本稿は、屋顶现视研の企画「拾荒战略 Rags Drum 2020」前夜祭・後夜祭の受賞作品である。
目次: 序文:働く肉体と縛られた魂 一、ゾンビ像の変遷 1)「開かれた社会の敵」、ゾンビ 2)北欧とハイチのゾンビ、肉体と魂 3)怪物大集合――近代の語りと近代の恐怖 二、映画のなかのゾンビ像 1)急進主義の時代とロメロの亡霊 2)卑賤と高貴の転覆――もはや人間ではない 3)「ゾンビだ」と、ポストアポカリプス作品は答える 三、ゾンビ像を読み解く 1)フランケンシュタインの怪物の回帰 2)なぜ芝生にこんなにゾンビがいるのか? 3)「ただ、もう一体の怪物にすぎない」――堕落した他者の未来 結び:「惑星へ」、怪物たちの夜明け
序文:働く肉体と縛られた魂
ゾンビは息の長い文化的な題材であり、映画や小説、ゲームでは、危機を引き起こし、敵意を向ける存在としてたびたび登場する。だが、この像も、何の背景もなく生まれたわけではない。文芸作品のゾンビ像を人類学や社会学の視点から分析すれば、その本来の姿をおおよそ描き直すことができる。ただし、「本来の姿」を復元するからといって、現代のゾンビがその原型から外れていると言いたいのではない。むしろ、「働く」という一本の糸をたどって、ゾンビ像の過去、現在、未来を探ってみたい。肉体は働き、魂は縛られている。そんな呪術の怪物が、いったいどうやって近代の恐怖となったのか。そして今日もなお、あの歩く死体のなかには、縛られた魂が閉じ込められているのだろうか。
一、ゾンビ像の変遷
1.「開かれた社会の敵」、ゾンビ
ポパーの『開かれた社会とその敵』から、開かれた社会の敵を定義する言葉を探すとしたら、ゾンビはその大半に当てはまってしまうのではないかと思う。ポパーによる敵の定義のなかでも、とりわけ目立つのが部族主義と反普遍主義だ1。死体の群れが惑星全体に広がっていく。それを「惑星化」を悪意を込めてもじって、「惑星へ」と呼んでみよう。この広がりをグローバル化の一種に数えないのなら、死体の群れほど「開かれた社会の敵」という呼び名にふさわしいものはないだろう。なにしろ、群れをなし、情け容赦なく敵意を向けてくる他者以上に、部族主義的に見えるものがあるだろうか。そう、ほかならぬあいつらだ。あいつらには、開かれた社会を脅かす可能性がある。
早くも前世紀の1930~40年代、ゾンビ映画が盛んに作られ始めたころには、そのことを十分に理解している者がいた。ナチスはプロパガンダのなかで、ワイマール共和国の政策がドイツ社会に生来備わる自由を押し殺し、ドイツ人を愚鈍なゾンビに変えたと激しく罵った。一方、1940年代のアメリカ映画『Revenge of the Zombies』(1943)は、血も涙もないナチス配下のゾンビ軍団がニューオーリンズに現れるさまを描いている。これは偶然なのか。それとも、ゾンビ像には明らかにすべき何かがあり、その姿が完成する前から、こうして名指されることになったのか。以下では、その起源をたどりながら考えていこう。
とはいえ、ゾンビ像の起源に踏み込むには、今ある映画やゲームの姿を調べるだけでは足りない。民族誌のように、各地の文化を見渡す必要もある。この像には出発点があり、特定の地域の民俗文化が深く作用しているからだ。その民俗文化はゾンビ像の土台を築いただけでなく、その上に煉瓦を積むように、姿を形づくってもきた。これは偶然から生じたものではなく、社会の営みが作り出したものだ。その営みのもとで、歴史は記憶のなかに自らの居場所を見いだし、さまざまな像は歴史の刻み目に、それぞれの位置を占めるようになる。

2. 北欧とハイチのゾンビ、肉体と魂
