匿名氏1
先日、複数の幽霊主体(匿名の論者たち)からなる筆者は、『かぐや様』について書かれた次のような記事(以下「先行記事」と呼ぶ)を目にした。
次元の壁を破る:『かぐや様』の「現実の恋愛」を語る(言葉文化)
このタイトルを見たとき、私は真面目な構造主義的解釈だと思った。ところが実際には、その大半が戯謔的な曲解である「過剰解釈」だった(ははは、もちろん、この四文字も戯謔だ。何しろ筆者の号は、しょっちゅうそう評されるのだから)。
私たちは解釈の自由を守らなければならない。だから本稿は、先行記事に対して「『浅い読者』(Bilibiliのコメント欄で高評価を得たコメント)の理解を超える解釈をしてはならない」と叱りつけるものではもちろんないし、論者たちに特定の解釈を金科玉条として受け入れ、別の解釈を禁じるよう迫るものでもない。
ここでは、先行記事のいくつかの文言を、あえて文脈から切り離して抜き出してみよう(もちろん、そうするのは本稿自身の完結性のためだと、すぐに念を押しておく。文脈からの切り取りではないかと疑う読者は、先行記事の全文を読んでから本稿を読めばよい)。
白銀にとって、家庭環境の不利は秀知院に入った時点から、誰と結婚しようと、この運命に直面することを意味する。ならば、その中で最も強大な四宮家を選ぶほうがよい。どうせ自分を売るのなら、高く売ったほうがいいし、ちょうど自分はかぐやお嬢様とある程度の男女の情愛もある。外へ出てほかの女性を探すにしても、白銀御行はいま、自己研鑽のために時間と精力を切実に必要としている。そこまで考えると、彼の選択肢は実際には二つしかない。四宮かぐやか藤原千花、ひとりは政界のボス、もうひとりは財界のボスだ。白銀からすれば、当然、自分を好きでいてくれ、自分もより強く好いている四宮お嬢様を選ぶ。そして四宮家に入ったあと、その勢力を借りて政界へ進み、さらに上へ発展していくのも、当然の帰結になる。
では、この記事は何をするのか? 筆者がきわめて不適切だと考えるこの解釈に反対する、反批評である。
先行記事について、筆者は二つの層を取り出して考える。一つは、作者による『かぐや様』という作品の解釈であり、この解釈によって白銀は、恋愛や結婚を富と権力を得るための踏み台にする男へと変えられている。もう一つは、この解釈が『かぐや様』という具体的な作品を離れて浮かび上がらせる、解釈の論理と態度である。本稿の反批評は、おおむねこの二つの層に沿って展開する。
第一の層への反批評で、明らかにしておきたいことが一つある。おそらく、本稿の冒頭で述べたように、先行記事の言葉はすべて、作者から読者までが戯謔的な曲解だと分かったうえでのものなのかもしれない。ならば、なぜ本気にするのか?
第一に、先行記事は題材の内容から言葉遣いにいたるまで、「君も私も荒唐無稽だと思って、はははと笑い飛ばす」ような戯謔的曲解だけをしているわけではない。むしろ実際には、白銀の行為を根拠あるものとして肯定する独断や、現実のあり方を暴き出す「これは正常だ」「答えは当然成り立つ」「この点が分かれば、何が分かるのかも分かる」「だからこちらを選ぶほうがよい」「……自然に当然の帰結となる」といった、不安を覚えさせる価値判断を伴う断定が数多くある。これらまで完全に戯謔だというのか?
