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特集|「the Garden of sinners」と『空の境界』

sinner、空、境界、gardenという四つの概念から、『空の境界』における常識と異常、両儀式と荒耶宗蓮のあいだの隔たりと対立を読み解く。

著者: hephaestus翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

今回は、『空の境界』の英語副題と小説との関係、そして日本語英語の二つの題名が持つ意味を考えてみたい。

同人版として刊行された当初、『空の境界』の副題はまだ ……Is nothing id, nothing cosmos だった。その後、文庫版の刊行時には the Garden of sinners へと変わった。これは日本のバンドLUNA SEA199394年に行ったツアーの題名に由来する。

本稿の目的は、この英語題と小説との関係、そして日英二つの題名の意味を分析することにある。『空の境界』の主題を簡潔にまとめるなら、奈須氏自身も、これを荒耶宗蓮が「 」と対決する物語であり、「正常者」が「異常者」を癒やす物語であると評している。小説には複雑な要素と交錯する事件が数多く含まれているが、作者自身の見解や傾向を隠す意図はない。ここでは二つの題名を切り分け、いくつか外部のテクストを導入し、『空の境界』そのものの物語と組み合わせながら、この問いへの答えを試みる。

一、sinner

新約聖書では、ギリシア語 ἁμαρτίαhamartia)が英訳聖書の “sin(罪)” に対応する。ギリシア語での原義は、おおむね弓を射て狙いを外し、中心に当たらないことを意味し、そこから無知にもとづく行為によって生じる過失と解釈される。ギリシア悲劇の主人公に必要な性質の一つとして扱われることも多く、アリストテレス『ニコマコス倫理学』にも見ることができる。新約聖書での用法としては「ローマ3:23」を参照できる。「すべての人は罪を犯し、神の栄光を受けるに足りない」。ここでの “sin” は、人間が神の定めた目標に到達していないことを指す。

初期キリスト教思想では、“sin” は人間の自由意志とは無関係だと考えられた。善の基礎となりうるのはメシアの教えだけであり、キリストに従うことによってのみ「目の中の梁」を取り除くことができる。私たちに残された唯一の自由とは、信じるか信じないかの自由である。

アウグスティヌスの原罪論を基準に考えるなら――アウグスティヌスが原罪論の最初の唱道者だったわけではない。原罪論は、メシアによる「贖い」の必要性を際立たせるためにキリスト教徒が徐々に構築していった理論であり、ここでは比較的整備され、筋の通ったアウグスティヌスの議論を採る――人類の始祖がエデンの園で古い蛇に誘われ、善悪の知識の木の実を食べて以来、その子孫である私たちは、生まれた時点ですでに「罪」に汚された者となった。私たちは神の意志に背き、「食べてはならないと命じた木の実を食べた」からである。人間は「自由意志」にもとづく行為によって神に背いた。それこそ最高の「自罪」である。「罪」とは「永遠」を捨て、「現世/世俗」のものを追い求めること、すなわち「倫理的な悪」であり、不可逆の結果に属する。

キルケゴールが、独身者として神と一対一で向き合うなかで経験した罪の感覚は、超感性的世界や理念的領域をめぐる群雄割拠とともに消え去っていてもよさそうなものだ。だが、個人の無限の選択から生じる、あの古い恐怖と不安は消えていない。そもそも、二十一グラムの霊魂物質や化学物質、電気信号が、伝統的な意味での魂の存在を否定できるとは考えないのであれば、「罪」をめぐる議論も法律や倫理だけでは終わらない。

「死に依存して浮遊する二重身体の者、死に触れることを快楽とする存在不適合者、死から逃れることで自我を持つ覚醒起源者」「加害者であると同時に被害者でもある殺人鬼」、霊長類を敵とする僧侶。『空の境界』では、異常者たちが死と神秘を孕んだ月下を歩き、罪悪感なく悪事を働く異なる周波数の者が街路を行き交う。事件に巻き込まれながら傍観者のような印象を与える幹也を除けば、ほとんどの登場人物を “sinner” と呼ぶことができる。罪を背負う者でありながら、題名の「空」に対応するものを求めても得られない者でもある。