ヨーロッパと北米を中心に据えた民俗学の視点から調べると、現代のゾンビの起源はハイチにはないように見える。「人食い」「死体」「蘇生」といった要素を拾い出せば、さまざまな言語の文献から、ゾンビに似た例を大量に探し出せるだろう。しかし、どれも似ているようで何かが違う。死者が生き返るのは、もちろんよくある話だ。ラザロのような復活がどれほどあることか。範囲をもう少し広げれば、白雪姫でさえその条件を満たしてしまう。彼女は「死んだ」とみなされたのに、蘇って幸せに暮らしたのだから。私たちが探すべきなのは、生き返った死者というよりも「死体に入り込む悪魔」だ。蘇った死体はもはや人間という主体ではなく、特定の目的のために戻ってきた幽霊でもない。こうして絞り込めば、ヨーロッパや北米の民話のなかに、ようやく求めていた題材を見つけられるかもしれない。北欧の物語に登場する、不死の戦士である。
アイスランド語の「送る(sending)」は、贈り物の交換だけを意味するのではない。呪術をめぐる物語では、悪霊による死体の蘇生をも意味する。戦士たちが「送られ」、蘇るのは、自分の願いをかなえるためでも、俗世に戻るためでもない。ただ一つ、殺し合いを続けるという特定の目的のためだ。昼間に戦って死んだ戦士の遺体は、夜になるとうごめき、戦場や墓から這い出してくる。こうした物語は現代の食屍鬼(グール)にも似ているが、その役目は死体を食べることではなく、互いに殺し合うことにある。この特殊な「仕事」に、今日のゾンビの片鱗を見いだせるかもしれない。働く死体だ。ここでの死体は、特定の仕事に使われているのであって、自らの意志で――そもそも意志があるにせよ、ないにせよ――動いているわけではない。
同じ片鱗は、ハイチのゾンビ伝説にも見つかる。ただ、意識的、無意識的な偏見や無視によって、ハイチのゾンビ文化は危険で恐ろしい呪術とみなされてきた。他の怪異伝承と同じように「恐ろしい」にすぎないのに。この呪術の物語では、ボコール(Bokor)と呼ばれる邪悪な呪術師が人間の魂を奪い、残されたものがゾンビとなって呪術師に仕える。しかし、残された身体をゾンビと呼ぶのは、偶然がもたらした誤読だ。邪悪な呪術師はもはや存在しないが、伝説のなかで彼らが奪い取ったのは、身体ではなく魂だった。現地の呼び名では、魂を奪われた身体はゾンビではなく「蘇った死体(Zombie Corps Cadavre)」と呼ばれる。奪われた魂こそが本当のゾンビであり、死体よりも恐ろしいもの、魂のゾンビ(Zombi Jardin)なのだ。ゾンビという語のコンゴ語系の語源、Nzambiが「死者の魂」を意味するのと同じように。
それでも、ゾンビという名で大衆文化に入っていったのは死体のほうだった。この肉体と魂の分離もまた、肉体が働くという特性に由来する。なぜ仕事なのか。仕事そのものが罰だからだ。実際、ハイチで本当に恐れるべきなのは、ゾンビが現れることではなく、自分がゾンビになることだった。ゾンビにすることは、社会秩序の触手となる呪術師が、秩序に背いた者に科す罰なのである。生と死の境をさまようのでも、人食いの怪物になるのでもない。農園で働かされるのだ。それは赦しなのか、それとも懲罰なのか。西インド諸島では、疑いなく後者である。何よりも根深い恐怖――奴隷にされる恐怖を呼び起こすからだ。「奴隷にされて働く」という文脈では、植民地主義が残した傷跡がゾンビの最初の恐怖を生んだ。そして、その恐怖はさらに先へと続いている。

3. 怪物大集合――近代の語りと近代の恐怖
