
0 FGO第2部をどう解釈するか、あるいは私たちにはどのようなディストピア読解が必要なのか
『Fate/Grand Order』は、金を巻き上げるスマホゲームのなかでも、近年もっとも影響力のある作品の一つだ。すでに型月帝国の作品系譜の重要な一角を占めている。もっとも物議を醸す一角でもあるのかもしれない。FGO第2部の物語が中盤に差しかかるにつれ、異聞帯宇宙という設定が示そうとする物語の型も鮮明になってきた。ある意味で、七つの異聞帯は、型月世界の歴史が別の可能性をたどった先にある、七通りのディストピアの現在なのだ。そして、こうしたディストピア構想をめぐる論争も、論じるに値する。たとえば2.3の中国異聞帯は、日本版で配信されたときには「中国の強大さを表現したものだ」ともてはやされたのに、中国版での配信後には「中国への侮辱だ」と非難された。もちろん、こうした議論など、ディストピア作品の味わい方を知らない凡俗な大衆が、さほど出来のよくないディストピアの商業作品に向けた見当違いの意見にすぎない、と言うことはできる。だが、ディストピアの物語が指し示す可能性を理解し、消費するだけで、こうした主題を扱うテクストにふさわしく向き合ったことになるとは言いがたい。
かの著名な哲学者スラヴォイ・ジジェクは、歴史上、独り語りの芸で食べていける哲学者三人のうちの一人だと評されたという。評したのは、思弁的実在論の代表的人物グレアム・ハーマンである。そのジジェクは、『侍女の物語』を論じた際、これは現在へのノスタルジックなフェティシズムだと指摘した。この作品は、宗教原理主義の脅威を告発し、その帰結を描こうとしているのではない。宗教的全体主義というディストピア的未来の可能性を借りて、「多元的で開かれた進歩的な」現在をフェティッシュにし、礼賛しているのだ。私には、この批判はむしろFGO第2部にこそよく当てはまるように思える。空想樹の切除は生き残るためのやむをえない戦いだといくら言おうと、また、プレイヤーに「悪をなす」罪悪感を負わせないために、書き手が汎人類史と比べた異聞帯の「誤り」を強調しようと、それはいずれも現在の世界への礼賛である。つまり、これらのテクストが実際に強調しているのは、「希望のある汎人類史に生まれて、本当によかった!」ということだ。ある意味では、日本人がよく口にする「日本で暮らせて、本当によかった!」と似ている。こうして、異聞帯のディストピアとの理念をめぐる戦いは、異なる歴史のあいだで、どちらがまだマシかを競う争いへと後退する。ディストピアの可能性への批判も、新自由主義の倫理と多文化主義の組み合わせを主流の価値観とする現実への礼賛へと後退する。唯一まだマシなのは、この争いの正当性を、抑止力が裁定した「正しい歴史」という、かなり全体主義的な言い分に求めてはいないことだ。代わりに持ち出されるのは、異聞帯そのものの抑圧性と、存続を不可能にする内的矛盾である。だが、この少しばかりマシな点こそが、かえって主流イデオロギーへのいっそうの迎合を示している。
しかし、こうしたテクストは、イデオロギーの再生産を支える役割しか果たせないのだろうか。『侍女の物語』がただの「現在へのノスタルジックなフェティシズム」でしかないなら、なぜジジェクはさらにそれを論じようとするのか。ジジェクは、『侍女の物語』の具体的な筋立てが、読者や観客が男性支配の構図に見いだす猥雑な享楽に迎合し、作品が実際には現在を礼賛していると指摘したうえで、さらに問うべきことを示す。ノスタルジックに礼賛される、「自由で進歩的で女性を尊重する」現在のアメリカが、なぜ宗教的全体主義のもとで女性を残酷に抑圧するギレアデ共和国へと変わっていくのか。「古きよき時代」を懐かしむときにも同じことを問わなければならない。なぜその時代は、ノスタルジーに思いを託さなければ耐えられない現在へと変わってしまったのか。ディストピアの幻想を支配するイデオロギーの要素は、私たちの現実に内在する構造であり、それどころか、現実の一側面そのものなのだ。ディストピアは決して現実と対立し、現実のすばらしさを引き立てるための別世界ではない。逆に、つねに私たちの現実と同じ構造をもつ。ディストピア作品を解釈するときに肝に銘じるべきなのは、平穏で調和した現実があの恐ろしい可能性へ滑り落ちないよう警戒せよ、ということではない。反対に、私たちはすでにその可能性の範囲内にいるのだ。だからこそ、テクストとしてはラディカルさを欠くディストピア作品をラディカルに読み、その批判的な力を再び呼び起こす必要がある。

1 黒き最後の神、それとも黒き最後の人?
