屋頂現視研
← 中国語原文4 分で読了編集プレビュー

「吊丝」文化小論――「一発逆転」の論理

魯迅『阿Q正伝』とシニシズムを手がかりに、自己のモノ化、アイロニカルな距離、そして中国のネット語「逆袭」が意味する一発逆転の幻想を通じて、「吊丝」文化が現実の失敗を「決して負けない」特権的な位置へ変換する論理を読み解く。

著者: 实在狗子翻訳: 甚谁Bot[AI assisted] · 全文

実在狗子の肖像
実在狗子

世界のない時代に、無意味な愛を伝える。

「吊丝(ディアオスー)」という言葉は、いまではすっかり流行遅れになった。社会的にさえない男性が自嘲をこめて名乗った中国のネット俗語である。本来は、男性器を指す粗野な「屌」を使って「屌丝」と書くが、本文では音の近い字に置き換えた「吊丝」を用いる。言葉は古びても、そこに潜む態度まで過去のものになったわけではない。そもそも、それほど新しい態度ですらなく、魯迅『阿Q正伝』の主人公・阿Qの変種と見ることもできる。阿Qと吊丝には共通点が多いと言っても、驚く人はいないだろう。阿Qには「精神勝利法」がある。彼は「高富帅」(高身長・金持ち・イケメン)が気に食わず、「白富美」(色白・金持ち・美女)をものにしようと狙っている。

もちろん、より重要なのは阿Qと吊丝の違いだ。阿Qはあまりに「素朴」な吊丝である。洋行帰りの「高富帅」が気に食わなければ、面と向かって食ってかかる。大半の吊丝なら、そんな振る舞いは避けるだろう。また、阿Qの精神勝利法は「俺の先祖はお前より羽振りがよかった」というものだが、これも大半の吊丝が喜んで口にする話ではない。むしろ、何代さかのぼっても、うちはずっと吊丝の家系だったと得意げに言う者が多い。「高富帅に食ってかかれない」ことも、「先祖だって羽振りはよくなかった」ことも、吊丝としての自己認識をいっそう強める。

ここで強調しておきたい。本文で論じるのは、主としてシニカルな態度をとる吊丝である。もっとぶっちゃけて言えば、自分には「ユーモアのセンス」があると思っている吊丝だ。彼らは手当たり次第に皮肉を飛ばし、社会のことは「すっかり見抜いている」と思い込む。少なくとも、その言動からはそう見える。それこそ、彼らが自分を吊丝と呼ぶ理由の一つでもある。今の自分が社会的には「うだつが上がらない」ことも、社会を変える力がないことも分かっている。だからこそ社会を冷笑し、そこから距離を取ろうとする。

毛皮とサングラスを身につけた男性のネット画像
インターネット画像。

吊丝文化の発祥地として知られる「李毅吧」は、中国の検索サービス・百度が運営するテーマ別掲示板「百度貼吧」の一つで、サッカー選手・李毅の名を冠している。この李毅吧そのものが、まさにそうしたシニシズムを土台にしていた。だから本稿では、シニカルな吊丝を中心に考える。李毅吧のユーザーは、皮肉や暗示、悪ふざけによって含みを持たせる独自の笑いを「内涵(ネイハン)」と呼び、しきりに持ち上げた。自分たちには抜群のユーモアがあると信じていたことを忘れてはいけない。

吊丝文化は、あらゆるものをモノとして扱いたがる。「高富帅」「白富美」、そして「黒木耳」――女性器を黒キクラゲに見立て、性経験が多いと見なした女性を蔑む呼び名――といった具合に、人をいくつかの属性や性器へ還元する。彼らが何より好む「採点」も同じだ。「これ、俺の彼女。10点満点で何点?」(たいてい李毅吧のユーザーはごく低い点をつけるか、「この女が俺とセックスしないなら0点」とほのめかす。言ってしまえば、「ヤらせなきゃ0点」である。それが、自分たちの「内涵」を披露するお決まりのやり方だというのだ。)

だが、彼らがモノとして扱うのは他人だけではない。自分自身もまた、性器を手がかりに客体として眺める。ただし、この自己の客体化は自己卑下だけでは終わらない。そこから「自分は社会を外側から見られる」という、特権的な視点を引き出すからだ。ここでは三つの操作を分けて考えたい。他人を属性や性器に還元すること、自分を性器として眺められる客体にすること、そして、その結果できた距離を「客観的な視線」だと思い込むこと。この三つは同じではないが、吊丝文化のなかでは一続きになっている。やがて見るように、吊丝であること自体が一つの勝利へと変わるのだ。