ゾンビが姿を変えてきたように、そのイメージも変わってきた。見かけほど古いものではないのだ。実際、今日私たちが目にする恐ろしい怪異の姿は、そのほとんどが近現代に書き直され、修正を加えられて、今のかたちになったものだ。1930年代に外見がほぼ定まったゾンビは、むしろそのなかでは早くに出来上がった部類に入る。私たちによく知られた狼男、吸血鬼、森の魔女。中世にまでさかのぼれそうに見えるこれらの像の多くは、アンデルセンやグリム兄弟の創作、あるいは再編の影響を受けている。19世紀の知識人は、民族の古い精神が宿る物語を集めた。だが、その精神も彼らの手を経ることで近代のかたちへと変わった。鬱蒼とした森が神秘性を失うと、奥深くに棲む怪異も、以前ほど恐れられなくなる。そして、いわゆる「時代精神」にいっそうふさわしい別の姿へと変わっていった。作家や学者こそが、自分たちの筆で近代の物語と近代の恐怖を書いてきたのだ。
吸血鬼の伝統的な像は、ノスフェラトゥとドラキュラ以後、魔性に満ちた人類の敵から、魔性と人間性が入り交じる複雑な存在へと変化した。そこには近代主義的な意識が働いていると言わざるをえない。ノスフェラトゥは疫病と恐怖をまき散らし、ゲルマンの女性たちを残忍に襲い、その身体を穢して血を吸った。ところがスクリーン上の後継者たちは、彼よりずっと礼儀正しく、血を吸うときさえ遠慮がちに見える。科学に守られていると自認する現代人は、ただの化け物をもはや恐れない。そこで、その姿はより細やかに描き込まれるようになった。狼男と吸血鬼は、それ自体では関連があるとは言いがたい。それでも、「森林と土地」――別の言い方では「土地と人々」2――に深く結びつく存在だったため、ナチスは両者をプロパガンダに利用した。骨の髄まで搾り取るスラヴの吸血鬼に、ドイツの民衆が立ち向かうことを期待してのことだ。
ゾンビもまた、こうした作り直しを経験している。伝統的なゾンビを生み出すのは、今よく目にする微生物ではなかった。むしろ今日では強調されなくなった呪術や薬物、さらには放射線だった。感染する性質も病原体の伝播に由来するのではなく、主に自然の作用や呪術による支配に由来していた。では、なぜウイルスに支配されるゾンビが、仲間たちを押しのけて台頭したのか。病理学研究の進歩が大衆文化に反映されたから、というだけではない。微生物には、病気を引き起こすものとして増殖し、変化するイメージもある。さらに、プリオンの出現によって、人肉をむさぼる人型の捕食者はいっそう不気味なものになった。人間の食人への恐れは中世以来、書き継がれてきたが、プリオンはそこに「科学的恐怖」を与えた。名状しがたい怪物に食われるのは、単に命を脅かされることだ。しかし、同類に血肉を食われることは、その脅威に加えて、現代人に深い不気味さ(uncanny)を呼び起こす。
だから、ゾンビと微生物の結びつきを考えるうえでは、クローネンバーグのウイルス評が手がかりになるかもしれない。ある種の病気は、正常に動く機械を破壊すると理解されているが、実際にはその機械を別の用途へと変えているのだという。人体を機械とみなすなら、ゾンビの存在には、その原点である隷属がいっそう強まり、深まった姿が表れている。つまり、日常に埋もれた機械(人間)が微生物(ゾンビウイルス)に隷属させられ、新たな仕事を際限なく担わされるのだ。同類の肉体を、大口を開けてむさぼるという仕事を。人間という主体が覆され、ゾンビという主体とのあいだに分裂が生じるなかで、近代病理学に裏づけられた微生物は、この変化を理解するための媒介として再び働く。これほどふさわしい原因は、ほかにないのかもしれない。増殖できる――ここが重要だ――働く機械。完璧な他者という役どころ。それが呼び起こす恐怖は、もはやそのものの危険性ではなく、内側に潜んでいる。怖い姿をしているからではなく、不気味さに震撼させられるからこそ恐ろしいのだ。
二、映画のなかのゾンビ像
1. 急進主義の時代とロメロの亡霊
