屋頂現視研日本語版
中国語原文目次編集プレビュー

私たちはいかに出会ったのか――消えることのない感覚から『君の名は。』を読み解く

セカイ系、可能世界、本稿で「無意識」と呼ぶ相手の痕跡を手がかりに、『君の名は。』の瀧と三葉が、なぜ忘却を越えて互いを見つけられたのかを考える。

著者: 红茶泡海苔翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

保存にあたって

この『君の名は。』論は、私が批評を書きつづけるうえで一つの節目となった。おそらく、それまでに書いた文章のなかで最も広く読まれ、評価された一本であり、初めて原稿料をいただいた評論でもある。これに先立つ杉井光論では整理しきれなかった問題も、ここですでに姿を見せはじめていた。瀧と三葉の身体の入れ替わりを論じるくだりでは、杉井光『終わる世界のアルバム』の台詞を意識している。本稿は、その後の私の批評の文体や構成を、ある程度まで方向づけた文章でもある。

原型となったのは、中国語圏のオンラインフォーラムS1に投稿した「セカイ系から考える、新海誠『君の名は。』の運命」だ。S1で同好の士と意見を交わしたのち、S1ユーザーのハリセルダンに仲介してもらい、中国語圏でアニメ文化を扱うメディアAnitamaの編集者加叔に原稿を見ていただいた。そうして生まれたのが、この文章である。本稿を保存した頃、Anitamaの先行きを案じさせる知らせが届いていた。せめて、この初出ページだけは404にならず、これからも読める形で残っていてほしい。


中国では、新海誠の作風はしばしば「小清新(爽やかでしゃれた雰囲気)」や「文芸的」と評され、その作品も作家自身の体験の表れとして受け取られがちだ。だが、新海作品の独自性は、一人の作家の個性だけから生まれたわけではない。その背後には共通の想像力に支えられた作品群があり、一般に「セカイ系」と呼ばれている。本稿では、まずセカイ系をめぐる誤解を解きほぐし、そこを入口に『君の名は。』を読み解いていく。

セカイ系とは何か

現在、最も広く知られているセカイ系の定義は、批評家東浩紀が示したものだ。「きみとぼく」の小さな関係が、社会などの中間項を介さず、世界の終末的な危機に直結する想像力――ひとまず、そう捉えておこう。

ここでいう危機は、必ずしも地球規模の自然災害でなくてよい。大切なのは、目の前の出来事が、生と死、存在と不在といった根源的な問いに触れていることだ。また、セカイ系は、人生経験の乏しい作り手が、社会や他者を幼稚な仕方で切り捨てた作品だ、という意味でもない。むしろ、身の回りに人があふれていても、人々が互いを背景としか見なくなった平成日本の感覚を映すものとして考えられる。「きみとぼく」の関係と世界の危機は並行して展開し、後者はたいてい、前者を通してはじめて身に迫るものとして描かれる。

隕石と運命

では、『君の名は。』で描かれる「世界の危機」とは何だろう。直感的には、隕石による糸守町の壊滅を思い浮かべるだろう。しかし被害の範囲だけを見れば、それは世界そのものの終わりではない。糸守が壊滅した夜も、中学生の瀧が暮らす東京では、彗星は美しい天体ショーとして眺められ、「この時代に生きる私たちにとって幸運な出来事」とさえ受け止められていた。もちろん、隕石が本作の中心的な要素であることは間違いないし、311とのつながりも否定しない。

それでも本作の核心にある危機は、町が滅びることだけではない。三葉が彗星落下の日を迎えたとき、東京の瀧は三歳年下の中学生だった。高校生になった瀧が三葉を知るのは、その三年後である。瀧が相手を知った時点では、三葉はすでにこの世にいない。愛し合う二人が、同じ時間に生きて出会うことを許されない。その断絶こそが、分裂して落ちる隕石によって目に見える形を与えられた、本作の「世界の危機」なのである。

身体の入れ替わりという仕掛け

セカイ系は、しばしば物語の一類型だと思われている。だが、本来は一つの想像力であって、社会描写の多寡だけで決まるものではない。『君の名は。』には、糸守の風習も、学校や家族も、東京の慌ただしい生活も、かなり丹念に描かれている。友人たちは町を救うために力を貸し、三葉の父は避難の成否を左右する。社会はけっして消えていない。

ここでいう社会の「排除」は、作品から社会描写を消すことではない。瀧と三葉の関係が、生と死や時間の断絶といった根源的な問題に結びつく局面で、社会や他者が中間項として働かなくなる、ということだ。二人は友人に引き合わされるのでも、周囲から相手の人柄を教わるのでもない。文字どおり互いの身体に入り、相手の暮らしを内側から経験する。町を救うには友人や家族という社会的なつながりが欠かせないが、二人の恋と根源的な危機との結びつきは、そうした媒介を飛び越えて成立している。身体の入れ替わりは、この二つの水準を同時に描くための仕掛けなのだ。