ベッドの上で話すアニメの人物
ただ何か画像を置きたかっただけ。

では、彼らはどうやって自分をモノ化するのか。「生O器」――「生殖器」を伏せた表記――によってである。彼らにとって生O器は、性的不安と「自暴自棄」の態度を同時に表す。性器は、社会が少なくとも表向きには人前へ出さないよう求めるものだからだ。その一方で吊丝は、体面を重んじるこの社会も、裏では性と密接に結びついていると見ている。彼らの基本的な幻想の一つはこうだ。「高富帅」は年中、表向きは華やかで堂々としているが、裏では始終「白富美」とセックスしている、と。

そこで吊丝は、自分を社会的な肩書や体面ではなく、社会が表から隠したがる「生O器」として眺められる位置に置く。とはいえ、自分を文字どおり性器そのものへ還元するわけではない。彼らが「客観化」しているのは、むしろ自分を「生O器」として眺められる距離、つまり視線である。そうして生まれた社会との距離を、彼らは客観性だと取り違える。生O器こそ社会の隠された真実なのだから、そこを起点にすれば、ほかの真実も見抜けるというわけだ。そして、それこそ「高富帅」にはできないことだと考える。

吊丝が好んで言う「高富帅には永遠に吊丝のことは分からない」という言葉を思い出してほしい。まずこれは、高富帅には吊丝の苦労を体験できないという意味である。ところが次の瞬間、その「体験できない」ことが、高富帅自身の無能さへとすり替わる。吊丝の境遇を知らない彼らには、社会を外から見る視線もない、というのである。だが、この「客観的な視線」の正体は、社会から距離を取ったつもりになるシニカルなアイロニーにすぎない。

ここから、吊丝文化の決定的な一点に入る。「高富帅」は吊丝の境遇を想像できないが、吊丝はいつでも「高富帅」の境遇を想像できる。吊丝は「意淫(イーイン)」、つまり自慰的な空想をふくらませるのが得意だからだ。いや、得意どころではない。その空想はあまりに強力で、思い描いたものが現実のどこにも見当たらないことさえ多い。

客観的だと思い込んだこの視線が、吊丝に「自分は社会を見抜ける」という錯覚を与える。そしてその錯覚が、もう一つの根源的な幻想へと導く。「逆袭(ニーシー)」――不利な側が巻き返して成功する「一発逆転」――の幻想である。

『恋×シンアイ彼女』のキービジュアル
ただ何か画像を置きたかっただけ。

吊丝の「逆袭」こそ、吊丝文化の真理であり、本当の秘密である。人が進んで自分を吊丝と呼ぶのは、その呼び名に「いつか逆袭できる」という可能性が初めから織り込まれているからだ。ここでも吊丝は、自分を決して負けない特権的な位置に置く。

  1. 私は吊丝なのだから、「逆袭」を果たせないのが当然だ。
  2. もし「逆袭」できたなら、「高富帅」には永遠に味わえない快感を味わえる。

「高富帅」になれたという成功そのものに、下から成り上がった者にしか味わえない快感が加わる。だから成功すれば、二重に勝てる。

では、阿Qとの対比から吊丝をどう理解すればよいのか。吊丝とは、要するに反転した阿Qである。「過去の先祖がお前より裕福だった」のではなく、「未来の自分はお前より裕福になる」。「高富帅」は永遠に「逆袭」できない。すでに「高富帅」だからだ。「逆袭」の二文字には、吊丝の快感が凝縮されている。逆に言えば、吊丝はつねに、すでに「逆袭」している。吊丝なのだから、何をしてどれほど失敗しても当然であり、失敗にはすべて言い訳が立つ。一方、どんな成功も奇跡、つまり「逆袭」として数えられるからだ。

吊丝は、いわばタイムトラベル版の阿Qである。阿Qは、すでに存在した過去によって自分の優越を証明する。吊丝は、まだ存在しない未来によって自分の優越を示す。

そしてある意味では、吊丝は阿Qよりさらに悪い。阿Qは過去を拠り所にするからこそ現在に不満を抱き、ひっきりなしに現状を変えようとする。それに対して吊丝の満足は、未来と現在の二か所に置かれる。一つは、いつか逆袭が実現したときに得られるはずの満足。もう一つは、その満足の予感を、現在の空想のなかで先に味わう満足である。未来の成功を思い描くだけで、まだ何も成し遂げていない現在にも快感が生まれる。この二重取りができるため、いま現実を変えようとする動機は弱くなる。実際、阿Qは空想するばかりで何もしない人間ではない。それに対して吊丝は、自慰的な空想からあまりに多くの快感を得るため、人生の大半をそこに費やす。そのせいで、空想したことの実現そのものが難しくなる。