宇宙人と放射線という二つの題材が大流行した1950~60年代を経て、ゾンビはようやく、私たちになじみ深い姿になっていった。この時期は、スクリーン上のゾンビの転換期と呼べるかもしれない。その一歩は、外見が人間の姿から離れていったことにある。ロメロ以前のゾンビには、働くという性質がまだはっきりと表れていた。民俗伝承の先輩たちと同じように、支配されて農園や鉱山で働いていたのだ。1966年にハマーが公開した『吸血ゾンビ』では、腐りかけた歩く死体という姿が取り入れられている。それでもゾンビたちは、彼らを下僕とみなす主人に従わされていた。ゾンビたちは働いている。ハイチの農園奴隷や、ウェールズの炭鉱労働者のように働いている。その後の創作がなければ、後世のゾンビにも、この隷属する性質が当時と同じくらい明瞭に残っていたかもしれない。
ところが、ロメロが現れた。冗談めかして言うなら、「彼はゾンビの鎖を断ち切った」のだ。『The Zombie Movie Encyclopedia』を編んだピーター・デンドルの言い方を借りれば、ロメロがゾンビに与えたのは仕事ではなく、衝動だった。ロメロがゾンビを食屍鬼のような別の像と結びつけたことで、ここでは仕事という特徴が薄れている。仕事は依然として鍵を握っているが、人間に使われるという要素からは離れたのだ。ゾンビが働く機械だとすれば、その機械はいまや「自由」を手に入れたことになる。
この自由は亡霊だ。ロメロは奴隷にされた死体のなかに亡霊を見いだし、ヨーロッパ大陸へと解き放った。『ゾンビ』(Dawn of the Dead)がイタリアで大きな反響を呼んだのも、不思議ではない。その理由は、1974年当時のイタリアの状況を振り返ればわかる。1970年代初め、イタリアのネオファシストは各地で脅迫や威嚇を繰り広げていた。「緊張の戦略(Strategy of Tension)」を推し進め、一連の爆破やその他の暴虐が、専制的な支配の確立に役立つことを期待したのである。しかも、イタリアの国家情報機関は、このネオファシストたちと密接なつながりをもっていた。その事実が暴かれたことで、文化的な不安はさらに強まった。この意味では、緊張の戦略は戦略として成功した。だが、それへの応答は単純な屈服ではなかった。赤い旅団をはじめとする左翼の地下組織が舞台に登場し、イタリアは「前線国家」となった。
「前線国家」で暮らすことは、イタリアの人々の文化的な不安をさらに深めた。『ゾンビ』がイタリアで公開されたのは、まさにその不安を伴ってのことだった。映画が描く終末の生活と、ゾンビそのものの姿を超えた恐怖は、急進主義の時代に人々が抱いた不安に、ぴたりと応えた。誰にも支配されていないのに、なお隷属している。この新しいゾンビ像は、当時の左翼運動による抵抗にも、着想や語るための材料を与えた。その後のイタリアは、自国の宗教的な背景に反するところのあるゾンビという題材を、ほとんど瞬く間に受け入れた。イタリアで撮られた『サンゲリア』などの映画は、この枠組みのなかで、ゾンビがゾンビであることの恐怖をさらに押し広げた。しかし、1980年代初めの弾圧によって急進主義の潮流が徐々に退くと、イタリアのゾンビ映画も停滞に陥った。そこまでにこうした経緯があったのなら、これを偶然と呼べるだろうか。

2. 卑賤と高貴の転覆――もはや人間ではない