こんなふうにやみくもに探し回ったって、会えっこない。会えっこないけれど、でも、確かなことが、ひとつだけある。私たちは、会えばぜったい、すぐに分かる。私に入っていたのは、君なんだって。君に入っていたのは、私なんだって。

――小説版『君の名は。』

君のなかには私がいて、私のなかには君がいる。この台詞が示すのは、二人の結びつきが、他人に証明してもらわなくても互いの内側に残っているという感覚だ。新海誠の作品は、人と人との距離を描いているとよく言われる。たしかに、二人を物理的な距離が引き離す展開は繰り返し現れる。しかし、その距離がかえって浮かび上がらせるのは、心の距離の近さである。かたわれ時まで、三葉と瀧は三年という絶対的な隔たりに引き裂かれていた。それでも相手を、たしかにすぐそばにいる者として感じていた。「君がこの世界にいなくても、すぐそばにいると感じられる」。そこに、セカイ系の想像力がある。

セカイ系の無力感

セカイ系の作品には、しばしば無力感が漂う。世界を揺るがす危機にヒロインが立ち向かい、主人公の少年にできるのは彼女の心を支えることだけ、という構図である。二人の行く末は、少年の手の届かないところで、ヒロインの選択や世界の成り行きによって決まってしまう。『ほしのこえ』や『雲のむこう、約束の場所』には、その感覚がはっきり表れている。

ところが『君の名は。』では、無力感がかなり和らいでいる。その理由の一つも、身体の入れ替わりにある。瀧は三葉の父を説得できず、自分だけではどうにもならないと悟る。ここだけ見れば、従来のセカイ系の主人公と同じ無力さが前面に出るはずだ。だが避難計画は、まず三葉の身体に入った瀧が友人たちと動かし、最後は自分の身体に戻った三葉が父を説得することで成し遂げられる。瀧が三葉に取って代わるのでも、三葉がただ救われるのでもない。瀧の働きかけが三葉の選択へと引き継がれ、三葉は社会のなかで自ら行動して町を救う。一つの身体を二人が時間差で動かす構成によって、それぞれの主体性が保たれ、主人公には何もできないという感覚も弱められている。

唯一の運命はどう成立するか

身体の入れ替わり自体は、珍しい仕掛けではない。だが『君の名は。』は、一見すると日常の楽しさを生むだけの趣向を、物語の根幹を支える仕掛けへと発展させた。ここで別の角度から考えてみたい。新海誠の劇場デビュー作『ほしのこえ』は、『最終兵器彼女』『イリヤの空、UFOの夏』と並び、東浩紀が責任編集を務めた『美少女ゲームの臨界点』の編集部注で、セカイ系の代表作に挙げられている。その系譜に連なる『君の名は。』は、複数の展開がありうるにもかかわらず、なぜ瀧と三葉の出会いだけを、かけがえのない必然の出来事だと感じさせるのだろうか。ここでいう「運命」は、ほかの可能性を客観的に排除するものではなく、受け手がこの出会いに唯一性と必然性を感じることを指す。

手がかりとして、ほかの批評家の読みを見てみよう。セカイ系の定義を示した東浩紀は、『君の名は。』を観たあと、二〇一六年九月初めにTwitterへ次のような感想を投稿した。

ひとつ繰り返しておきたいのは、あの作品は運命の相手と結ばれる作品では【なく】、なぜ人々が運命の相手がいると思い込んでしまうのか、その理由こそが語られた作品だということです。この読みの背景には「ゲーム的リアリズム」があるのですがでもこれもツイッターでは説明不可能ですね(笑)

運命の相手なんていないんですよ。ただ「運命の相手がいるはずだ」という感覚だけがある(これはもっているひとともっていないひとがいる)。そこから遡行的に見いだされるファンタジーがセカイ系の本質です。

――東浩紀、Twitterへの投稿(二〇一六年九月)

これを受けて、仲山ひふみは次のように整理した。東も、この読み方に同意を示している。

東さんのこの解釈は、隕石によって糸守の住人たちが死なず、主人公たちが互いの名を忘れたまま出会う世界を基準となる現実とみなすもので、要するにこの映画全体を遡行的に生み出される条件法過去(可能世界)のファンタジーとして読むという路線かな。

