間に引き裂かれてしまった」ことなのだ。

身体交換の要素

セカイ系は、しばしば物語の型だと誤解される。しかし実際には、セカイ系とは想像力のことである。たとえば『君の名は。』では、地方の風習も東京の喧騒もきわめて細かく描かれている。社会描写を排除しているなどと、どうして言えるだろう。ここでいう排除とは、作品から社会描写を消すことではない。私とあなたの関係と存在論的な問題のあいだで、「社会/他者」が媒介として機能しなくなることを指している。『君の名は。』の前半で際立つ身体交換の設定は、まさにその特徴を示している。身体交換から始まる「私とあなたの関係」、つまり恋愛の特徴は、他者(社会)を徹底的に排除していることだ。

「会えばぜったい、すぐに分かる。私に入っていたのは、君なんだって。」

角川文庫版(新海誠『小説 君の名は。』、2016年)の本文から、論点に関わる部分だけを引いた。原文に添えられた中国語訳は、二人が互いの内側にいるという意味を説明している。

君のなかにいるのは私で、私のなかにいるのは君。三葉と瀧の感情は、まさにこの引用のように、他者(社会)を完全に排除したものだ。身体交換という要素は、それを表現するための道具なのだ。新海誠の作品は、人と人との距離を描いているとよく言われる。しかし、その言い方は正確ではない。作品ではいつも物理的な距離が二人を隔てるが、物理的距離は、二人を内面で結びつける力にはほとんど影響しない。核心にあるのは、むしろ、相手の精神を自分の内側に感じるような「距離のなさ」である。黄昏時が訪れる前、三葉と瀧は物理的には埋めがたい距離に隔てられている。それでも、相手が確かに目の前にいると感じる。「たとえあなたがこの世界にいなくても、私にはあなたがそばにいると感じられる」という描写こそ、きわめてセカイ系的な描写なのだ。

セカイ系の無力感

セカイ系の作品には、しばしば無力感が満ちている。世界の運命と危機を背負うのは、たいていヒロインだ。男性主人公にできるのは、ヒロインの精神を支えることだけである場合が多く、二人の結末を最終的に決めるのは、ヒロインと世界の側なのだ。『ほしのこえ』や『雲のむこう、約束の場所』では、そのことがはっきり表れている。しかし今回の『君の名は。』では、この無力感が大幅に和らげられている。その理由の一つが身体交換だ。瀧が、自分の力だけでは三葉の父を説得できないと悟ったときに感じるはずの無力感は、瀧が三葉の姿で動くため、観客にはその努力の手応えが見える。そのため、無力感は和らぐ。瀧の努力は、身体交換を通して三葉の努力へと変換される。村民を避難させる計画の前半は、三葉の身体に入った瀧が準備し、後半の最後には、もっとも重要な町長の説得を三葉自身が担う。この配置は、主人公という立場が観客にもたらす無力感を、巧みに和らげている。

運命の不可能性

身体交換という要素自体は、決して珍しくない。しかし『君の名は。』では、一見すると日常の笑いのためだけにあるようなこの要素が、極限まで掘り下げられている。別の角度から考えてみよう。新海誠の劇場デビュー作『ほしのこえ』が、『最終兵器彼女』『イリヤの空、UFOの夏』とともに東浩紀からセカイ系の代表三作に挙げられたことは知られている。だが、新海誠がなぜセカイ系へ向かう道を選んだのかは、これまでほとんど問われてこなかった。

別の見方も参照してみよう。9月初め、セカイ系の定義を提示した東浩紀は、『君の名は。』を見たあと、Twitterで次のように述べたと記事は紹介している。以下は本人の日本語原投稿ではなく、記事が中国語で再録した発言の意味を示す要約である。

【記事による日本語要約】あの作品は「運命の相手と結ばれる話」ではなく、なぜ人が自分には運命の相手がいると思うのかを語る作品だ。その読みの背景に「ゲーム的リアリズム」があるが、Twitterで説明するのは難しい。