いずれにせよ、イタリアのゾンビ映画は映像の歴史にゾンビ像を確固として根づかせ、後継の作品はそれをさらに発展させた。『28日後…』では、ゾンビの出現はもはや一つの「異常な事件」にとどまらない。感染者たちは街頭に繰り出し、都市を占領する。生存者は命からがら街を脱出できたとしても、それはゾンビに追い出されたということでもある。ロンドン。大英帝国の頭脳であり、心臓であるこの都市は、活力を失い、停止した機械へと変わってしまった。「ゾンビは働く機械である」。これまでの議論で、私たちはゾンビの機械的な性質を見てきた。だが、ここでは機械が自らを拡張していく。都市はなお都市であり、信号は点滅し、自動車の警報は鳴り続ける。しかし、信号は交通を導くために点滅しているのではなく、警報も車を守るために鳴っているのではない。都市は死んだ。そこを歩き回るゾンビと同じように死んだ。この意味で、ゾンビは単に都市のなかにいるのではない。都市そのものを「ゾンビ化」しているのだ。
一部のホラー映画が恐怖を生む手法は、おなじみのものだ。身体が生きていくために排除する、おぞましいもの――血、汚物、病原菌――をその場に持ち込み、あるいはその痕跡を刻む。だとすれば、都市にいるゾンビ以上におぞましいものがあるだろうか。血や汚物、膿をまとって街頭をさまよう死者たち。彼らは社会秩序の外へ排除された「人間」であるだけでなく、汚らしさと残忍さが一つになった怪物であり、病原菌に支配される捕食者でもある。この歩くおぞましいものが、人間と都市の生命を脅かす。そして人間と都市は、まさにこのおぞましいものによって転覆されるのだ。これは転覆であり、最初のものと最後のものとの闘争である。闘争の後にできる新しい秩序には、人間という主体の居場所は残されていない。私たちもホミ・バーバのように、いささかもったいぶって問うべきなのだろうか。二元的な暴力闘争は、人類に何をもたらしたのか、と。
ファノンがどう答えるにせよ、ゾンビの答えはおそらく一つしかない。ゾンビ自身だ。映画産業は、ある意味でゾンビの存在を転覆そのものとみなしてきた。そしてこれは、ポストヒューマン的なイメージである。主体としての人間の地位は覆された。いまや人間という主体は、排除されるおぞましいもの、人間というアブジェクト(Human Abject)とでも呼ぶべきなのだろう。かつて整然と秩序立っていた都市という有機体は、今ではトンネルから人間たちを排出する。有機体が老廃物を排出するように。かつて都市を支配していた人間という要素は、今や調整すべき変数となり、かつて排除していたおぞましいものと同じ位置に置かれた。これはあらかじめ企てられた転覆であり、ゾンビ像が人間へと近づいた結果でもある。転覆だ。転覆そのものがゾンビを形づくった。それは、黙示録的な終末の後を描くポストアポカリプス作品が、なぜこれほど頻繁にゾンビを題材に選ぶのかという問いへの答えにもなるかもしれない。

3.「ゾンビだ」と、ポストアポカリプス作品は答える
では、「黙示録」とは何か。その答えは『ヨハネの黙示録』に探すことになるだろう。神が聖ヨハネの目の前で時間の帳を開くとき、黙示録は人類の時間の頂点と終わりを表し、そこに(人類の)歴史の究極の意味が、真に決定的なかたちで示される。その後には、傷つけられることも消し去られることもない、新しいエルサレムが生まれる。超自然的な世界が、一つの空間として現れるのだ。これは時間から空間への転換だ。時間の終末――クロノス3――は、終わりではなく、完全な空間の誕生を意味する。その完全な空間はいかなる損傷も受けない。
このことは、私たちの議論にどんな意味をもつのか。いくつかのポストアポカリプス作品を考えてみれば、おそらく意外でもない結論に行き着く。黙示録の修辞の中心にあるのは、破壊だけではない。安全もまた含まれているのだ。神が予告したように、黙示録の死から蘇る者はみな、栄光と安全を享受する。栄光と安全! それこそ、ポストアポカリプス作品の登場人物の多くに欠けているものだ。だからこそ、そうした安全はしばしば、ポストアポカリプス作品の主題にもなる。