だから、「吊丝は永遠に高富帅にはなれない」という言葉を、私たちは文字どおりに理解しなければならない。吊丝は、吊丝、そして「逆袭」という言葉そのものから、あまりに多くの快感を得ている。たとえ自分なりの基準で「高富帅」になったとしても、「逆袭」という言葉を決して手放さない。まだまだ逆袭しつづけられると思えるからだ。

ここには、もう一つの二重化がある。一方には、現実に逆袭を果たせる可能性がある。もう一方には、弱者の位置にいるというだけで、その可能性を現在の快感へ変えてしまう働きがある。弱者を名乗っているかぎり、失敗しても出発点を確かめただけで、負けにはならない。それどころか、逆袭の筋書きがまだ残っていること自体を喜べる。こうして実際には何も達成していなくても、「逆袭できる側にいる」というだけで、すでに勝ったように感じられるのである。

春の街路に立つアニメの少女
ただ何か画像を置きたかっただけ。

最後にもう一度、「吊丝」という言葉そのものを見てみよう。もとの表記「屌丝」に含まれる「屌」は男性器を指す。そして吊丝文化は、胸が悪くなるようなやり方で、あらゆる女性を生O器へ還元している。それなら、なぜ「高富帅」も同じ尺度で測り、「高富長」(高身長・金持ち・長い男性器)と呼ばないのか。

この語呂合わせの働きを順に追ってみよう。まず「高富帅」の「帅」を「長」に替えることで、社会的な成功者を、吊丝文化が好む性器中心の物差しへ引きずり込む。財産や容姿に恵まれた者であっても、最後には性器で値踏みされる存在になる。次に吊丝の理屈では、真の「生O器」は自分たちの側にあり、「屌」を名乗りの核に据える自分たちこそ、その物差しと快感の仕組みを知っていることになる。反対に「高富帅」は、華やかな成功しか知らず、弱者が思い描く「逆袭」の快感も、この性器中心の物差しも知らない。吊丝文化の内側では、その欠如が比喩的な「去勢」と呼ばれる。つまり「高富帅」とは、「逆袭」の機会を持てず、いつでも吊丝に「逆袭」されうる、いわば「去勢された」吊丝なのである。

最後に、吊丝文化がいまどのような形で生き延びているかを少し考えてみたい。私が以前にも触れた「売弱(マイルオ)」、すなわち自分の弱さを前面に出し、それ自体を売りにする現象は、吊丝文化と同じ論理に立っている。先に弱者の位置を引き受けておけば、失敗は当然のこととして処理でき、成功は鮮やかな逆袭になる。しかも、その可能性を想像することで、未来の勝利を現在に先取りできる。そこには、吊丝文化の意外な「萌え」バージョンもある。「皆さんは大御所なのに、ゴミなのは私だけです」。一見、自分を貶めているだけの、どこか可愛げな言い回しだが、これも吊丝文化とつながっているのかもしれない。いまでは吊丝という言葉を使う人も、自分を吊丝と名乗る人も減った。しかし、「いまは自分のほうがお前より弱い。だから未来には、自分のほうがお前より羽振りがよくなる」という思考法は、いまも至るところにある。それは新しい思想なのではない。古い論理が別の言葉と身ぶりをまとってつくり出す、いまの「空気」なのだ。

本文終わり

ライセンス: CC BY-NC-SA 4.0

特記のない限り、当サイトのコンテンツは CC BY-NC-SA 4.0 で提供します。ライセンスに沿った転載を歓迎します。もし皆さまのブルジョア法権を侵害していたら、ご一報ください。管理人に、ただちに記事を消してずらかる「遊士の倫理」を実践せよ、と釘を刺していただければ幸いです。

SEARCH / サイト内検索

屋頂現視研を検索

よく使われるタグ

08
#女性主义76#精神分析38#动画制作36#动画评论34#性别研究32#拉康26#世界系25#动画演出22

本文の検索結果

—

語句を入力すると、公開中の記事と連載章を検索します。