運命の相手そのものが存在するのではない。「自分には運命的に出会う相手がいるはずだ」という感覚があり、その感覚から逆算した幻想作品こそがセカイ系の本質なのだ。

仲山ひふみはTwitterでこの考えに応じ、東の説明は、隕石災害で糸守の住民が死なず、主人公たちが互いの名前を忘れたまま出会う世界線を現実の基準に据えたものだと指摘した、と記事は紹介する。要するに、映画全体をその基準から逆算した「条件過去形」、つまり別の結果を前提に現在を組み直す語りとして読む道筋である。

『STEINS;GATE』のような可能世界の読みは、示唆に富んでいる。『雲のむこう、約束の場所』で、新海誠はすでに可能世界の要素を一度試していた。今回の『君の名は。』でも、作中の勅使河原が可能世界の仮説を使って三葉に起きた奇妙な現象を説明する。本作に可能世界と時間旅行の要素が存在するのは確かだ。しかし、東浩紀の解釈がもっとも示唆的なのは、そこではなく「ゲーム的リアリズム」にある。

ゲーム的リアリズムは、東浩紀が2007年の『ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2』で提唱した概念だ。その含意はきわめて豊かだが、ここで私たちを導くのは、運命の「運命性」の問題である。

たとえばギャルゲーでは、一方でプレイヤーはヒロイン一人ひとりと唯一無二の恋をし、相手を自分の運命の人だと思う。しかし他方では、複数ヒロインと分岐シナリオの構造が、その唯一無二性を壊してしまう。誰もが運命の人になれるのなら、運命そのものが意味を失うからだ。さらにオタク文化の物語では、作者がどれだけ抵抗しても、同人作品が原作に「こういう可能性」「ああいう可能性」を付け加えるのを止められない。原作の登場人物の運命は、無数の二次創作が示す別の可能性へ分散し、運命に必要な唯一無二の性質を失う。大きく言えば、リオタールがいうポストモダン状況における大きな物語の衰退によって、あらゆる物語(ストーリー)は別の展開の可能性、つまり複数化から逃れられない。ゲーム的リアリズムの課題は、複数化を避けられない条件のなかで、なお唯一無二の運命をどう保証するかという問題に向き合うことなのだ。

古典悲劇の代表例である『オイディプス王』を考えてみよう。このような古典悲劇では、宗教、すなわち神の権威が、その運命を保証していた。しかし宗教改革と啓蒙運動の広がりによって、宗教の保証は効力を失った。近代文学に入ると、唯物史観的なイデオロギーが、作品の「唯一無二の展開」を保証した。だがポストモダンになると、マルクス主義などの思想やイデオロギーは、かつてのように全員の考えを統一する力をもたなくなった。思想と価値が多元化するポストモダン状況には、「運命の運命性」を保証するものが、もう存在しない。

物語の展開が唯一無二の性質を失ったとき、「運命」を描くことは不可能になる。結論から言えば、この問題が2000年代のループ系・メタ系作品を生んだ。ループ系とは時間が循環する作品であり、メタ系とは、たとえば『Ever17』のようにプレイヤーの視点を物語へ導入する作品である。超越的な視点(多くの場合は読者)を導入し、読者である個人の唯一無二の人生と、プレイヤーとしてのゲーム体験によって、作品内の唯一無二の展開を保証する。『Ever17』『Baldr Sky』『マブラヴ』『STEINS;GATE』など、こうした手法を採る作品は無数にある。2013年にNitro+が発表したアダルトゲーム『君と彼女と彼女の恋。』は、この種の作品の頂点の一つだと言える。

運命の恋

『君の名は。』は、運命を描いた作品でもある。三葉が東京を去ったとき、まだ彼女に会っていない中学生の瀧は、失望した様子で去る彼女の背中を見ながら――

「俺が知るべきひとなのかもしれない。」

(『小説 君の名は。』角川文庫より。瀧の内語り。)