「殺人考察境界式」の要旨:すでに常識の外へ出た異常者を、常識によって善悪に分けることはできない。異常者が常理に反するのは当然であり、常識という世界から見れば、異常者には罪がないというのである。

傷ついた両儀式が窓辺に立つ場面

二、「空」という概念

『佛學大辭典』に掲載された「空」の語釈

きのこが選んだ「空(から)」とは、おおむね空洞、何もないことを意味する。作品に触れれば、「空」には実は「伽藍」の含意も潜んでいることに気づくだろう。音の近さだけでなく、意味の面でも対応がある。「伽藍の洞」で両儀式は、自分の身体を、空気だけでなく風まで通り抜ける洞穴のように空っぽだと感じ、そこに強い不安と寂しさ、生きる理由さえ見つからないほどの空虚を見ている。こう考えると、「伽藍の洞」とは、空虚感が集まる場所の比喩でもある。両儀式の虚無感と蒼崎橙子の工房を「伽藍」と名づけることには、きのこが一貫して好む自作の難解な語彙の趣味を超えて、作品における「空」の概念が仏教思想という母胎から完全には切り離せないことを、意識的であれ無意識的であれ示す働きがあるのかもしれない。僧侶の住まいというイメージから考えても、荒耶宗蓮という人物のさまざまな姿に対応する。

きのこのいう神秘としての魔術を土台とする物語である以上、物語の内側を支配するのは完全な理性と絶対的な成熟である。魔術師は神秘を探究する非人間的な者であり、超能力者も複数のチャンネルを受信できる異常者である。『空の境界』の物語には交渉も説得もなく、理解も赦しもない。「起源」は信念として容易に「人格」を呑み込み、相互理解や改心など問題にならない。異常者は概念に依拠して存在し、主観的に、あるいは無意識に、到達不能の終着点と真理の集積する場所を求める。無意味な者が無意味な規則に従い、万物が揃いながら空虚で混沌とした帰るべき場所を探す。自由を望む巫条霧絵は身体を得ても浮遊しか得られず、痛みを探す浅上藤乃は殺戮のなかに一時の喜びを得る。自己を見失った玄霧皐月は他人の過去に閉じ込められ、同類を求める白純里緒は捕食欲に屈する快感を得られず、目標を定める場所もなく、方向も方法も知らず、ただ虚無感に駆られて狂奔する。この「空」の生存状態は、ハイデガーの描く非本来的な生にどこか似ている。やむをえない自己放棄と自己追放であり、自分にさえ姿の見えにくい岐路を疾走していく。

『空の境界』第七章の謎を紹介する日本語雑誌ページ

もう少し積極的な意味で考えるなら、「空」は幹也や占い師観布子の母の心構え、あるいは特質を評する言葉ともみなせる。「平和」と呼ぶべき状態である。他人に何かを要求することも、他人から求められたものを拒絶することもない。外界に本当の意味で揺さぶられず、自分の意見や観念を周囲へ押しつけようともしない。他者の欠点や不足を指摘し、言葉によって教える。並外れたものを持つ異常者を数多く目にしても、始終変わらぬ「平凡」な自己として生きることに満足し、未来の行方を覗き見ても、宿命の配置から逃れようとはしない。

先に述べたように、『空の境界』における「空」は、仏教徒の超然とした視域から見た「空性」そのものでも、哲学者が論じる完全かつ徹底したニヒリズムでもない。人物の実際の生存状態に即した具体的な描写であり、作中人物の虚無感として現れる。作中では、生きている実感がないため、生の苦痛も、他者が抱くような憧れも分からないという感覚として語られる。それは人物の行動として実践され、観る者の体験にも深く染み込む。これは空無を解釈しようとする物語だが、マクベスの台詞のように、騒々しく荒れ狂いながら何も意味しないわけではない。

そして「境界」、すなわち “garden” は、舞台であると同時に壁であり、約束の地であると同時に偶然の場所でもある。神はここで必然的な墜落と受難を経験し、偶然の機縁によって再生し、去っていく。