――仲山ひふみ、Twitterへの投稿

ここでいう「条件法過去」とは、現在から振り返って「もし別の過去があったなら」と組み立てられる、起こりえた過去のことだ。『STEINS;GATE』を思わせる、可能世界という観点からの読解はたしかに興味深い。新海誠は『雲のむこう、約束の場所』ですでに可能世界を物語に取り入れている。『君の名は。』でも、勅使河原は三葉に起きた奇妙な現象を可能世界仮説で説明しようとする。しかし東の発言について、ここで注目したいのは、可能世界という語そのものより、その背後にある「ゲーム的リアリズム」である。

ゲーム的リアリズムは、東浩紀が二〇〇七年の『ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2』で提示した概念だ。ここでは概念全体ではなく、複数の分岐を知る受け手が、それでも一つの物語をかけがえのない現実として受け止める、という問題に注目したい。別の展開がいくつもありうると知っている読者に、それでも目の前の結末だけを、かけがえのない「運命」と感じさせるにはどうすればよいのか。以下では、この唯一性と必然性の感覚を支える仕組みを、便宜上「運命の根拠」と呼ぶことにする。

たとえばギャルゲームでは、プレイヤーは一人のヒロインとかけがえのない恋をし、彼女を運命の相手として受け止める。その一方で、別のヒロインを選ぶ分岐も用意されている。どのヒロインも、それぞれのルートでは「運命の人」になれるのなら、いま目の前にある恋の唯一性は揺らいでしまう。また、作者がどれほど一つの結末を決定的なものとして描いても、受け手は二次創作で「こんな展開もあったはずだ」と別の可能性を描ける。別の展開を思い描く自由を、作者が封じることはできないし、原作そのものも、唯一性を保証してはくれない。さらに視野を広げれば、リオタールが「大きな物語の衰退」と呼んだポストモダンの状況では、ただ一つの価値観がすべての物語を正しい方向へ導いてくれる、という前提そのものが失われている。物語はつねに、別の展開もありえたという可能性にさらされる。

古典悲劇の『オイディプス王』では、神の言葉が逃れられない運命を支えていた。ごく大づかみな見取り図を描くなら、宗教改革と啓蒙思想を経た近代には、神に代わって歴史や社会を説明する思想が、物語の必然性を支えるようになった。しかしポストモダンに至り、マルクス主義をはじめとする思想が人々を一つにまとめる力を失うと、どの展開だけが必然なのかを示す絶対的な根拠も見えにくくなる。これは文学史を一本の線で説明するための断定ではなく、ここで扱う問題の位置を示すための概略である。

二〇〇〇年代に目立ったループ系やメタ系の作品は、この問題への一つの応答として読むことができる。ループ系は時間の反復と選び直しを物語に取り込み、メタ系は『Ever17』のようにプレイヤーの視点そのものを物語へ組み込む。複数の分岐を知るプレイヤーを作品の外に置いたままにせず、その知識や選択を、結末へ至る仕組みの一部にするのである。そうして物語の外から作品を見渡す読者やプレイヤーが送る一回かぎりの人生と、そこで重ねる鑑賞プレイ経験が、作中の一つの展開に唯一性を与える。その取り組み方は、時間の反復、ルート分岐、プレイヤーの視点の導入など、作品ごとに異なる。『Ever17』『BALDR SKY』『マブラヴ』『STEINS;GATE』、そして二〇一三年にニトロプラスから発売されたアダルトゲーム『君と彼女と彼女の恋。』は、その例である。

運命の恋

人々の期待どおり、『君の名は。』も運命の恋を描く。三葉が瀧を探して東京へ出たとき、瀧はまだ中学生で、彼女との入れ替わりを経験していない。落胆して去っていく三葉の背中を見ながら、瀧は思う。

俺はふいに思う。このおかしな女の子は、もしかしたら、俺が知るべきひとなのかもしれない。

「俺が知るべきひと」。そして公式サイトの宣伝文句にある、「まだ会ったことのない君を、これから俺は探しに行く」。どちらにも、まだ知らない誰かが自分にとってかけがえのない人である、という予感がこもっている。新海誠も小説版のあとがきで、まだ会ったことのない誰かを待ち、いつか出会えると信じている人に向けた作品だと述べている。『君の名は。』が運命を描いているのは間違いない。では、別の展開がありうる世界で、この出会いの唯一性は何によって支えられるのだろう。

可能世界の話に戻ろう。ここから先で時系列の基準がぶれないように、三葉が高校生として彗星落下の日を迎える時点を「基準日」、高校生の瀧が身体の入れ替わりを経験する時期を「基準日の三年後」と呼ぶ。そのうえで、作中に示される二つの歴史を、次のようにABに分ける。ABは二つの時代の名ではなく、基準日の結末が異なる二つの歴史である。