もちろん、いわゆるポストアポカリプス作品に、本当に安全などあるのかとも問わなければならない。大半の作品に揺るぎない安全は存在しないが、蜃気楼のように、おぼろげな幻はある。その幻が示す未来へ進んでいく過程では、終末後の状況を引き起こした要因との衝突が、ほとんど必然的に生じる。先に挙げた転覆という理由を別にしても、ゾンビは対立を生む要因として完璧だ。彼らもまた、時間を超える存在だからである。基本的な設定ではゆっくりと腐敗していく彼らが、物語の対立を担うのは、もっともなことだ。その哲学的な側面については、デイヴィッド・パガノが取り上げる時間論から、ここでは次のように考えたい――ゾンビの時間の緩慢な歩みが、前へ進む通常の物語時間を麻痺させる。ゆっくり歩く彼らは、ある意味で時間を超えたものでもある。終末の後にも存続し、生ある者の短い寿命を超えて生き延びる。だからこそ彼らは、黙示録の客体として完璧なのだ。時間を超え、しかも空間のなかに広がっていく。
「新しいエルサレム」は、それが存在するかどうかにかかわらず、ポストアポカリプス作品にとって常に一つの目標たりうる。終末後の世界に、本当に新世界を築くことはできるのか。肯定と否定のどちらを答えとするかは、作者の構想や傾向をも示している。一部のポストアポカリプス作品では、ゾンビの身体がしぶとく残り、時間のなかに居座り続ける。おぼろげな希望も、心地よい幻想も、彼らには関わりがない。いずれにせよ、生存者は身を落ち着ける場所を見つけるだろう。それでも、やつら――怪物はなお襲ってくる。作者が対立と未来を描き始める糸口は、まさにそこにある。
三、ゾンビ像を読み解く
1. フランケンシュタインの怪物の回帰
本格的に読み解き始める前に、フランケンシュタインの物語をおさらいしておいたほうがよいかもしれない。いわゆるフランケンシュタインの怪物は、内面でも外見でも、ゾンビと同質のものをもっている。ある意味で両者は同じ根をもつ。あるいは、フランケンシュタインの怪物のようなものが、ゾンビにおいて回帰したともいえる。今や彼らは「フランケンシュタインたち」なのだ。繰り返し書き直され、作り直され、撮り直されてきた物語のなかでは、これはもっともな帰結に見える。
ゾンビはフランケンシュタインと同じく、恐怖の想像力から生まれた。そもそもの初めから、フランケンシュタインの怪物に似た存在だったのである。「それ」と呼ばれるこの怪物には、自分の名がない。うめき、吠えることしかできず、よろめきながら歩き、夢遊病者のように機械的に動く。これらはみな、身体の障害と死の欲動に駆り立てられた「反復強迫」を表している。彼らは怪物だ。怪物を発見する過程は、それが怪物であると証明する過程でもある。異様さと野蛮さ……それがゾンビ像の外面だ。怪物であること、怪物の堕落。いったいどこに疑う余地があるのか。
だが、先にも触れたとおり、ゾンビの内面もフランケンシュタインの怪物と同質のものをもっている。怪物は、その創造者ヴィクター・フランケンシュタインに似ている。しかし、ヴィクターを超えてもいる。世界が下した定義を、怪物は受け入れることを強いられたからだ。名状しがたい、邪悪で穢れたもの、という定義を。異様で奇怪な、名もない身体に死者が蘇ったもの。そんな道徳的に歪んだ存在として、怪物の罪は確定された。それは罪であり、サタンであり、死である。知性をもつ怪物は、この穢れた三位一体を背負い、避けがたくさらに多くの死を世界にもたらす。怪物の怒りは創造者を焼き、その創造者にさらなる悲劇を生み出させる。フランケンシュタインの怪物は、生まれながらの穢れを寄せ集めたものだ。それでも、物語のなかで転覆を求めることはできない。だが、卑しく穢れたものとしてのゾンビが転覆を見いだすとき、フランケンシュタインの怪物もまた回帰する……。

2. なぜ芝生にこんなにゾンビがいるのか?