「俺が知るべきひと」と、公式サイトの宣伝文句「まだ会ったことのない君を、探している」。まだ相手を知らない時間そのものが、ここでは運命の必然性を帯びる。新海誠も小説版のあとがきで、この作品を、まだ出会ったことのない誰かと出会えると信じて待つ人たちに捧げるものだと述べた――と記事は要約する。『君の名は。』が運命を描いているのは確かだ。では、新海誠はこの作品で「運命の運命性」の問題にどう向き合ったのだろうか。

可能世界という観点から入ろう。ここでいう可能世界は、映画内の分岐を考えるためのモデルであり、それぞれを世界線A/Bと呼ぶ。まず、二つの可能世界がある。

A 糸守町の住民も三葉も死んでしまった世界線。

B 糸守町の住民も三葉も死なず、三葉と瀧が互いを覚えていないまま出会う世界線。

そして、明確なループ構造が存在する。

二人が身体を交換する原因は、組紐である。組紐は三年前に三葉が瀧へ渡したものだが、三葉が三年前に東京へ向かったのは、三年後の瀧と身体を交換したからだ。こうして因果は時空のなかで閉じた輪になる。東京へ向かった原因は三年後にあり、三年後に身体を交換した原因は東京へ向かったことにある。運命はまず、この時空の閉ループのなかで生まれる。

三年後、御神体のそばで目覚めた三葉は、自分が一度死んだ記憶をもっている。そして、その死を経験した記憶を携えたまま、隕石が落ちた10月4日をもう一度繰り返す。

多くの人は、二人が再会してハッピーエンドへ向かう可能世界Bを、二人が生と死に引き裂かれる可能世界Aより好むかもしれない。しかし原理的には、この二つの可能世界は等価である。どちらか一方だけを認めても、「運命の保証」の問題は解決しない。

Aだけを認めるなら、Bが存在する。Aでは、運命的に再会できない悲劇の結末に見えるものが、ハッピーエンドの存在によって、悲劇としての運命らしさを失う。ゲームをプレイして、ひどく悲劇的な結末へたどり着いたあとで、「このゲームには、最後に大団円を迎える驚くべきハッピーエンドもある」と教えられたら、その結末は運命らしさを失うだろう。

Bだけを認めるなら、Aが存在する。Bの一見ハッピーエンドの結末も、すべての世界を救えなかった三葉を考えれば、不完全なハッピーエンドになる。この世界の三葉だけを救えたのは偶然にすぎず、必然性を失った運命は、もはや運命ではない。運命は運命としての意味を失い、ハッピーエンドは心の底からハッピーにはなれない。この問題を、新海誠はどう解決したのだろうか。新海誠の手法は、先に挙げた作品とそれほど違わない。

それは、Bを「運命」と定めたうえで、そこからAを逆算し、二つの可能世界を物語のトリックによって巧みに混ぜ合わせることだ。論理的に考えると、可能世界Bには「世界の危機」が存在しない。世界の危機が存在するのは可能世界Aだけであり、Aにおいてのみ、三葉と瀧は永遠に出会えない時間に生き別れになっている。観客の線形的な鑑賞視点は、可能世界Aにある「世界の危機」を、「身体交換の恋」と、可能世界Bで最後に階段で出会う私とあなたの関係へ結びつける。こうしてAの時空の閉ループが生む運命は、Bの運命へと巧みに移し替えられ、AとBの二組を同一と読めるようにする。これによって、運命の運命性の問題が解決される。