A.身体の入れ替わりと組紐をめぐる因果の輪は生じたが、基準日の避難が間に合わず、糸守の住民と三葉が死ぬ歴史。

B.基準日の三年後にAで起きたことを知った瀧が、三年前の三葉へ働きかけ、その結果、基準日の避難が実現する歴史。糸守の住民と三葉は生き残るが、瀧と三葉はやがて、入れ替わりと互いの名を意識的には思い出せなくなる。

大事なのは、Aでは入れ替わりが起きなかった、という意味ではないことだ。入れ替わりも組紐の受け渡しもAのなかで起きている。歴史がAからBへ書き換わることで起きなくなるのは、基準日に三葉たちが死ぬという結末である。その一方で、瀧と三葉の意識からは、歴史を書き換えるきっかけになった入れ替わりの記憶まで薄れていく。

ABは、起こりえた歴史として考えるかぎり対等である。だが映画は、まずAを観客に経験させ、その記憶を受け継いだ瀧の行動からBを生み出す。可能性としては対等でも、語られ方は非対称なのだ。この区別が、以下の議論の前提となる。

東と仲山の見立てに従えば、基準となる現実はBであり、Aはそこから遡行的に組み立てられた「条件法過去」である。ところが映画を順に観る私たちは、まずAを経験し、そこからBへ移っていく。この二つの向きは矛盾しない。BからAを遡って生み出す構造を、鑑賞の時間の上ではAからBへ進む一本の物語として見せることによって、映画は二つの可能世界を巧みに重ね合わせるのである。

二人のあいだには、時をまたぐ明確な因果の輪がある。三葉を東京へ向かわせたのは、基準日の三年後にいる高校生の瀧との入れ替わりだった。ところが東京で三葉が実際に出会うのは、まだ中学生で、入れ替わりを経験していない基準日の瀧である。三葉はその瀧に組紐を渡し、瀧は三年後まで身につけつづける。つまり三葉が基準日に取った行動の理由は三年後にあり、三年後の入れ替わりを導く組紐は基準日に渡される。原因と結果が時空をまたいで互いを生み出す、この因果の輪が、二人の関係に必然めいた形を与える。

さらに、基準日の三年後、御神体のそばで瀧の身体のまま目を覚ました三葉は、自分が隕石で一度死んだことを覚えている。その記憶を抱えたまま、彼女は基準日へ戻り、同じ十月四日にAとは違う行動を選ぶ。ここで過去が書き換えられ、Bの歴史が生まれる。

多くの観客は、二人が生死に隔てられるAより、二人が生きて再会するBを望むだろう。しかし可能性だけを比べれば、ABも「ありえた歴史」の一つである。好みだけでBを選んでも、Bの再会がなぜ、ほかならぬ二人の必然的な結末として感じられるのかは説明できない。

Aを悲劇として特別扱いしようとしても、Bの大団円を知ったあとでは、その悲劇は唯一の逃れられない結末ではなくなる。ゲームで痛ましい結末にたどり着いたあと、別のルートには胸躍る大団円があると知れば、最初の悲劇からは逃れられないという宿命性は薄れてしまう。それと同じことだ。

反対に、Bだけを唯一の決定的な結末として受け入れようとしても、Aで死んだ三葉の姿を観客はすでに見ている。Bの三葉が助かったのは、複数の可能性のうち、たまたま避難に成功した一つの展開にすぎないのか。そう感じた瞬間、再会から「この二人でなければならない」という必然性が失われ、幸運な偶然に見えてしまう。それでは結末を心から喜べない。新海誠は、この難題にどう応えたのだろうか。

『君の名は。』は、ABを独立した二本のルートとして並べない。観客にはまずAを経験させ、その記憶を抱えた瀧の行動によって、同じ物語の途中からBを立ち上げる。Bだけを見れば糸守は救われており、二人が生死によって隔てられるという「世界の危機」は、すでに存在しない。にもかかわらず観客は、Bの瀧と三葉を、Aで引き裂かれたあの二人の続きとして見る。映画を最初から順に観てきた経験と、身体の入れ替わりを通じて育った恋が、Aの悲劇とBの再会を一続きの出来事にするからだ。可能性の上では対等な二つの歴史を、AからBへと非対称に語ることで、Aまでの因果が形づくった二人の結びつきを、必然的なものと感じたまま、Bの再会を受け止められる。これが、本作の叙述の仕掛けである。