異聞帯宇宙のディストピアと現実が同じ構造をもつことを論じるなら、直感的には、誰もが「Lostbelt No.3 人智統合真国 シン」を思い浮かべるだろう。だが私には、執筆時点で中国版に公開されている四つの異聞帯のうち、もっとも重要なのは、むしろ「Lostbelt No.4 創世滅亡輪廻 ユガ・クシェートラ」だと思える。他と比べれば神話的な背景の比重が大きいとはいえ、そこには重要なイデオロギーの構造とその行く末が確かに示されている。
「Lostbelt No.4 創世滅亡輪廻 ユガ・クシェートラ」の物語の副題は、「黒き最後の神」である。だが第19節で明らかになることを踏まえれば、私たちはこの「神たるアルジュナ」こそ「黒き最後の人」だと考えなければならない。
インド異聞帯で歴史が分岐したのは、『マハーバーラタ』におけるクルの戦いのあとである。アルジュナはこの戦いを嫌悪し、振り返るなかで、あの血なまぐさく悲惨な大戦が起きた原因を、人の世の悪、すなわち「不完全で不要なもの」がいまだ根絶されていないことに求めた。そこで諸神の力を一つに集め、繰り返されるユガの輪廻のなかで、悪のない完全な世界を築こうと決意した。インドラの化身であるアルジュナは、他の神々の神性を次々と奪い、ついにはインドの神々を呑み込んで唯一の神、すなわち「黒き最後の神」となる。名を失った神アルジュナは、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの神性を用い、それぞれ17億2800万年、12億9600万年、8億6400万年、4億3200万年を周期とする四つのユガを、4日、3日、2日、1日へと縮めた。1 10日ごとに創世から滅亡までの輪廻を一巡させ、世界を滅ぼす力によって、神が「不完全で不要」と見なした存在をそのつど取り除くのだ。そこに暮らす人々は、10日間のうち最初の4日間を美しい楽園で過ごす。そこから世界そのものが堕落しつづけ、最後の1日には末法の時代と、絶え間なく襲いくる魔獣カリを迎える。そのあと、世界は彼によってリセットされ、神が悪と判定した存在は、新しい時代にはもう存在しない。
しかし、第19節でカルデアのサーヴァント、カルナはアルジュナを否定する。本当に完全な神になったのなら、なぜカルナの名にそれほど大きく反応するのか、と。 インド神話のすべての神性を得たアルジュナは、人間性の大半を失い、創世と滅亡、そして審判を維持する自動機械のようになった。だが、その核心にあるのは、そうした非人間的な神性の機械ではない。逆に、アルジュナという人間がクルの戦いに抱く執念こそが、彼をもとに成立した唯一神の行動を支配している。神意を支えているのはアルジュナの欲望だ。その欲望が向かう先は、悪の証であるクルの戦いだ。そしてこの欲望こそ、神が裁定することはできても、取り除くことのできない悪なのである。悪を欲する正義、その核心は悪である。
しかし、黒き最後の神を根底で動かしているのが、神ではなく人間の欲望だということは、作中でそうされているように、彼の神性がまだ不完全である証拠と見なすべきではない。むしろ私たちは、唯一神の法則は神が定めた法則ではなく、人間に属するものだと言わなければならない。神が悪を裁くことは、人間からきっぱりと切り離された聖なる事柄ではなく、人間のイデオロギーの構造なのだ。聖なる領域は人間のために生み出され、罪悪を排除する仕組みもまた、人間的な、あまりに人間的なものなのである。この仕組みは、ジョルジョ・アガンベンが『開かれ――人間と動物』第9章で示した概念、人類学機械(anthropological machine)を使って論じられるかもしれない。
2 神の目は……見た