この形式的な説明は、やや複雑に見えるかもしれない。もっと簡単に言えば、こういうことだ。

瀧が三葉の口噛み酒を飲んだあと、瀧と三葉は、現在の可能世界Aを超えた視点を得る。可能世界Aの記憶を保ったまま――三葉が神社で瀧の身体のなかに目覚めたとき、自分が隕石で死んだことを覚えていたのが証拠だ――二人は二つの世界を超えた黄昏時に出会う。避難活動が進み、つまり可能世界AからBへ移るにつれて、超越的な視点は物語の内側へ少しずつ引き戻され、Aから来た記憶がゆっくり消えていく。残るのは、記憶ではない、「運命的に出会うはずの誰かをずっと探しているような感覚」だけだ。ここで、この感覚は実は可能世界Aから来ている。つまり可能世界Bで最後に運命のような再会を果たす三葉と瀧の運命らしさと同一性は、超越的な視点と時空を越えた恋によって支えられる。こうして新海誠は、二つの可能世界の運命を一つに統合することに成功した。

しかも、この超越的な視点は、実際には映画を観る観客の視点と重なっている。映画は回想形式で始まり、可能世界Aを「夢」という形で可能世界Bのなかに挟み込む。それによって観客には「記憶」であるかのような錯覚が生まれる。しかし実際には、可能世界Aの瀧と三葉は、最初から出会っていなかった可能性がある。身体交換もしていない。記憶も、組紐も、二人が出会ったことを証明するものも、何もなかったかもしれない。つまり、可能世界Aの二人と可能世界Bの二人が同一であることを保証するのは、観客としての私たちなのだ。映画の線形的な物語時間と、私たちの線形的な鑑賞体験が、二つの世界を一つにする。瀧と三葉の運命的な出会いを保証するのは、作品の外にいる私たちなのである。

だからこそ『君の名は。』は、これほど中毒性をもつ。私たちが映画を観て初めて、可能世界Aの瀧と三葉は、可能世界Bの瀧と三葉と一つになり、ハッピーエンドへ進める。無数のファンが二人の幸福な結末のために、何度も劇場へ足を運んだ。映画を観るたび、瀧と三葉のハッピーエンドは一度ずつ強化される。同時に、二人の別れと苦しみもまた、一度ずつ強化される。その痛みを和らげるために、私たちはまた劇場へ行き、ハッピーエンドを強化する。何度も、終わりなく……。

ほかの可能性

RADWIMPS「スパークル(movie ver.)」(作詞・作曲:野田洋次郎)には、風が「どこから寂しさを運んできたのか」と問い、泣いたあとの空が澄んで見えると歌う二行がある。記事に添えられた中国語訳も、その風と空の感触を説明している。

二人が振り返って互いを呼び止めるハッピーエンドで、私たちは救いと満足を得る。しかし、心が晴れ、二人が再会したというのに、野田洋次郎の歌声は、二人の間を吹き抜ける風に一抹の寂しさをもたらす。満たされたあとにも、映画館の外には寂しさが残る。このハッピーエンドは、映画館の外までは続かない。

だが、本当にそれだけなのだろうか。本当にほかの可能性はないのか。瀧と三葉の出会いは、私たちから独立して存在できないものなのか。二人の日常の楽しさや努力は、そんなにも無力なのか。私はそう思いたくない。

では、こんな解釈はどうだろう。二人は、そもそも互いを忘れていなかった。二人の愛が、世界の書き換えを越えて記憶を保ったからこそ、最後に出会えたのだ。この読みなら、『君の名は。』は非常にロマン主義的な映画になり、日常の楽しさと世界を変える努力を、完全な形で残せる。しかし、世界が変わったあとの二人の努力はどうなるのか。互いを忘れ、八年間、東京の街角ですれ違い続けた瀧と三葉はどうなるのか。探しているのが人なのか物なのかもわからないのに、「もう少しだけ、あと少しだけ待とう」ともがき続けた瀧と三葉はどうなるのか。あの努力は努力ではないのか。あのもがきは、楽しかった日常より価値が低いのか。