もう少し具体的にたどろう。瀧は、山中の御神体に供えられていた三葉の口噛み酒――巫女である彼女が造り、自分の一部として神に捧げた酒――を飲み、Aで起きた彼女の死を追体験する。御神体のそばで瀧の身体のまま目を覚ました三葉も、自分が一度死んだことを覚えている。二人はAの記憶を保ったまま、時の隔たりを越えて互いの姿を見られる黄昏の「かたわれ時」に出会う。そこで交わした言葉と行動をきっかけに避難が進み、Aとは異なるBの歴史が形づくられていく。ただし、Bの歴史が定まるにつれて、Aでの死や入れ替わりを覚えていた二人の記憶は薄れ、最後には互いの名さえ思い出せなくなる。残るのは、「出会うべき誰かを、ずっと探していた」という感覚だけだ。

つまりBの歴史だけをたどっても、二人がAで入れ替わったと証明する記録や記憶は見つからない。だが観客は、AからBまでを一つの映画として見届けている。だから、記憶をなくしたBの二人を、Aで恋をした二人の続きとして受け止められる。これは可能世界をまたぐ同一性の哲学的な証明ではない。映画が観客の鑑賞体験を使って、二つの歴史のあいだに連続性を生み出す、という物語上の仕組みである。

映画が倒叙で始まり、Aの断片を「夢」のようにBの日常へ差し込むのも、そのためだ。Bを生きる瀧と三葉には、身体の入れ替わりや組紐の因果を確かめる記憶が残っていない。それでも観客だけは、二人のあいだに何があったかを知っている。瀧と三葉の再会は、作品の外側にいる私たちが二つの歴史を一つの物語として結ぶことで、はじめて「運命の再会」になる。

だからこそ、『君の名は。』には繰り返し観たくなる力がある。映画を観るたび、私たちはAの別れとBの再会を、同じ二人の出来事としてつなぎ直す。再会を確かめるたびに別れの痛みもよみがえり、その痛みが、また結末を見届けたいという思いを呼ぶ。ファンが映画館へ戻る経験を、この作品の構造に即して言い表すなら、二人の結末を観客がそのたびに結び直す、終わりのない循環だと言えるだろう。

観客だけが二人を結ぶのか

二人の間 通り過ぎた風は どこから寂しさを運んできたの

泣いたりしたそのあとの空は やけに透き通っていたりしたんだ

――RADWIMPS「なんでもないや」

互いに振り返り、呼び止めるあの再会に、私たちは安堵する。心は晴れ、二人はたしかに出会えた。それでも野田洋次郎の歌声は、二人のあいだを吹き抜ける風に、一抹の寂しさを忍ばせる。映画館のなかで満たされた私たちも、外へ出れば、ふたたび自分の寂しさや孤独に向き合わなければならない。この結末は、映画館の外の人生まで解決してはくれない。

しかし、二人の再会を支えるものは、本当に観客がABを結び直す仕掛けしかないのだろうか。二人が過ごした楽しい日常も、町を救うための努力も、観客の視点に頼らずに二人を結ぶ力にはなれないのだろうか。私は、そうは思いたくない。

たとえば、二人は実は互いを忘れておらず、世界の歴史が書き換わったあとも、愛が記憶を守ったから最後に再会できた、と考えることはできる。この読みなら、身体を入れ替えて過ごした日々も、町を救った努力も、まっすぐな恋の物語として残せるだろう。

しかし、それでは、基準日から八年間、互いを思い出せないまま東京の街角ですれ違いつづけた二人の時間をどう考えればよいのか。自分が探しているのが人なのか、何かなのかすらわからない。それでも「もう少しだけでいい、あと少しだけでいい」と願い、手がかりもなく探しつづけた。答えのないまま探しつづけることも、二人が自ら選び取った行動ではなかったか。記憶がひそかにすべてを教えていたとすれば、この八年間の迷いや努力は、最初から答えの決まった道を歩いただけになりかねない。

Aで三葉を救えず、再会も果たせなかった悲劇ばかりを重く見て、Bを生きる二人の努力を軽く扱ってはならない。どこまでも純粋な運命の恋を求めるあまり、その裏側にある寂しさと孤独を見落としてもならない。この映画が、愛によって記憶まですべて守られる物語なら、二人の名を消す必要はなかったはずだ。「未来で待ってる」という約束を交わし、記憶を保ったまま未来で再会すればよい。その構造だけなら、『時をかける少女』が描いた、時を越えて約束の相手を待つ物語を繰り返すことになる。

『君の名は。』が描くのは、「宿命の鎖を打ち破る」といった大仰な勝利ではない。宿命に翻弄されながら手を伸ばしつづけ、最後にささやかな望みをかなえる物語だ。だからこそ主題歌は、「もう少しだけでいい、あと少しだけでいい」と歌うのである。