アルジュナが悪を排除するために行う輪廻の仕組みと、アガンベンのいう人類学機械による区分が、どこで同じでどこで違うのか。それを論じる前に、一つ明らかなことを指摘しておかなければならない。唯一神となったアルジュナは、異聞帯において〈大文字の他者〉の位置を占めている。異聞帯のあらゆる社会活動は唯一神を中心に営まれ、人々は神の求めるとおりに行動し、祈り、美徳と敬虔さによって神の庇護を得る。神が求める善の基準を十分に満たさない者は、時代が末法のカリ・ユガへと向かうなかで魔獣カリの襲撃を生き延びられないか、あるいは傷を負ったために神から「不完全」と見なされ、その存在を消されてしまう。アルジュナは、あらゆる主体間の活動を媒介する〈大文字の他者〉だと言える。彼はこの位置を占めることで、正当なものも不当なものも含めたあらゆる主体間の活動を可能にし、そのすべてを裁定するのである。
しかし、〈大文字の他者〉はすべての悪を見ることができるわけではない。〈大文字の他者〉には見えない猥雑な補完物があってこそ、象徴秩序は滞りなく存続できる。他方、〈大文字の他者〉が裁定を下すのは、多くの場合、自らが許さない存在を見てしまったからだ。アルジュナが世界を滅ぼす宝具を発動する前の言葉からも、それはわかる。
「神は……視た……。〔中略〕不出来にして……不要。其は、即ち……邪悪、なり。寂滅せよ、邪悪……新しきユガに、新しき世に……在る事、能わず。私は……振るう。終わりの神の……剣を。断たれるは……世界。その刃の、狭間に……透徹なる……浄化が、横溢し……滅亡と、創世が……輪廻する――『帰滅を裁定せし廻剣(マハー・プララヤ)』――」2
ジジェクはイデオロギーを論じる際、〈大文字の他者〉に見られてはならない内在的侵犯こそが、象徴秩序を維持する鍵だとしばしば指摘する。では、〈大文字の他者〉の位置を占めるのが、その表向きの規定にそぐわない非‐存在を取り除くことができ、しかもそれを徹底する行為者だったら、どうなるのか。内在的侵犯について言えば、象徴秩序から排斥される存在には二種類ある。一つは象徴秩序そのものの非一貫性が現れたもの、もう一つは排斥されるという形で取り込まれる猥雑な補完物である。後者は実際には象徴秩序の維持に欠かせない構造だ。たとえば第三OOは、ユダOOを本当に全員OOするわけにはいかない。ユダOOは、つねに滅Oされつつありながら、いつまでもOOされ終わらないのでなければならない。それでこそ第OO国のイデオロギーの再生産を維持できる。3 したがって問題は、もしナOがすべてのユダOOを一度にOOしたなら、どうするのか、ということになる。答えは明白だ。それまでアーリO人と認めていた人々のなかから、新たなユダOOを選び出さなければならなくなる。アガンベンのいう人類学機械は、人間と非人間のあいだに境界を作り、つねに人間のなかから非人間とするものを選び出す。言い換えれば、非人間と判定して排除することで、人間を生み出すのである。ホモ・サケルの排除が共同体の形成に必要な条件であるように、排除された者の存在が本当に消し尽くされてしまえば、新たに排除すべき者を選び出さずにはいられない。
だからこそアルジュナは、一度の輪廻ですべての悪を特定し、一挙に消滅させることができない。宝具を発動するたびに、彼はその世界の基準で判定できる「不完全で不要なもの」を確かにすべて消し去っている。ところが新たな悪は、かつては善とされていた存在のなかから、際限なく見いだされつづけるのだ。だからこそアガンベンも、人類学機械を論じる目的はその作動をどう止めるかを考えることにある、と書いている。呉冠軍はこの概念を論じた論文で、こう書く。「この肉挽き機は、まもなく人類自身を挽きにかかる」。4 カルナとアルジュナの決戦でも、この機械がついにはアルジュナ自身さえ挽きにかかることを逆手に取り、唯一神に自己否定を迫ったのではなかったか。しかも、境界を引きつづけ、非人間を取り除きつづければ、人間も世界もすり減って尽きるほかない。主人公たちが異聞帯に到着して最初に出会う少女の身に起きたことは、その縮図である。この異聞帯のクリア記念礼装は、ある意味で映画『光州5・18』の最後に映る結婚写真に似ている。あの写真で、笑わない花嫁を除き、笑顔の人々はみな全斗煥政権の戒厳軍に殺された。この絵でも、何の夢かもわからないまま、そのなかで笑う少女を除き、彼女を笑顔にしてくれたすべてが輪廻のなかで消し尽くされている。

