
ひたすら探究し、一刻を惜しむ。
本文の初出は「原火」。
編集部より:本稿は、屋顶现视研の年間寄稿企画「拾荒战略 Rags Drum 2020」の前夜祭で審査を通過した作品です。
神主ことZUNは、本稿執筆時の2020年までに、秘封倶楽部のメリーと蓮子を主役とするアルバムを9枚発表している。チャリティーのために制作された『未知の花 魅知の旅』を除けば、二人の少女はそのたびに新たな冒険を経験してきた。二人を主役とする2枚目のアルバム『夢違科学世紀』から2年後の2006年、第3回博麗神社例大祭で『卯酉東海道』が正式に発表された。前作ではメリーと蓮子それぞれの人物像が少し掘り下げられたが、今回のブックレットでは、主に二人の暮らす世界が描き足されている。相変わらず多くを語らない物語ではある。それでも、二人が生きるさほど遠くない未来を垣間見るには十分だ。その主題の一部は、前作のブックレットで扱われた現実と幻想という話題を引き継いでいる。ただし、前後の物語とは違って、メリーも蓮子も自分の能力を使わず、地の文の比率も以前よりずっと高くなっている。考察も従来より一段深まり、個人の世界観から、文化をどう捉えるかという問題へと広がっている。そこから生まれた思索は、ZUN自身の創作観にも少なからぬ影響を与えたのかもしれない。
一、物語の概要と、いくつかの設定について
『卯酉東海道』のブックレットに描かれるのは、メリーと蓮子が京都から東京へ向かう列車の旅だ。物語は、実のところ、それほど密接にはつながっていない会話の連なりでできている。ZUNはあとがきで、今回は隣の席の乗客がふと二人の会話を耳にしたような話だと述べている。そこに感じられる旅のロマンが、本稿で考えていく主題にもふさわしい雰囲気を作っている。
物語のなかで、東京は精神的に「未熟」な都市とされている。結界の隙間は誰にも気に留められず、屋内テーマパークやグルメ街といった「庶民の娯楽」も数多く残っている。人口が減り、自動車も使われなくなったため、彼岸のころには道路まで彼岸花で埋まる。蓮子自身も東京を「田舎」と見なしている。それに対する京都は、直接の描写こそないものの、大都市の威厳を感じさせる。娯楽も「新茶道」しか残っていない。この京都の霊学研究には、すでに千年の歴史があるという。さらに『夢違科学世紀』では、メリーと蓮子のサークルは、どこにでもある霊能者サークルの一つだとされる。メリーが大学で学んでいるのも「相対性精神学」だ。つまり、設定上の京都は精神や幻想の領域について研究を深めてきた都市なのであり、蓮子の目にはそれが「成熟」のしるしに映るのかもしれない。だが二人は、自分たちのサークルは実は「不良サークル」なのだとも繰り返し述べている。異なる世界を隔てる結界を探るという、二人の活動は許されていないからだ。その活動によって何か罰を受けたわけではないにせよ、ここには東京の放任ぶりとの鮮やかな対照がある。
蓮子は東京をメリーに紹介する際、新宿と渋谷にも触れ、歴史を感じさせる場所だと説明している。周知のとおり、新宿と渋谷は現在の日本でも指折りの繁華街であり、近代化の度合いも世界有数だ。史跡が多く、伝統もよく残る日本にあって、こうした地域はどう考えても「歴史を感じさせる場所」とはかなり隔たりがある。この対比から見えてくる京都は、私たちの知る古都ではない。最先端の文明を土台に一から築かれた、新しい大都市なのだ。そのような場所には、何百年、何千年と受け継がれてきた史跡はおろか、私たちがいま思い浮かべるような近代建築さえ見つからないかもしれない。この京都は千年の都を名乗りながら、その歴史の記憶を宿すものをことごとく消し去っている。娯楽も「新茶道」しかないという設定を重ねれば、この都市の息苦しさは容易に感じ取れる。
実際に比べてみると、この未来世界の京都と月の都には共通点が多い。どちらも文明が極めて発達し、精神的にもたいへん「成熟」している。ただ、一つ大きく異なる点がある。月の都は設定上、非常に古い都市であり、科学技術がいかに進んでいても、その表れ方はつねに伝統的だ。『儚月抄』では、伝統的なものに囲まれて暮らす霊夢でさえ、それをひどく「原始的」だと感じている。もともと月の民だった輝夜は、人間も科学技術が高度に発達すれば、こうした伝統的な暮らしへ戻ると考えるが、霊夢はそうは思わない。