消えることのない感覚

とはいえ、意識の上では初対面となる最後の再会を、寂しさと孤独だけが残る結末として見る必要もない。Bの歴史には、Aで二人が出会ったことを証明する記録も記憶も残っていない。それでも、階段で向き合う二人を、町を救ったあの二人の続きとして見ることはできないだろうか。ここで探したいのは、Aにいる二人とBにいる二人が、まったく同じ経験をもつという証明ではない。叙述の仕掛けや観客の記憶に頼らなくても、Bの二人の内側に残り、Aから続く二人だと感じさせるものだ。

作中の「産霊(むすび)」を、その答えにすることはできる。三葉の祖母は産霊を、人と人や時間を結び、ほどけてもまたつなぐ力として語る。ならば、産霊が二人の魂の奥底に記憶を刻んだので、歴史が変わっても、魂の次元では出会った二人のままだった、と考えられる。しかしそれでは、最後の再会を神や産霊といった外からの力に委ねることになる。Bで何もわからないまま探しつづけた二人自身の時間は、やはり背景へ退いてしまう。

意識的な記憶をそのまま残せば、八年間の迷いと努力の意味が薄れる。Bでの努力だけを重く見れば、入れ替わって過ごした日々とのつながりが切れてしまう。観客の視点だけに頼れば、二人の出会いは、映画が上映されるたびに外から結び直されなければならない。産霊だけに頼れば、二人自身の選択が見えにくくなる。では、Aの日常とBの努力をどちらも失わず、二人の内側で二つの歴史をつなぐものは何か。

答えは、世界を越えても自分の内に残る相手の痕跡、すなわち本稿でいう「無意識」と、そこから湧き上がる、あの消えることのない感覚である。それは、「愛」という大きな言葉やロマン主義的な物語の枠組みだけでは捉えきれず、本人にも由来を説明できないほどささやかで、日常に深く沈んだ感覚だ。それは二人自身の内側から現れるので、観客が物語を結び直したり、超自然的な力が記憶を守ったりしなくても残る。かといって、二人の意志に属し、自在に呼び出せるものでもない。記憶でも信念でもないのに、それらより深いところから二人を動かす。この感覚は何から生まれ、どう再会へつながるのだろう。

記憶は消えても

その問いに答える前に、一つの場面を振り返ろう。三葉の友人で避難計画に加わった早耶香が、無断で放送していたことが露見し、もう一人の協力者である勅使河原も自分の父に呼び止められる。計画が行き詰まるなか、彗星の分裂を目にした三葉は、地面に激しく倒れ込む。そして、誰かと交わしたはずの約束を思い出そうとする。握りしめていた手を開くと、そこには「すきだ」と書かれている。一度途切れた「スパークル」が、ふたたび流れはじめる。

愛し方さえも君の匂いがした

歩き方さえもその笑い声がした

――RADWIMPS「スパークル」

三葉は、誰がその言葉を書いたのかも、自分が誰を好きだったのかも、もう思い出せない。それでも、誰かから受け取った勇気と、誰かへ向けた恋心は残っている。彼女は泣きながら、そして笑いながら立ち上がる。画面には、その後の三葉が大きな歩幅で、腕を強く振って走る姿が映る。入れ替わりの初めに、おずおずと走っていた姿とは明らかに違う。

ここまでが画面上で確認できる動きである。その力強い走り方に、瀧が三葉の身体で走ったときの面影を読むのは、本稿の解釈だ。作品が一義的にそう説明しているわけではない。それでも私は、記憶も名前も消えたあとに、相手の身体を生きた経験の痕跡、すなわち本稿でいう「無意識」が、本人の気づかない身ぶりとして表れていると、この場面を読みたい。

自分のものではないしぐさ

知らぬ間に身についてしまった癖がある

たとえば、焦った時に首の後ろ側を触ること。顔を洗う時、鏡に映った自分の目を覗きこむこと。急いでいる朝でも、玄関から出てひととき風景を眺めること。

――小説版『君の名は。』

首の後ろには何もないのに、焦るといつもそこへ手をやる。自分の目なのに、鏡をのぞくと、その奥に何かがいるように感じる。時間がない朝も、見慣れた風景の前でふと立ち止まる。どれも自分の癖でありながら、なぜそうするのかを自分では説明できない。瀧と三葉を八年にわたって悩ませ、同時に支えつづけた感覚は、まずこうした、由来を思い出せない身ぶりとして現れる。