境界を作りつづけ、その一方を消しつづければ、結局は社会が自らを消滅させることにしかならない。そのことを措くとしても、作動しはじめた人類学機械によって消すべき存在と判別された当人たちや、彼らに共感する者が、このやり方を決して受け入れられないのは明らかだ。アルジュナに召喚されたサーヴァント、ウィリアム・テルは、総督に強いられて息子の頭上のリンゴを矢で射たときの記憶が、輪廻のなかで消されていたことに気づく。その記憶はアルジュナの定めた規則に従う妨げとなるため、「不完全で不要」と見なされたのだ。主人公たちが二度目の世界滅亡に遭遇した際、テルはこのことを理由に反旗を翻し、アルジュナを攻撃する。また、サーヴァントのジャーンシーの女王ラクシュミー・バーイーが率いる反乱軍に加わった一人の女性村民は、すでに消えてしまった恋人の恋文を見つけ、神への抵抗を決意する。そのきっかけを作ったのは、異星の神の使徒であり、人理凍結以来カルデアを苦しめつづけてきたTV・コヤンスカヤの、人の心を弄ぶ行為だった。アルジュナが召喚した、神性を組み込まれたサーヴァントを前に、村の女性はヒステリックに叫ぶ。私の恋人を不完全な存在だと言うなんて!
異聞帯に召喚され、主人公側に加わったサーヴァントたちにも、不完全で存在すべきでないと判定される理由がはっきりとある。ジャーンシーの女王ラクシュミー・バーイーは、村人たちを率いてアルジュナに抗うだけではない。彼女に宿る神性も、ラクシュミーの姉にあたる、不幸をもたらす女神アラクシュミーなのだ。さらに、インドの民族蜂起は結局鎮圧されたのだから、国を滅ぼされた君主であるラクシュミー・バーイーは、自らを女王失格と見なしている。ガネーシャ神の権能には、これといって悪いところはない。だが、その憑依先であり、意識の主導権を握っているのは、『Fate/EXTRA CCC』でカルナのマスターだったジナコ=カリギリだ。彼女はNEETであり、資本主義の労働倫理からすれば、疑いようもなく役に立たない人間なのである。
主人公たちは二度目の世界の再創造を経験したあと、民衆の信仰や服従を揺るがしても、神の力を揺るがすことはできないと確信する。神の善の基準に合わなくなった人々は、直前の神の裁きでみな存在を奪われていた。そこで、主人公側に寝返ったサーヴァント、アシュヴァッターマンの提案に従い、すでに神から「邪悪」と規定された主人公たちは、彼がシヴァの権能で発動する宝具「偉大なる時間よ、爰に廻れ(マハーカーラ・シャクティ)」を使おうとする。仲間をアルジュナの支配する世界の輪廻が始まる前へ送り返し、隠しておく。神が悪と認めた存在でも、神に見えなくすることができると証明し、アルジュナの権能は完全だという、その概念そのものを揺るがすのだ。この任務に赴き、身を隠すための外殻となるのがラクシュミー・バーイー。そして、その内部で意識を保ち、この証明を成し遂げるのが、ガネーシャ神としてのジナコ=カリギリである。

3 NEETでも、空を仰ぎ見る権利はある
神に見えないものを利用して神の力を揺るがす、主人公たちの作戦を論じるにあたり、私が強調したいのは、「見る」ことの意味ではない。神は完全であるはずの象徴秩序のなかに不完全で不要な存在を見つけ、裁くことで、象徴秩序が「完全」へ向かっているかのように見せる。この点は前節ですでに十分に論じた。また、ジナコの途方もない犠牲を論じたいわけでもない。彼女は何千年もたった一人で過ごし、智慧の神の権能で遊び尽くせるあらゆるゲームに飽き、ついには孤独のなかで精神が崩壊し、意識が朦朧となってしまう。だが、これは感動を誘うための筋立てにすぎない。ここで私が取り上げたいのは、主人公とジナコが取り決めた合言葉である。