ゾンビのほうは、長いあいだ感情をもたない怪物の役を演じてきた。だが、その役割が変えられないわけではない。もっとも、見出しの問いを発する前に、もう一つ問わなければならない。『Plants vs. Zombies(プラント vs ゾンビ)』以前のゾンビは、なぜあのように親しみやすく描かれなかったのか。あるいは、こう問うべきかもしれない。『Plants vs. Zombies』より前にも、ゾンビを演じられるゲームはあった。その体験は何をもたらしたのか。
ビデオゲームのゾンビは、ホラーゲームだけにいるわけではない。『バイオハザード』が鮮烈に登場して以来、ゾンビという要素は、ゲームのアクションやシューティングと切り離せなくなった。動きが遅く、特定の弱点をもつゾンビ――たとえば『バイオハザード』初期の作品に登場するもの――は、射撃の標的にうってつけだ。もっと素早く動くゾンビは、『Left 4 Dead』のように戦闘の激しい作品で敵を務める。いずれにせよ、ゲームのなかの彼らは、目標を達成するためには倒さなければならない、肉体をもち、殺すことのできる障害物である。そうした障害物としての役割は、ゾンビ像に特有の切迫感から生まれている。しかもゾンビである以上、意思疎通の余地はない。『Left 4 Dead』のおなじみの英語コピーは「CURING THE INFECTION... ONE BULLET AT A TIME」。感染を治す――銃弾を一発ずつ撃ち込んで、というわけだ。この文句を思い出せば、切迫感と対立は伝わるだろう。
こうした設計は、ゲーム制作者の求めるものにかなっている。対戦モードでゾンビになれたとしても、その行動をなぞる以上の価値があるとは、なかなか言えない。いわゆる普通の、弱いゾンビを演じても、その立場を実感することは難しいし、「特殊感染者」を演じれば、普通のゾンビの体験とはまた隔たってしまう。プレイヤーは自分がゾンビとして遊んでいることは理解するだろう。だが、ゾンビとして何を体験できるかといえば、実に乏しいとしか言いようがない。ところが『Plants vs. Zombies』は、この慣例に逆らい、従来とは異なるゾンビ像をゲームに持ち込んだ。この作品のゾンビは、現代のゾンビというより、ロメロが最初に示した原型、食屍鬼とハイチのゾンビの特性を合わせた生き物に近い。彼らにはある程度の知性があり、墓から這い出すこともできる。どちらも現代のゾンビには難しいことだ。昔ながらの亡霊の像が造形に加わったことと、無関係とは言いがたい。
今も彼らは怪物だ。だが、その顔つきからは刺々しさが薄れ、より穏やかな敵になっている。相変わらずあなたの庭に猛攻を仕掛けてくる。だが今度は、庭を攻める彼らの行動は、あなたにも読み取れる。つまり、一定のルールに従い始めたのだ。思考、ルール、意思疎通。どれもまだ乏しくはあるが、それでも『Plants vs. Zombies』では、従来とは異なるゾンビ像を生み出している。こうして別の捉え方ができることこそ、原型として固定された像を揺さぶる鍵になる。そこから、以前とは異なる解釈を探っていこう。今やゾンビ像は自らの束縛を逃れ始め、仕事の奴隷ではなくなったのだろうか。答えは、依然として否だ。それでも、従来の姿からのわずかな変化に、ゾンビ像が変わる兆しを見て取れる。
3.「ただ、もう一体の怪物にすぎない」――堕落した他者の未来
先の例はあるものの、大半のゾンビは依然としてロメロ型の怪物にすぎない。野蛮な人食いであり、疲労も苦痛も、不安も恐れも、畏敬も知らない。ハイチでは、カリブ海地域の先住民が人食いと名指された。それに対応する論理のもとで、ゾンビは人食いを含め、野蛮で無情、倫理に背くものという像を担っている。だが、そう名指す側の論理では、カリブ海地域の住民には、福音を伝えることで救える余地がなおあった。ゾンビにはその可能性すらない。もっとはっきり言えば、いわゆる「土着民」は文明を理解していないが、文明に感化される余地があるとされる。対して「蛮族」は文明を理解したうえで、受け入れようとしないとされる。堕落した他者として、ゾンビはこの、かつてなく強大でありながら弱い蛮族の役を演じる。哀願せず、ひるまず、逃げない。そのことで、どんな参加者にも、自分の内なる進歩性を、自ら操るという体験を与えるのだ。