ここでいう「無意識」は、単に思い出せなくなった記憶の別名ではない。本稿では、互いの身体を生きた経験が、本人の自覚の及ばないところに残した痕跡をそう呼ぶ。それは意識的に思い出せる記憶でも、単なる肉体の変化でもない。現に生きている自分の内にありながら、相手に由来する痕跡なのである。

ここで、原因から再会までの流れを整理しておこう。出発点は、二人が互いの身体を生きた経験である。その経験から身についたしぐさや、内側から知った体温、鼓動、息づかいの感触は、出来事の内容を意識的に思い出せる記憶が失われても、本稿でいう「無意識」、つまり本人の自覚の及ばない痕跡として二人の内側に残る。その痕跡が、理由のわからない懐かしさや恋しさ、喪失感を呼び起こす。本稿が「消えることのない感覚」と呼ぶのは、この由来のわからない感情である。そして再会のとき、自分の内に残る相手の痕跡と、相手の動きに見える自分の痕跡とが呼応し、互いを見つける手がかりになる。その痕跡そのものが相手の身元を証明するわけではない。それでも、そこから湧く感覚が、何も知らないはずの相手をかけがえのない誰かとして感じさせるのである。

たとえば、こんなことがあった。あるとき食堂で同級生と食事をしていると、箸の持ち方がおかしいと不意に指摘された。私の人差し指は箸にまったく触れず、中国の伝統舞踊や伝統演劇で用いられる手の形「蘭花指(らんかし)」に似ているという。二十年以上生きてきて、そんな癖があるとは知らなかった。指摘された瞬間、箸を持つ手が自分のものではないような、不思議な感覚に襲われた。いつ身につけたのか、記憶にはない。それでも、この癖はまぎれもなく私の身についていた。

瀧と三葉を悩ませているのも、このような「自分のものなのに、自分だけのものとは思えないしぐさ」だ。朝目覚めると、意志に反して涙がこぼれる。思わず手のひらを見つめる。玄関先で、なぜか風景を眺めてしまう。杉井光『終わる世界のアルバム』の言葉を借りるなら、瞬きをするたび、心臓が脈打つたび、ひと呼吸するたびに、自分のものではない何かを感じる。すべてが、すでに忘れてしまったあの人の色に染まっている。こうした「自分のものではないしぐさ」の奥にある、相手に由来する痕跡こそ、本稿でいう「無意識」である。

身体が入れ替わる日常のなかで、二人が交換したのは、身体や意識だけではなかった。

あいつの体温も鼓動も、息づかいも声も、まぶたを透かす鮮やかな赤も鼓膜に届くみずみずしい波長も、俺は確かに感じていたのだ。

――小説版『君の名は。』

彼女がどんなふうに息をし、耳を澄ますのか。彼女の心臓はどんなふうに脈打つのか。

彼がどんな歩幅で歩き、どう微笑み、どのように瞬きをするのか。

彼女が走ると、髪が背中でどう揺れ、胸のふくらみがどう弾むのか。

彼の目には、世界がどの高さから見えるのか。その身体の熱を、内側からどう感じるのか。

どれも、意識して覚えた事柄ではない。相手の身体を生きるうちに、いつの間にか刻まれた経験である。歩幅や微笑み方、瞬きは、自分の身ぶりの一部になりうる。体温や鼓動、息づかいは、相手をまねて身につける動きではないが、相手の身体を内側から知った経験として沈殿する。記憶そのものでも、肉体そのものでもない。内容を意識的には思い出せなくなっても、それらの痕跡は本稿でいう「無意識」として残り、理由のわからない懐かしさや喪失感を呼ぶこともあるだろう。

誰のものとも知れない呼吸、誰かを思わせる瞬き、理由もなく早まる鼓動。いつの間にか力強くなった三葉の足取り。いつの間にかやわらかくなった瀧の笑い方。私はそこに、互いの身体を生きた経験が、本人の自覚の及ばないところに残した痕跡を読み取る。

だから、二人は探さずにはいられない。自分のなかに残る、いつ、なぜ身についたのかも覚えていない身ぶりや説明のつかない感情は、いったい誰に由来するのか。本稿で「無意識」と呼ぶ痕跡は、誰かがいたはずだという希望を与える一方で、その人が誰なのか、何があったのかまでは教えてくれない。「誰かがいたはずだ」という思いそのものが、自分の思い込みにすぎない可能性さえ消えない。希望があるから探しつづけられる。しかし答えが見つからないかぎり、その希望は深い絶望と隣り合わせでもある。

互いを見つけられた理由

では、最後に二人を出会わせたものは何か。自分のなかにありながら相手に由来する痕跡、すなわち本稿でいう「無意識」である。反対から見れば、相手のなかに残っている、自分に由来する痕跡だ。