主人公たちは、いわゆる「神の空岩」、すなわちラクシュミー・バーイーが姿を変えた隠れ蓑へと急ぐ。過去から計り知れない長い時間を過ごしてきた二人を救い出すためだ。主人公は令呪のある手を空岩の底に当て、約束の合言葉を口にする。「NEETでも、空を仰ぎ見る権利はある!」5
ここまでのように、インド異聞帯の仕組みでアガンベンの人類学機械の働きを説明するだけで満足するなら、それは、鍾子黙が中国の書評・レビューサイト「豆瓣」で指摘していた、型月宇宙の作品を批評する際の問題に、そっくり当てはまってしまうかもしれない。鍾子黙によれば、型月宇宙の作品は、もともと抽象概念を具体的な姿で表す作品である。理論によって解釈されたいという作品の欲望に迎合すれば、概念の厳密さが失われ、批評そのものも概念遊びになってしまう。そして私がこのテクストのなかに探している、その概念遊びを超えるための一点こそ、この合言葉なのだ。
ジナコ=カリギリを「不完全で不要」と見なす判断は、歪んだインド異聞帯が下したものではない。汎人類史の社会意識に従い、彼女自身が下した判断である。NEETは誰からも必要とされず、社会にとって不要な余りものだという、ある種の世間の見方や常識が、ゲームの登場人物に内面化されているのだ。「不完全で不要」と見なされ、排除される者たちを論じるとき、NEETが思い浮かぶのは間違いない。そしてあの合言葉こそ、排除された者を容赦なく消しつづける構造に対する、主人公たちの、あるいは作品を支配するイデオロギーの態度なのだ。「不要と見なされる存在であっても、その存在を許容しなければならない!」
ホモ・サケルは、排除されるという形で体系に取り込まれる。それに対し、アガンベンのいう「人間化された非人間」――たとえば人工知能――について、呉冠軍は逆の関係を指摘する。それらは、取り込まれるという形で排除されているのだ。NEETでも、空を仰ぎ見る権利はある。つまりNEETは確かに一段劣っていて、必要とされていない。体系が大いなる慈悲を施してくれて、初めて受け入れられ、基本的な権利を持てるということだ。
ここで私たちは、いくつかの排除のあり方を自分で見分けなければならない。まず、私は先の議論で、象徴秩序の完全な外部にある非‐存在と、排除されるという形で取り込まれ、猥雑なものとして内在的侵犯の役割を果たす非‐存在を区別した。前者は〈大文字の他者〉自身の裂け目であり、〈大文字の他者〉のまなざしが向けられたことのないものだ。後者は、〈大文字の他者〉が卑しいものとして斥けることによって取り込み、自らを支える礎にするもの、つまり〈大文字の他者〉がわざと見て見ぬふりをする部分である。前者は象徴秩序を現実に脅かしうるが、後者として取り込まれてしまうこともある。それに対し、取り込まれるという形で排除されるものは、この二つとは異なる次元に位置する。その場合には、象徴秩序がその存在の実態にそぐわない象徴を与え、根底にある異質性の核を排除するのである。
呉冠軍によれば、人工知能という根本的な非人間を擬人化することは、表面上は人工知能を人間として受け入れながら、その根本的な非人間性の核を排斥する操作にほかならない。そして私が挙げた、NEETを取り込むという形で排除する例には、人類学機械による二段階の操作が見て取れる。まず、NEETを人間のなかの異質なものと判定し、非人間として排斥する。次に、NEETも人間だという言い方によって、この排除された集団を、赦しと寛容があって初めて受け入れられる劣等な集団として固定する。人類学機械は排除によって人間を定義すると同時に、その定義から切り離される余剰を生み出す。排斥された者を再び受け入れるときにも、その人に固有の、定義に収まらない余剰は、象徴秩序の外へと徹底的に排斥される。だからこそ私は、BLMのもっともよい中国語訳は「黒人の命も命だ」ではなく、字義どおりの「黒人がよりよく生きる」だと考える。6 黒人は、他者性を保ったまま人間として受け入れられるべきなのであって、「確かに『人間』の基準にあまりかなってはいないが、それでも人間ではある」というのではない。