作者は冒頭で「現実的な角度から」と前置きし、自分もまた戯謔ではない現実の態度を語っているのだと示したのではないか? もし作者が、「これはただの冗談で、私は本当はまったく賛成していない」と宣言することで批判から逃れようとするなら、こちらも、先行記事自身に、あとから出された作者の宣言へ反対させてみよう(解構と呼ぶことすらできないかもしれないが)。
第二に、この記事が大きな影響を持つようになったときには、たとえ作者の当初の意図が完全に戯謔で、そういう白銀の解釈にも、その背後にある解釈の論理や態度にもまったく賛成していなかったとしても、大多数の読者も本当に同じなのかを問わなければならない。
読者が二つの層――作品内の人物の解釈と、解釈の背後にある、テキストを超えた論理や態度――の両方で同意する可能性はないのか? こうして、筆者と以下の幽霊たちは、反批評を行う足場を得ることになる。
幽霊氏1
先行記事の作者が示しているのは、貨幣物神性(貨幣フェティシズム)へと導く懐疑主義である。彼の愛の解釈では、愛は汚れた欲望の仮装にすぎず、いわゆる「愛」はすべて利益交換へ還元できる。結局、この解釈では、愛はなお「他人を通じて自分と関係すること」へ戻ってしまう。
しかし、私たちは愛の真実がそうではないことを知っている。恋愛する双方の身分に差があるというだけで「愛」を汚れた利益交換と解釈するなら、私たちは結局、「階級」(いや、身分と言ってもよい)の門前に立つことになる。一つの推論は、同じ階級の者同士でなければ「愛」は生まれないというものだ。だが、そんなことを正しいと思う人は、明らかに誰もいない。
バディウの見解を借りれば、「愛」は「二人」についてではなく、「一」についてのものだ。そして、こうもいう。
熱愛中の恋人なら誰でも知っている。愛はここにある。身体を守る天使のように、朝目覚めると、二人の身体はいずれも愛の宣言を聴き、名状しがたい清らかさを感じる。
——アラン・バディウ『愛の多重奏』(中国語版からの訳)
このような美しさを、利益交換を覆い隠す偽りの包装だと大いに断罪するなら、「愛」と名づけられたあの情熱の現前を、私たちはどう認めればよいのか?
『かぐや様』のテキストへ戻ろう。物語の背後にある巨大な資本機械を宙吊りにしたのは、まさに「愛」ではないのか? それは、情熱的で、ときには過激すぎて、作品の外にいる観客を笑わせ続けるような愛である。だが、まさにその愛が、利益交換の袋小路を突破する可能性を私たちに与えてくれる。支配/被支配を超えるのは、愛だけなのだ。
無名氏2
この文章が『かぐや様は告らせたい』を過剰解釈したとは、私は言わない。観客の誕生は作者の死の上に築かれる。つまり、観客には作品を解釈する権利があり、そこには解釈がよいか悪いかの違いがあるだけだ。ただし、先行記事のこの解釈の仕方には、明らかに賛同しがたい。
この文章の最大の問題は、恋愛を功利化し、金銭至上主義の俗悪な解釈論理を広めていることだ。私には、それ自体がいささか俗悪に思える。記事は「現実」を題に掲げ、四宮家の財力を解説し、主人公がこの恋愛のなかで持つ権力と利益の関係を分析しようとしている。だが、それは明らかに原作の意図から外れている。
作品から離れたこの解釈は、先行記事が描く「現実」を打ち破る可能性を私たちに示すどころか、戯謔的な口調で読者をこの「現実」の前にひれ伏させ、何でもできる大文字の〈貨幣〉の前にひれ伏させている。
作品の白銀は、自分が金に目のくらんだ小人物だなどとは、まったく言っていない。それどころか、金も権力も持つ友人が大勢いてもなお働き続ける、自分で働いて生きる正義の人である。作品中の白銀は、相手への愛に大人の世界の利害関係が混じっているなどと、ほとんど語っていない。作品には、論じ、掘り下げることのできる角度や余地が、もっとたくさんあるはずだ。
記事は、努力して生徒会に入ったあと、「白銀が恋愛相手として選べるのは、政界のボス千花か、財界のボスかぐやの二人だけだ」という偏った仮定を持ち出し、読者をよくない思考の方向へ誘導しようとしている。
私が『かぐや様』を戯画化して曲解するとしたら、白銀という名の字面にある金属の意味を、『鋼鉄はいかに鍛えられたか』へ接ぎ木して、からかい半分の、ひとりよがりな『白銀はいかに鍛えられたか』を書くかもしれない。
底辺労働者の出身である白銀が、腐朽した大ブルジョワ階級の出身で、世間知らずだが泥中から出ても染まらないお嬢様・かぐやに、救いようもなく恋をする……。恋はかぐやの父親に妨害され、二人は周囲の友人たちの助けを借りて駆け落ちへ向かう。最後は和解して大団円とはいかないかもしれないが、それでも二人は一緒に暮らすことを選ぶ……といった具合だ。こうした曲解と戯謔の態度や論理は、先行記事とは明らかに別物である。

私たちは通常、金銭的利益と恋愛を結びつける言説を避けるものだ。ところが先行記事は、このような人目を引く言い方を使い、それを売りにして観客の目を奪っている。
私は、記事のタイトルに「現実の恋愛」という言葉が大書されていることも知っている。それで責任の一部をかわそうとしているのだろう。それでも、こうした解釈が適切かどうかを、記事はもっと慎重に考えることができなかったのか?