三、「境界」、「garden」

日本語辞典に掲載された「境界」の語釈

「矛盾螺旋」の説明の要旨:修験道の山や聖域に女性の立ち入りを禁じる結界を例に、結界とは円の内側そのものではなく、他者を阻む魔力の壁であり、その境界線を消せば力も失われるものだと説明される。
また、結界は内と外を分ける。自ら完結した世界を作るには、まず自分自身を完成させなければならない。特殊な才能を持たない荒耶は、歳月と信念を積み重ねることでそれを成し遂げたのである。

結界は分離の働きをする。常識は内にあり、神秘は外にある。平凡は内側にあり、異常はその傍らにある。そう考えれば、「伽藍の洞」で橙子が両儀式に、魔術師には彼女の胸の穴を埋められず、それができるのは普通の人間だけだと諭した意味も理解しやすい。

両儀式と玄霧皐月が初めて対峙したとき、式は、彼が境界の向こう側にいる人間だという理由によって、自分自身に相手を攻撃させる。ここにある考えはきわめて明確だ。常人の境界の向こう側は、怪物の領域である。そこでは常識が通用しない。彼らは道徳上の異邦人であり、行動は捉えがたく、理解しがたい。この差異を消そうとするのは、風をつかもうとするようなものだ。

作中の説明の要旨:人間は一人ひとりまったく異なる意味を持つ生物であり、同じ種族だから集まっているにすぎず、生きるとは理解できない差異を空の境界へ変えていくことだと語られる。

ナイフを持ち直死の魔眼を見せる両儀式のイラスト

「境界」は「結界」として内外を分ける。異常者の「境界」は、外部には常識を共有する集団と共にいるときの見知らぬ居心地の悪さとして現れ、自己に対しては、個体意識のなかにある埋めようのない空隙として姿を見せる。そして内外二重の結界が存在するため、『空の境界』の世界観では、異常者は自然に起源へ傾いていく。この過程こそ、先に述べた、歳月と信念を積み重ねて自分を完成させることにあたる。歪んでいようと、邪悪であろうと、矛盾していようと、荒耶宗蓮の内面が作中の大半の人物より充実し、純粋であることは認めるべきだろう。荒耶宗蓮と両儀式が対立する「境界」の両側には、「 」から帰還し、人間になろうとして下降していく両儀式と、理想の人間を見たいという渇望を目的として「 」へ到達しようと上昇する荒耶宗蓮とがいる。

また、「境界」には「領域」という側面もある。ここでは両儀式の「領域」について考えよう。何しろ両儀式は『空の境界』の主人公であり、物語も彼女を中心に展開する。「領域」という視点から見れば、『空の境界』は両儀式が自分の領域をどう処理するかの物語だと言える。すなわち、男性人格の消失――負の感情を引き受けていた人格が消え、完全な対称螺旋の構造が崩れたこと――をどう受け止めるか。記憶はあるのに対応する感情がなく、空無が溢れる生存困境にどう適応するか。人間としての尊厳と実感を取り戻し、生きる理由と意味をどう得るか。自分が実際に理解できる社会経験と倫理規範を、どう生活に適用するか。そして、起源が「 」である者として導かれ、形づくられながら、ついには境界(結界)を突破することに成功する。起源が覚醒しながら、それに呑まれなかった唯一の存在として、他の異常者とは異なる彼女の境遇こそが、この差異を生み出す根源である。そして、そのすべては両儀式の領域――境界――のなかで起こる。

四、主題をめぐるさらなる検討と追加の論証

「分離」は第三節で論じた常識と異類のあいだだけに現れるのではない。「境界」が表す対立/断裂/分離は作品の至るところにある。私たちは常識と異常の対立や、観念生存方式の差異を指摘するだけで満足すべきではない。むしろ『空の境界』全体が、「矛盾螺旋」が明らかにするように、終わりのない対立と区隔に満ちている。均衡はつねに破られる寸前にあり、差異はしばしば消去される臨界に立っている。

奈須きのこインタビューの要旨:異なる二者を用意し、対立させながら境界線を引かせたかった。一見まったく違う人同士にも共通点があり、反対に、同じ部分を持ちながら絶対に理解し合えないところもある。その感覚を両儀式と黒桐幹也の最後の会話へ込め、作品はその台詞へ到達するために作ったという。