排除された者を再び受け入れるという形で、実際にはもう一度排除している主人公たちの考えに対し、カルナのジナコ=カリギリへの態度は違っている。彼は初めから、彼女を頼りにならない存在とも、必要とされない存在とも見なしていない。ほかならぬ彼女の英雄から役目を託されたからこそ、ジナコ=カリギリは自ら戦場に立って戦いつづけ、途方もない重圧と恐怖のもとでも、つねに身を挺してきた。施しの英雄は、人間にふさわしいか、ふさわしくないかという人類学機械の区分を、端から相手にしない。人は誰も自らを引き受けて行動できると、初めから見なしているのだ。排斥された者を周縁や少数者という枠で捉えることに魅せられ、周縁文化や少数者の受け入れを体系に対する正義の要求と考えるなら、それこそが周縁にある者の劣位と、事実上の非人間としての地位を固定する。そのうえ、排除された者の異質性が、社会の主流をなす存在、つまり人類学機械によって人間として合格とされた存在に及ぼす衝撃を、徹底的に排除してしまうのである。
人類学機械の判別と排除の議論を、さらに「取り込まれるという形で排除される」ところまで進めると、インド異聞帯のディストピアと、それに対抗する汎人類史の主流の社会意識――すなわち現実の投影――が、同じ構造をもつことも見えてくる。人類学機械による判別と排除は、ディストピアに固有の性質ではなく、現実に存在する構造なのだ。そして再び受け入れ、そのうえで他者性を排除する操作も、人類学機械が作動した結果を肯定し、その原理に従っている。こうして私たちは、インド異聞帯のテクストのなかからラディカルに読める構造を掘り起こし、同時に、インド異聞帯と汎人類史――ゲームの外の現実――のイデオロギー上の問題を指摘したのである。
4 Nous ne sommes rien, soyons tout!
ジナコ=カリギリに対するカルナと主人公の考え方を比べるのは、主人公の考えを道徳的に非難するためではない。主人公の示すあの考え方は、むしろオタクへの媚びとさえ言える。だが、NEETのように排斥された者を本当に受け入れる方法は、決して安っぽい寛容ではなく、共通の闘争のなかで受け入れることなのだ。
商業ゲームのテクストは、結局のところ、現実への根本的な抵抗を表すことができない。そのため、闘争はいつも、現実と間違った現実のあいだで、どちらがまだマシかを競う争いになってしまう。それでも、そのなかにはラディカルな見解として解釈できるものが必ずある。その点で、私はカルナを選んだ。カルナがジナコ=カリギリに寄せる信頼と、彼女に託す言葉は、私には、ジジェクが論じるレーニンの主人としての姿勢が革命に果たす役割と似た働きをしているように思える。カルナは自らの行動によって自らに権限を与え、その権威をもって、後に続く者たちに、それぞれの行動の責任を引き受けるよう求める。この主人としての指令が行動を可能にする。排除された者にも当然その存在が認められるべきだと承認し、排除された者がラディカルな行動によって自らの存在を獲得することを許すのである。もちろん、こうした「革命の主人」を必要としない新しいあり方を探る必要があるのではないか、と問わなければならない。主人の強制的な命令があって初めて人間は行動を起こせる、というあり方を超えられないなら、ヘーゲルの主奴弁証法において真理は奴隷の側にあるという、あの最終的な勝利を、私たちは永遠に見ることができないのかもしれない。
人類学機械が排除される者を作り出すことに向き合うとき、何よりも避けなければならないのは、その区分を受け入れたうえで排除された者を再び取り込もうとすることだ。そうではなく、この区分そのものを無効にしなければならない。排除された者「も」最低限の承認を得るべきだ、というのではない。排除された者は、初めから存在の全体に属しているのだ。バディウが好んで引用する『インターナショナル』のあの一節のように。「私たちは何ものでもない。だが、私たちはすべてになる!(Nous ne sommes rien, soyons tout!)」7