匿名氏2
漫画評論として見るなら、先行記事は、一部の漫画評論家が守ってきた評論の純粋性――テキストを有機的に組み立てて解釈し、業界のことを除けば、テキストの外部についてはあまり語らないこと――を失っている。社会の現実に踏み込んでいるのだ。これは、それ自体は問題ではない。
社会科学の観点から先行記事が「現実」を持ち込み、分析していることを理解すると、そこには交換論的な枠組みがある。だが、その枠組みの理解は、民話めいた戯謔と奇をてらった面白がりにとどまり、多面的で真剣な論証を欠いている。
もちろん作者は、自分はただ単純な戯謔的曲解をしているだけだと宣言して、より真剣な論証を求める批判から逃れることもできる。しかし批判理論の角度から見れば、問題は大きい。「愛」の俗悪な理解もその一つだ。
そして、拡散の波に乗る先導役として、先行記事の文章は、結果の知れない影響を生む働きをしている。この点で、社会の現実における男女の恋愛・結婚と経済力の関係を大げさに吹聴する記事と通じるところがある。
そうした記事も、自分はこのような恋愛価値観を絶対に認めないと強調しながら、疑わしく、煽動的な口調で、読者の不安と現状への同意を燃え上がらせる。違うのは、先行記事が『かぐや様』を例にしているのに対し、ほかの知乎の回答や記事は、主流の映画やテレビドラマを例にするかもしれないというだけだ。これは、言葉が現実を作り出す遂行的な働きである。
私たちは、これに馴染みがないだろうか? 解釈は自由だ。テキストの外へ出て、作品の設定をつかみ、解釈を膨らませることもまったく問題ない。
だが、こんなふうに差し出されたこの皿を前に、私たちは「なんてリアルなんだ!(これも不安商法の記事によくある高評価コメントだ)これが現実だ!」と大声で叫びながら、この皿を食べ、しかも意図するにせよ意図しないにせよ、「あの野菜(『かぐや様』など)は、本当にこんな味の料理に向いているのだ」という印象を残してしまうのではないか?
匿名氏1
さて、この反批評を簡単にまとめよう。反批評は批評の自由に反対することではなく、先行記事のような解釈の内容に反論することである。
本稿(先行記事ではない)への応答では、「どうしてこんな解釈をしてはいけないのか」と言わないでほしい。できる、しかし私はこの解釈に反対する。「先行記事の作者は、みんなを笑わせるために冗談を言っただけだ。白銀が本当にそんな人物だとも、自分が書いた戯謔的な文章の価値観に本当に賛成しているとも思っていない」と言うのもやめてほしい。
まずは本稿冒頭の二段落を押さえてほしい。そのうえでなら、弁護を続けてもよい。
私は、白銀を俗悪な人物にし、ほかの登場人物をすべて自分の成功のための道具扱いの人間(いわゆる「工具人」)にし、好意や恋愛を、相手が金と権力を持っていることに加えて、たまたま好感を抱いているという調味料にすぎないものとして描く、いわゆる「ハードコア」な人物描写に断固反対する。
先行記事の作者は、こんな解釈が読者に何をもたらすのか、自分に問い直してみるとよい。ただ単に笑って終わるだけなのか? それとも、何か不安な汚染がひそかに食い込み、実際には、戯謔によって表面上暴き出された「現実」を強めてしまうのではないか?
先行記事の作者がこのようにテキストの外へ踏み出す「ハードコア」な解釈を試みるとき、そこから解釈された「現実」に、もっと慎重な思考が欠けていないかを、本当に考えたのだろうか?
もちろん、先行記事のなかで、(血統の)「純潔性」と「血統最適化」がどんな意味で両立するのか分からないこと、前の段落では「株式の支配は婚姻よりはるかに現実的だ」と言っていたのに、次の段落では突然株式を忘れて外部資金の話をし、なぜ単純に株式を譲渡できないのか(あるいは、株式を通じた、はるかに現実的な利益交換のほかの方法はないのか)を考えていないこと――そうした細部の問題については、これ以上広げて論じない。ここが主要な問題ではないからだ。
本稿の匿名の幽霊たちは、こうして先行記事を問い詰めることが、かなり敵意のある行為だと、もちろん承知している。だが実際には、私たちには個人的な敵意はほとんどない。私たちが攻撃しているのは解釈であって、解釈の作者個人ではない。