言うまでもなく、この体験は、少なからぬ植民地支配の体験と共通している。トドロフは『他者の記号学――アメリカ大陸の征服』で、コロンブスが先住民を「開化」しようとしたとき、彼らに望んだのは「話す」ことであって、「スペイン語を話す」ことではなかったと指摘する。ここで問題なのは、コロンブスがいかなる意味での相対主義も認めず、カリブ海の住民がすでに自分たちの言語を話していることも認めなかった、という点だ。彼が先住民を捕らえたのも、彼らに「話す」ことを教えるためだった。ゾンビにも、これに相当する論理が保たれている。もちろん、ここで私たちは、ゾンビはそもそも「話せない」ことに気づくだろう。そして、それこそが、堕落した他者としての設計の最も巧妙な部分なのである。蛮族はいつまでも蛮族のままで、自分の言葉を語ることはできない。庶民はいつまでも庶民のままで、自分の声を上げてはならない。
こうして、堕落した他者は、依然として堕落した他者であり続ける。ときに、こんな意見を耳にする。隔てられたままなのは仮想の像にすぎないのだから、何の害もないのではないか、と。もちろん、目の前の害は見えない。だが逆に言えば、仮想の像を設定するときにも、現実の姿から素材を取っている。メアリー・シェリーは、怪物の夢を見てから怪物の物語を書き始めたのではない。ゾンビの姿が何か特定の存在に対応しているわけではないにせよ、堕落した他者はなお存在している。その原型となる他者もまた、魂のゾンビなのかもしれない。社会と歴史という名の呪術によって、自分の死体のなかに縛りつけられ、分を守っておとなしくしていることを強いられているのだ。
ゾンビから「ゾンビ」へ。ゾンビ像の分析は、怪物とみなされ、縛られ、働く他者のもとへと戻ってきた。この他者こそ、卑しいものとみなされている存在だ。そこには、先住民に向けられたまなざしが繰り返し響いている。他者の未来はまだ見えない。排除されることで進歩性を支える「構成的外部」として存在し続けるのか。それとも、他者とされる立場から抜け出そうと力を尽くすのか。一つの最終的な答えは、あるのかもしれない。敵意に満ちた異質な空間がついには打ち壊され、怪物とみなされた他者にも、いつか自分の仮面を外せる日が来る。それが「ゾンビ」の戦略になるのだろうか。
結び:「惑星へ」、怪物たちの夜明け
怪物にも自分たちの夜明けはあるのか。怪物は自分たちの夜明けを迎えるのか。現実の抗議活動では、ときにゾンビに扮して集まることがある。そこではゾンビの大衆性に託して、多様な人々の集まりであるマルチチュードの抵抗を表そうとしている。だが、人間はゾンビを演じられるとして、ゾンビは誰を演じているのか。確かに、ここではすでに、それまでの議論の範囲を超えている。とはいえ、私たちの議論はゾンビという像だけに限られるものでもない。転覆と抵抗について語ることは、怪物の外へと向けられた期待なのだ。
初めから名指され、辱められ、傷つけられてきた「彼ら」は、どうすれば呪術師から自分の魂を取り返せるのだろうか。ボコールはとうに去った。それでも、「ボコール」の束縛は一日たりとも弱まっていない。堕落した他者の夜明けは、ほかのどこかではなく、ゾンビのように「惑星へ」と広がり、終わりと初めの転覆を求めることにあるのかもしれない。いつか、卑しめられた者たちも、堂々とこう言えるだろう。「誰もいない夜明けに都市が目を覚ますとき、それは怪物たちの夜明けとなる。同時に、堕落という名を無理やりかぶせられたマルチチュードの夜明けにもなるのだ」と。

引用文献
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