『空の境界』用語辞典の要旨:「太極」は、古代中国に生まれた陰陽説の図である。能動的活動的なものを陽(白)、その反対を陰(黒)に分け、昼と夜、明と暗、雄と雌といった対立を象徴すると同時に、互いに影響し合い流動する世界の縮図でもある。

太極図と「両儀式」「太極」の関係を説明する図

「矛盾螺旋」の要旨:太極図の黒い側を陰性、すなわち女性とし、互いに絡まりながら相剋する黒と白の螺旋として捉えている。

以上のテクストから、その一端は見える。完全な「両儀式」と完全な「太極」には必然的な結びつきがあり、太極の図像は「両儀式」のなかで相生相剋する「式」と「織」にも表れている。歴史上、人間自身の複雑さに苦しんだ賢者は数知れない。「二つの魂が私の胸に住んでいる、一方は他方から離れようとする」とはファウストの嘆きである。スティーヴンソンは人間性の善と悪を「ジキルとハイド」という二つの対立人格へ直接変え、ヘッセは『荒野のおおかみ』に分裂した境遇を描いた。人物自身の矛盾性だけでなく、「矛盾」は『空の境界』で別の形でも現れる。二つの存在が一つの身体を共有する式と、一人で二つの身体を持つ巫条霧絵との矛盾。殺人の意味を理解し重視する式と、殺戮の快楽を享受する浅上藤乃との矛盾。他人が自分へ近づくことを拒む式と、同類を探す白純里緒との矛盾。起源が「無意味」である臙条巴が荒耶の計画を破壊できたという矛盾。そして、人類を滅ぼそうとする荒耶宗蓮と、人類の集合的無意識「アラヤ識」との矛盾である。

別の角度からこの物語を見るなら、矛盾が混在し拡大していくことに加え、先に「境界」を論じた際にも示唆したように、本作は「人」と「神」の関係を繰り返し論じていると考えられる。巫条霧絵は神の視野を得て、玄霧皐月は神の言語を操る。魔術師はさまざまな手段で根源へ到達しようとし、両儀式については言うまでもない。グノーシス主義の観念から見れば、人間の下降は、それまでの経験的な特徴から自己を切り離す。作中人物が異郷へ流れ落ち、漂泊して寄る辺を失ったように感じるのも、そこから来る。とりわけ両儀式のさまざまな振る舞いを見ていると、神は洞窟の闇によって目を損なわれたのではないかと思わされる。最後に、神の回想は終わる。「境界」「garden」と呼ばれる、この華麗で壮麗な「牢獄」から抜け出し、境界は消去され、日常と常識が戻り、凡人は生きられるようになる。

作中の説明の要旨:境界を定めるのは自分であっても、それを境界として成立させるのは外界の視点である。そう考えれば、最初から境界などなかったのかもしれない。世界のすべては中空の境界によって区切られ、異常と正常を隔てる壁を作るのは、社会ではなく、結局のところ私たち自身なのである。

黒桐幹也と和服姿の両儀式

ここで最初の問いへ戻ろう。題名『空の境界』と the Garden of sinners が作品とどう関わるのかは、ほぼ説明できた。簡単にまとめるなら、the Garden of sinners とは、異常者が世を歩き、他者の異常、悲哀、執念、狂想を眺めながら、自分もまた「常識」とは異なる本質を見抜かれる場所である。異常の世界は通常の行為倫理に統御されないため、異常者たちはまるで園で遊ぶ人類の始祖のように、無心に能力を行使し、災いを生む。そして善悪とは何かに気づいたとき、墜落と清算が訪れる。

『空の境界』は、「境界」という分けるものの相対性を示唆する。すなわち「異常」は「常識」の視線によって初めて存在しうる。そして「境界」という結界そのものは中空で、何もない。その両側も同じ虚無にすぎない。そのあいだが異常者たちの舞台となり、言葉にしがたい存在が私たちとともにこの都市伝奇を見つめ、歪み、怪異でありながら華麗な物語を眺めている。

作者注:次の『空の境界』記事では、なぜ橙子が人形を通して「原作」を得なければならないのかを論じたい。『空の境界』における人形には、式の義肢や橙子の予備身体以外にも、さらに深い含意や現れ方があるのだろうか。

「the Garden of sinners」と『空の境界』の特集バナー

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