ここから先は作中の台詞ではない。ここまでの解釈を、仮に瀧と三葉それぞれの内心の言葉として語り直してみる。

会った覚えのない少女。その歩き方に、俺が彼女の身体で走ったときの力強さがある。その笑顔に、俺の表情の名残がある。瞬き、呼吸、鼓動、こぼれた涙、声にならない嗚咽。その一つひとつに、俺の一部が見える。

会った覚えのない少年。そのまなざしの奥行きに、私の視線の名残がある。髪の揺れには、私の軽やかさが宿っている。瞬き、呼吸、鼓動、ためらうしぐさ、意を決して振り返る姿。その一つひとつに、私の一部が見える。

だから、俺のなかに俺のものではないものを残したのは、君だった。

だから、私のなかに私のものではないものを残したのは、あなただった。

走る電車の窓越しに相手を見つけたあと、二人は駅を飛び出して走る。画面に見えるのは、ハイヒールを履いた三葉が大きく足を踏み出して走り、瀧がためらいながらも相手を追う姿だ。三葉の力強い足取りに、瀧が彼女の身体で走っていた姿を、瀧のためらいがちな動きに、入れ替わりが始まった頃の三葉を重ねるのは、先ほどと同じく本稿の解釈である。男女それぞれに決まった走り方があると言いたいのではない。長い時間を隔てても、互いの身体で身につけたように見えるしぐさが、それぞれの動きに残っているという読みだ。その意味で、三葉の足取りには瀧の面影があり、瀧の足取りには三葉の面影がある。

二人を再会へ導いた、あの「消えることのない感覚」は、思い返せば、すでに次の台詞に含まれていた。

私たちは、会えばぜったい、すぐに分かる。私に入っていたのは、君なんだって。君に入っていたのは、私なんだって。

本稿が初めて中国語圏で発表されたこともあり、この台詞をどう訳すかは、私にとって重要な問題だった。当時目にした中国語の公式字幕では、「私と身体を交換したのは君で、君と身体を交換したのは私」という意味に訳されていた記憶がある。それを誤訳と断定したいわけではない。ただ、日本語の「入っていた」には、過去の入れ替わりを述べるだけでなく、その経験の余韻がいまも二人の内側にある、と読む余地がある。身体がもう入れ替わっていなくても、私の身ぶりは君のなかに、君の身ぶりは私のなかに残っている。この台詞は、そうした読みを許している。

瀧と三葉をつなぎ、最後の再会へ導いたものは、大仰な信念でも、すべてを思い出させる奇跡でもない。互いの身体を生きた経験が本人の自覚の及ばないところに残した、日常のしぐさや呼吸や鼓動の痕跡。その痕跡から湧く、理由のわからない懐かしさである。二人の運命は、産霊だけに決められたものでも、意識的な記憶や意志だけに支えられたものでも、観客の視点だけが作り出したものでもない。それを支えるのは、二人自身の内側に残った「無意識」である。だから二人は、誰を探しているのかもわからないまま、それでも探すことをやめなかった。

名前を忘れたからこそ、二人は八年の迷いを自分自身で生きなければならなかった。それでも本稿でいう「無意識」が消えなかったからこそ、入れ替わって過ごした日々も無意味にはならず、名の忘却さえ、最後の再会を促す契機へと反転する。Aで分かち合った日常と、Bで重ねた粘り強い努力が、ここではじめて一つにつながる。あの再会が寂しさを消し去らず、寂しさがあるからこそ再会の喜びがかけがえのないものになる。その両方を同時に抱えているところに、この結末の尊さがある。

新海誠の感性、セカイ系の感性

先に記した、私自身の箸の持ち方をめぐる話には続きがある。同級生に自分でも知らなかった癖を指摘された年の十一月、私は『君の名は。』をもう一度観るために香港へ出かけ、親戚と食事をした。そこでふと気づいた。もう何年も会っていなかった親戚も、その日初めて会った親戚の子どもも、私とまったく同じ形で箸を持っていたのである。

そのとき私は思った。おそらく新海誠が描きたかったのも、こういうことではないか。血のつながり、運命、愛、他者との結びつき、さらには世界との関わりさえ、いつも大事件として姿を現すわけではない。自分では気づかない箸の持ち方のように、ごく身近な日常のなかに、ひそかに刻まれていることがある。セカイ系が日常と非日常を隣り合わせに置くのは、社会から目をそらし、非日常の空想へ逃げ込むためだけではない。日常を注意深く見つめれば、その片隅には初めから、自分を越えた何かへ通じるしるしがある。その感覚を描くためなのである。

本稿はAnitamaで初出。© 紅茶泡海苔 / Anitama

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