可能世界Aに残った悔いを理由に、可能世界Bで二人が重ねた努力を否定してはならない。ロマンチックさを突き詰めるあまり、そのロマンスと表裏一体の「寂しさと孤独」を無視してもいけない。心が晴れないからといって、あの結末の尊さを否定することはできない。この映画がただのロマン主義的な作品なら、記憶を消す必要などない。「未来で待っている」と一言いえばよく、二人が記憶を保ったまま再会すれば済む。

『君の名は。』が描くのは、運命を足かせに見立てて打ち破るような大きな物語ではない。「運命のなかで小さくもがいた結果、最後に小さな勝利を得る」ことなのだ。だからこそ、「もう少しだけ、あと少しだけ待とう」なのである。もし『君の名は。』がただのロマン主義的な映画なら、それは『時をかける少女』の焼き直しにすぎない。

消えない感覚

それでも私は、最後の出会いを、空虚さと悔いに満ちた結末だとは考えたくない。ここまでの仮説からは、世界線Aの二人と世界線Bの二人が一度も出会っていないという結論が導かれる。しかし、それは、世界線Bの二人が村を救った世界線Aの二人ではない、という意味ではない。必要なのは、Bの二人をAの二人と同じ存在として、物語のトリックにも観客の視点にも頼らず保証することだ。

では、作中の産霊(むすび)という設定を、二人の同一性の保証に使うのはどうだろう。産霊が二人の魂の奥に記憶を刻んだ。だから歴史も世界も変わり、歴史上は一度も出会っていなくても、魂の奥底ではなお、Aの二人であり続ける。しかしこの解釈も、先の読みと同じく、世界が変わったあと二人が重ねた努力を見落とす。最後に出会えた理由を、神や産霊、つまり外部の力に依存する読みになってしまうのだ。

記憶を残す方向へ解釈を傾ければ、二人のもがきを壊し、最後の結末の尊さを台無しにする。二人のもがきを重視すれば、かつての日常を否定し、作品全体を空虚な影で覆う。しかし二人の内部に保証を求めず、超越的な視点に訴えれば、私たちは無限の循環に陥る。超自然の力に訴えれば、依存的な思想へ落ちてしまう。

では、どうすればこの問題を解決できるのか。これほど多くの制約のなかで、かつての日常と世界が変わった後の努力という二つのよさを、どうすれば同時に保てるのか。答えは、世界を越えても消えない感覚である。この感覚はきわめて貴重で、「愛」や「ロマン主義」といった形容詞だけでは説明しきれない。同時に、ごくありふれた、小さなものであり、大きなものではない。それは二人の内部にあり、観客にも超自然の力にも頼らない。二人の内部にそれがあるからこそ、二人は八年のもがきのあとで最後に勝利できる。それは二人に属するものでもない。能動的なものではなく、記憶でも信念でもない。それでも信念より深い。では、この感覚はいったい何なのか。

記憶は消えても

この問いに答える前に、ある場面を振り返ろう。早耶香の居場所が見つかり、勅使河原は父親に呼び止められる。彗星が割れるのを見た三葉は地面に崩れ落ち、誰と交わしたのかもわからない約束を思い出す。三葉が握りしめた手を開いたとき――いったん止まっていたBGM、RADWIMPSの「スパークル(movie ver.)」が再び流れ始める。

歌詞は「愛し方さえも」「歩き方さえも」と、愛し方に相手の匂いがし、歩き方にもその笑い声が聞こえるという比喩を重ねる。記事中の中国語訳もこの意味を伝えている。

手のひらに残された「好きだ」。三葉の胸に勇気が湧き、彼女は自分の恋を理解する。これを書いたのが誰なのか、自分が誰を好きになったのか、もう覚えていない。それでも、誰かから受け取り、誰かへ向けた恋が残した、名も知らない勇気を抱えて、三葉は泣きながら、笑いながら立ち上がる。再び走り出した三葉の足取りには、歌詞が示すように、すでに瀧の影がある。身体交換をしていたときの、ためらいがちな走り方をする三葉ではない。歩幅も、腕の振り方もひどく力強く、瀧の足取りに近い。