神主自身の未来像も、すでに『卯酉東海道』に表れている。人間はつねに最新の文明を体験しようとするばかりか、知らず知らずのうちに伝統文化を足かせと見なし、捨て続けていくのだ。伝統文化が象徴するのは、受け継がれ、続いていくこと。永遠を求める月の民にとって、その性質は非常に重要であり、月の都の文化の核とさえいえる。だが霊夢にとって、そうした「永遠」は人間にはほとんど耐えられないものだ。どんな方法で寿命を延ばそうと、死は結局、生の一部である。心が腐ってしまえば、もう生き続けたいとは思わないだろうというのが、人間についての霊夢の考えだ。
とはいえ、永遠には耐えられないからといって、すべてを捨て去るのもよくない。穢れを極力取り除いて伝統を永遠にしようとする月の都にも、伝統を完全に消し去り、形だけを残した京都にも、神主は否定的なのだ。生あるものは必ず滅び、天の道は巡る――これは東方における、つねに重要な理念の一つである。だから人間にとって、伝統は残すか消すか、一方向にだけ進めばよいものではない。失われ続ける過去のなかから、残すべき核をどう見いだすか。肝心なのはそこなのだ。
このことは、富士山と、列車の窓の外に風景の映像を映し出すカレイドスクリーンの描写に、いっそうはっきりと表れている。神主は『永夜抄』の裏音楽コメント1で、富士山が世界遺産に選ばれない本当の理由は、人間の評価などでは測れない霊峰だからだと述べている。富士山が日本文化と日本の民族精神を象徴する存在であることは、言うまでもない。『卯酉東海道』の近未来でも、日本政府が富士山の下にトンネルを掘るのは畏れ多いとしていることから、この山がなお人々の崇敬の対象であると分かる。ところが蓮子は、実物の富士山にはあまり注意を払ってこなかったとあっさり言い、列車がその下を通ることにもとくに反応しない。富士山に登る人もほとんどいなくなったという叙述を合わせれば、富士山が普通の人々の暮らしからすでに遠ざかっていることが見えてくる。作中で富士山が世界遺産に認定されたことは、いっそう重要な意味を帯びる。富士山と、それが代表する文化は、現実のなかではすでに死んでいるのだ。世界遺産となった古代ローマの闘技場では、叫び声も殺し合いも千年以上前に消え、いま残るのは抜け殻と、かつての栄光への尽きない想像だけである。その一方、人類文明の礎となり、いまなお大きな影響を及ぼすローマ法は、この「栄誉」にあずかることはない。人間には評価できない霊峰だった富士山が、「普通」の世界遺産になる。それは、そこに宿っていたある種の霊性、あるいは文化的な意味が失われたことも示している。
そして、カレイドスクリーンに映される風景は、いかに日本らしい風情を強調されようと、しょせんは偽物だ。メリーにとっては、目を刺激するだけの退屈な映像でしかない。いわゆる「日本の精神」が、暮らしのなかにはもはや存在せず、人々の想像のなかにしか残っていないということでもある。
富士山が「死ぬ」こと自体は恐ろしくない。だが、富士山を捨てた人々が新たな精神の象徴として築いた都市、京都には、新しい希望が見えない。蓮子とメリーの暮らす世界では、合成ではない天然の食品はめったに手に入らず、アルコールの入った酒さえ贅沢品になっている。技術に基づく考え方も、人々が世界を見る目をつねに縛っている。つまり、文化の核である富士山を捨てた人々が作った新しい文明と文化、いわば「合成文明」は、人々の認識を深め、本当の世界を知るという次の段階へ進む助けにはならない。
新しい文化を生み出すことは、人間が生きていくための手段だ。古い文化が次第に忘れられることも、恐ろしいことではない。だが文化の核まで捨ててしまえば、どのような新しい文化にも、本当の生命力は宿らないのである。
二、町人文化
「伝統文化の何を捨て、何を残すか」というあまりに大きな問いに、神主は明確な答えを示していない。それでも、物語から読み取れる手がかりは多い。
蓮子がメリーに語る東京には、さまざまな奇抜な服装の若者があふれている。「優雅」で厳格な京都に比べれば「田舎」としか見なされない東京だが、そこは、かつて無数の冒険物語が繰り広げられたアメリカの西部にも似て、荒削りで魅力に富んでいる。明治維新以前の姿をとどめる幻想郷にも目を向けると、「町人」たちが文化を担った江戸時代を思わず連想してしまう。雑多で風変わりなものに満ち、同時に希望を育んでいた時代だ。

「町人」は特定の意味を持つ呼び名であり、通常は江戸幕府の時代に富裕な商人たちが形作った社会集団を指す。だが「町人」という語そのものは、すでに平安時代に現れている。ここでの「町」は行政単位ではなく、一定の範囲を占める、店のような場所を指していたらしい2。このころの「町人」には特別な意味はなく、ただ町のなかの人を指していた。しかし「町」がしばしば店と同じ意味で使われたことから、「町人」もおのずと商人に結びつく呼び名になった。

平安時代以降、官の商業が衰えるにつれ、民間の商人が活動の場を広げる余地が生まれた。寺院や港には店を構える商人が現れ、寺内町などの地域が形作られていく。「町人」が独自の集団として歴史の舞台に登場し始めたのも、この時期である3。大陸から大量の金属貨幣が流入したことで日本の商品経済は刺激を受け、市場や港といった取引の盛んな場所を中心に町が形成されていった4。戦国大名は領国の軍事力と経済力を強めるため、それぞれの城の下に、政治・経済の拠点となる「城下町」を築いた。商工業者が次々に集まっただけではない。それまで各地に分散していた手工業の生産拠点や市場も集まり、流通する物資が集中したことで、城下町は次第に領国の軍事・経済・交通の中心となった。こうして「城下町人」が生まれたのである5。
こうした新しい要素が育つなか、町人はついに江戸時代、独自の集団として成立した。だが商人たちが最終的に独自の文化を築くうえでは、キリスト教という「招かれざる客」も、目立たないながら重要な役割を果たしている。キリスト教は早くも室町時代、宣教師の到来とともに日本へ広まり始めた。支配が揺らぐのを避けるため、幕府は信徒を弾圧し、各地に広く寺社を建て、武士階層に朱子学を教え、鎖国や書籍・出版物の検閲を行うなどして、精神面の統制を強めた。だが、そうした状況のなかで進んだ寺子屋による庶民教育の普及や、西洋の書籍、とりわけオランダからもたらされた西洋文化は、町人たちが自分たちの文化を作り出すのに必要な支えにもなった。
こうした歴史を見ていると、東方の物語に登場する「外から来た者」たちを連想せずにはいられない。『風神録』の守矢一家から『深秘録』の菫子、さらには秘封の二人自身まで、みな「外の世界の人間」という立場から、幻想郷が象徴する伝統の精神に新しい彩りを添えている。月の都や地獄といった異世界のキャラクターまで加わると、神主は『文果真報』で、大まじめな顔をして「移民問題」の特集さえ組んでいる。それでも、こうしたキャラクターと、その背後にある文化が加わったからといって、東方が復古的な幻想美という核を失ったわけではない。むしろ、より広く受け入れられる形へと発展してきたのだ。朱熹の「観書有感」に、「この池はどうしてこれほど澄んでいるのか。源から絶えず新しい水が流れ込むからだ」とある。幻想郷は何もかも受け入れるという趣旨の言葉は、「伝統はいかに新しく生まれ変わるか」という問いに対する、神主の最初の答えなのかもしれない。
町人文化を支えた社会の仕組みに戻ろう。江戸時代の日本は身分の区分が明確で、それぞれの階層に役割があった。科挙のような官吏登用試験もなかったため、身分を越えて上昇する機会は少なかった。武士はそれぞれ領地を持ち、主にそこから受け取る俸禄米で暮らしていた。だが、このころの日本社会には商品経済がかなり浸透していたので、武士も俸禄米を商人に売り、金に換えて買い物をする必要があった。江戸幕府はさらに、大名が将軍に拝謁する参勤交代の制度を定めていた。半年ごとに拝謁する関東の大名を除き、各地の大名は江戸と自分の領地に交互に住まなければならなかった。これは、一方では幕府による大名支配を確かなものとし、他方では大名に何度も住まいを移させ、旅に金を使わせることで、その経済力を削ぐものだった。その過程で商人たちは大名に消費財やさまざまなサービスを提供し、商業も刺激を受けて発展した。
商人たちは莫大な富を手にしていたが、それを直接政治的な力に換えることはできず、土地の売買も幕府に禁じられていたため、消費に回すほかなかった。同じ土地に暮らす職人や芸術家、芸人たちも、この機会に生計を立てようとした。こうして歌舞伎、浄瑠璃、俳諧、浮世絵など、さまざまな文化の形が生まれ、ついには今日いうところの「町人文化」が成立する。平安時代の貴族文化とも、鎌倉幕府以降の武士文化とも異なる、まさしく庶民の文化だった。担い手の多くは庶民であり、それを消費するのもまた庶民だった。落語や歌舞伎など、庶民の生んだ多くの芸術が大いに花開いた。こうした上演や創作は商売としても成り立ち、その発展は都市のいっそうの繁栄と、商品経済のさらなる浸透にもつながった。版木を彫る技術や、それを使った印刷技術の普及も、必要な支えとなっていた。