そう、記憶が消えても、相手の名前を忘れても、最後に一つだけ残るものがある。それこそ、私たちが探している、消えない感覚なのだ。

自分のものではない仕草

小説版には、知らぬ間に身についた癖として、焦ったときに首の後ろを触ること、顔を洗うときに鏡のなかの自分の目を覗き込むこと、急いでいる朝でも玄関から出てしばらく風景を眺めることが列挙されている。

首の後ろには何もないのに、緊張するといつもそこへ手をやる。自分の目なのに、なかに何かがあるように感じる。時間がないのに、見慣れた風景の前で必ず立ち止まる。これらは、本来なら自分のものではないはずの習慣だ。こうした癖が、瀧と三葉を八年間悩ませ、同時に支えた消えない感覚でもある。この感覚は記憶にも肉体にも属さない。つまり「無意識」なのだ。

私たちが記憶と呼ぶものは、哲学と精神分析の観点からいえば、デカルト的な「我思う、ゆえに我あり」という主体、すなわち自己=意識に属している。ここで無意識と呼んでいるのは、自己が意識するより前に働き、自己には気づけないが物質でもない、自己(実存)のうちの他者に属する部分である。たとえば、こんな話がある。食堂で食事をしていたとき、同級生に、箸の持ち方が変だと突然指摘された。人差し指が箸に触れず、少し蘭の花のような手つきになっているという。二十年以上生きてきたのに、自分にそんな癖があると知ったのは初めてだった。箸を持つ手が自分のものではないような、奇妙な感覚。自分にそんな習慣があるとは一度も意識していなかったのに、その習慣=無意識は、確かに私の内部に存在していた。

瀧と三葉を悩ませるのも、こうした「自分のものではない仕草」だ。朝起きたとき、自分の意志に反して涙が残っている。自分の意志に反して、手のひらを見つめる。自分の意志に反して、玄関の前で風景を眺める。どの習慣も自分のものではなく、まるで他人のもののようだ。ここで、同じくセカイ系の作品である杉井光の『请记得我』の台詞を重ねることもできる。まばたきや鼓動や呼吸のひとつひとつに、自分のものではない何かを感じ、すでに忘れた「あの人」の色に染まっている、という趣旨だ。

身体を交換していた日々に、二人が交換したものは、身体だけでも精神だけでもない。

小説版の瀧は、相手の「体温も鼓動も、息づかいも声も」を確かに感じていたと述べる。原文に添えられた中国語訳も、体温・鼓動・呼吸・声から目と鼓膜に届く感覚までを列挙する。視覚と聴覚まで含めたこの列挙が、身体交換で移ったものの広がりを示している。

彼女がどう呼吸するのか。どう耳を澄ますのか。心臓がどのように鼓動するのか。

彼の歩き方はどうか。笑い方はどうか。まばたきはどうか。

彼女の髪は後頭部でどう揺れるのか。胸のふくらみはどう動くのか。

彼の視線はどこまで届くのか。体温はどれほどの温かさをもたらすのか。

記憶が消え、精神が再びあの身体に戻らなくても、呼吸の仕方、心臓の鼓動、まばたきの仕方――私たちが交換したもののうち、記憶にも身体にも属さず、そもそも覚えようとも気に留めようともしなかったものが、なお無意識のなかに残る。二つの世界を越えて、残り続ける。

誰のものかもわからない呼吸。誰のものかもわからない鼓動。誰のものかもわからないまばたき。

いつの間にか力強くなった足取り。いつの間にか愛らしさを帯びた笑顔。

だから、探し続けずにはいられない。自分のものではない無意識の身振りが、いったい誰のものなのかを探す。この感覚はあるのに、それを残したのが誰なのか、何なのか、それともただの妄想なのかはわからない。無意識に残ったこれらのものは、瀧と三葉に探し続ける勇気と希望を与える。同時に、深い絶望ももたらす。