それまでは作品を広く流通させることが難しく、芸術家たちは、武士をはじめとする権力者や名士に頼らなければ、暮らしも活動も維持できなかった。そのことが、創作の動機の段階から、作品で何を表現できるかを狭めていたのだ。作品を大量に複製して民間に広められるようになると、都市の庶民文化に属する主題やイメージが、作品のなかに数多く現れるようになった。作り手たちも権力者の統制を離れ、自らの芸術表現の幅を広げられるようになったのである6。
町人文化の隆盛が伝統的な価値観に与えた衝撃は、多方面に及んだ。金と消費を土台にするこの社会の風潮によって、自己を解き放ち、欲望を満たそうとする姿勢が人々の心に根づいていった。風雅を尊ぶ人々には「俗っぽくて見るに堪えない」振る舞いに映ったとしても、人々がこの生き方の強い魅力に惹かれるのを止めることはできなかった。そのことは、『好色一代男』をはじめとする浮世草子や「好色」文学、そして浮世絵における春画の膨大な数からもうかがえる。「浮世」にもともと含まれる「好色」は、単に肉欲に溺れることではない。愛を至上のものとして求め、心のなかで抑え込んでいた感情を解き放とうとする主張でもある7。こうした作品が現れ、広く行き渡ったことは、人間自身の欲望や感情、さらには生命力そのものへの肯定と賛美を、世の人々が受け入れていたことをも示している。
それは、武士文化が重んじる朱子学の「天理を存し、人欲を去る」といった、欲望の自由な表現を抑える思想とは、鮮やかな対照をなした。遊女を中心とする遊里の商い、歌舞伎に代表される芸能、浮世絵に代表される美術は、都市の庶民の暮らしを豊かに描くことで、伝統的な武士文化が雅俗や美醜を分け、優劣をつけてきた、その境界を取り払っていった。そして知らず知らずのうちに、権力によらない新たな道徳観を打ち立てたのである。「士農工商」の序列を揺るぎないものとする当時の社会にあって、これは間違いなく、「平等」と「包容」を求める革命的な訴えだった。
こうした見方で東方の物語をあらためてたどると、欲望にあふれ、暮らしの息吹が感じられる市井の生活が、作品のあちこちにさりげなく散りばめられていることに気づく。東方の世界について、神主は貨幣や社会経済制度の詳しい設定を明示してはいない。それでも、お金が物語のなかで重要な位置を占めることは疑いようがない。博麗神社の貧乏ぶりは二次創作者たちのあいだで広く共有されているだけでなく、公式作品でもたびたび描かれている。河童も昔から商売上手だ。地獄にさえ、中有の道の店という大切な収入源の一つがある。東方における金や商売は、表面上の意味にとどまらず、もっと広く、現実の暮らしを認める姿勢の表れなのかもしれない。少女たちの職業は商人ではないが、いつでもどこかで開かれている祭りから、信仰をめぐる激しい争奪まで、その姿にはすでに商人らしさがかなり備わっている。
お金という概念はつねに消費と結びつき、消費はつねに欲望に駆り立てられて行われる。だがその欲望も、結局は心身の喜びと成長を求めるものだ。神主は妹紅への投票コメントで、人間であるためには、自分を人間だと思うことが何より重要だと述べている。妹紅はもはや普通の人間と同列には語れない存在だが、「死」への深い執着があるからこそ、人間としての欲望を保っている。
それと鮮明な対照をなすのが、京都に象徴される「純潔」と、月の都に象徴される「永遠」に対する神主の否定的な姿勢だ。すべてを捨てた京都は、過去の面影をどれほど熱心に探しても、「退屈」という悩みを深めるばかりである。反対に伝統に固執し、あらゆる「穢れ」を断った暮らしを続ければ、果てしない時間のなかですべての欲望がすり減っていく。本当の永遠を迎えられるのは、欲望のない存在だけだ。『儚月抄』では、月の民でさえ、精神を充実させておくことを重要な課題とせざるをえない。
霊夢は妖怪巫女と呼ばれることがあっても、庶民らしさを色濃く残しているからこそ、まぎれもない人間であり続けている。「五欲の巫女」という呼び名も、別の角度からそれを裏づけている。少女たちはお金に執着するが、お金に惑わされることはなく、足りないからといって困窮することもない。だからこそ、金銭社会の負の側面に蝕まれずに済むのだ。ある意味では、これも神主から「町人」の少女たちへ贈られた、すてきな祝福なのだろう。