互いを認める理由

では、最後に二人を出会わせたものは何だったのか。自分のなかに他者のものがある。逆に言えば、他者のなかに自分のものがある。

一度も顔を合わせたことのない少女。記憶のなかに一度も現れたことのない少女。その歩き方には、私の影がある。笑顔には、私の色がある。まばたき、呼吸、鼓動、こぼれた一滴の涙、ひとつのすすり泣き。そのどれにも、私の一部がある。

一度も顔を合わせたことのない少年。記憶のなかに一度も現れたことのない少年。その瞳には、私の深さがあるように見える。髪の揺れには、私の軽やかさがある。まばたき、呼吸、鼓動、ためらう仕草、決然と振り返る動き。そのどれにも、私の一部がある。

三葉の側から言えば、私のもとにこうした自分のものではない何かを残したのは、あなたなのだ。瀧の側から言えば、残したのは君なのだ。

走る列車のなかで相手を一目で見分けたあと、二人の走り方はとても奇妙だ。ハイヒールを履いた三葉は、ひどくきっぱりと走る。一方、体に合わないスーツを着た瀧の走りは、少したどたどしく、三葉の癖を思わせる。二人の習慣と無意識は、すでに深く混ざり合っている。三葉の足取りのなかには瀧がいて、瀧の足取りのなかには三葉がいる。

二人が互いを認めた理由、あの消えない感覚は、振り返ってみれば、冒頭で引いた「私に入っていたのは、君なんだって」という言葉にすでに含まれていた。角川文庫版の本文と映画音声には表記差があるが、ここで論じたいのは「入っていた」という結果状態である。

記事は、公式中国語字幕がここを「私と身体を交換したのはあなた、あなたと身体を交換したのは私」と訳していると紹介する。しかし、私には、その訳によって台詞が含んでいた深い意味が消えてしまったように思える。「入っていた」は、過去の一時点を示すだけでなく、行為の結果として残った状態も表せる。いま私たちは交換していなくても、その結果として、私のなかにあなたの無意識が、あなたのなかに私の無意識が残っているのだ。

同一性を保証し、瀧と三葉を出会わせた理由は、大きな信念でも、壮大なロマンチックな愛でもない。日常の一つの身振り、一度の呼吸、一度の心臓の鼓動である。瀧と三葉の運命は、産霊のなかにも、二人の記憶や意志のなかにも、観客である私たちの視点のなかにもない。二人の無意識のなかにある。誰を探しているのかわからなくても、二人はその無意識のなかでもがいた。無意識のなかで、名前を忘れたことが、かえって二人の出会いをもたらした。かつての楽しい日常と、現在の固執と苦闘が、初めて両立する。最後の再会と寂しさが表裏一体であることの尊さが、ここで初めて見える。

新海誠の感性、セカイ系の感性

先ほどの話には、続きがある。自分でも知らなかった箸の持ち方の癖を同級生に指摘されたあと、11月のある日、私は『君の名は。』を観るため香港へ行こうとしていた。出発前夜は親戚の家に泊まり、親戚に誘われて食事へ出かけた。何年も会っていなかった親戚に会い、その子どもとは初対面だった。食卓で、二人が私と同じ箸の持ち方をしていることに気づいたのだ。その瞬間、私は思った。たぶん新海誠が描こうとしたのは、こういうものなのだろう。血縁も、運命も、愛も、他者も、そして世界全体さえも、私たちが一度も注意を向けなかった身近な日常のなかに隠れている。セカイ系における日常と非日常の共存とは、非日常を日常の外に置いて逃げることではない。非日常は最初から、日常の片隅に存在しているのだ。

本文はAnitamaに初出。© 紅茶泡海苔 / Anitama。

本文終わり

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