『卯酉東海道』で蓮子が語る東京は、物質的な面で京都を上回っているわけではない。「日本の精神」という点で、自らの姿勢を貫いているのだ。伝統的な形式からは遠く離れていても、大型のショッピングモール、好きなだけ使える遊具、斬新な服を着た人々のほうが、「密室」にこもる新茶道しか残らない京都より、江戸の血が受け継がれていると感じさせる。私たちの現実では、京都こそが日本の伝統的な精神を代表し、東京はむしろ、さまざまな問題を抱えた日本の現代社会を象徴する都市と見なされてきた。だが京都を一つの都市としてではなく、伝統の精神を象徴するものとして捉えれば、収録曲「レトロスペクティブ京都」も理解しやすくなる。二人が回想しているのは、歴史上の都市としての「京都」ではない。まさにこれから向かおうとしている、なおもたくましい生命力を持つ東京なのだ。
さらに根本から考えてみれば、暮らしを楽しもうとする欲望も、「消費」を通じて互いに結ばれる関係も、変わり続ける世界のなかで伝統をどう捉えるかという問いも、すべて、強くはっきりとした生きる意志の表れだと分かる。その意志は、厳しい環境でも希望を捨てずに生き抜こうとすることだけを意味しない。俗世を離れ、自分だけの世界に閉じこもって、どうにか生き延びることでもない。「生」があるからこそ、積極的に何かを生み出し、楽しもうとする。その営みにこそ、この前向きな意志は表れる。満ち足りていないからこそ、新しいものが生まれる可能性がある。妖怪たちが起こす異変も、妖精たちが日々繰り返す悪戯も、人間の里や幻想郷そのものをめぐる争いも、みなそうだ。だから、こうした出来事では、参加した者も「厄介事」を起こした者も、実はずいぶん楽しんでいる。事件が解決したあとの宴会で、みんなが心ゆくまで酒を飲むのも、その証しである。
それを実現するために、もう一つ欠かせないのが「包容」だ。ただし、これは何の線引きもなく、すべてを丸ごと受け入れるということではない。町人たちが作り出した文化には、華やかな文化の至宝がある一方で、俗っぽく底の浅い肉欲の楽しみも満ちている。だが両者はもともと表裏一体で、自然に溶け合っており、切り離せない。現実を受け入れ、作品のなかでもためらわずに現実を描く。作り手にも自分の価値観や態度はあるが、その現実を「彼ら」のものと「私たち」のものに分け隔てはしない。だからこそ、多彩な色使いと表現によって、さまざまなものが入り交じる現実を描けるのだ。
幻想郷がすべてを受け入れるというのも、先に述べた外来者への包容だけにはとどまらない。どのような少女でも、ここには居場所を見つけられる。作り手である神主の側から見れば、新たな少女が加わることも、ファンによる二次創作も、少女たちに新たな性格を与え続け、幻想郷の新しい姿を形作り続ける営みである。このように異なるものをともに包み込む力こそ、東方が大きな輝きを放つ重要な要因なのかもしれない。
反対に、秘封の二人の世界では、「異端」を排除することが、自らを閉ざすことにつながっている。『大空魔術』に描かれるように、その世界には、もはや未解決の問題は存在しない。死火山となった富士山と同じだ。永遠に残る文化遺産にはなっても、新しい精神を生み出すことは、もうできないのである。
三、浮世絵、歌川広重と葛飾北斎
『卯酉東海道』で、メリーと蓮子がもう一つ話題にするのが、風景としてのカレイドスクリーンだ。作り手たちは、おそらく自分たちの「日本の精神」を際立たせるために、浮世絵を制作のモデルに選んだのだろう。だが、あの時代に改めて装いを変えられた浮世絵は、生まれた当時と同じ意味を持ってはいない。ある角度から見れば、確かにメリーの感じるように、目を刺激するだけの退屈な映像でしかないのだ。
町人文化を視覚芸術として体現する浮世絵は、文字以上に、あの色鮮やかな時代をじかに感じさせてくれる。「浮世」が「当世風、今の世」を意味するように、町の姿や、人々の暮らしににじむ感情と欲望は、浮世絵の変わらぬ中心にある。

初期の浮世絵は、日本の伝統的な大和絵から生まれた。彩色技術が進み、木版印刷も仏教のためだけの用途を離れるにつれ、浮世絵はようやく独立した芸術形式となった。その過程で最も際立った絵師が、後世「浮世絵の祖」とも称えられる菱川師宣である8。挿絵を得意とした彼は、作品における絵の比重を次第に文章よりも高めていき、ついには独立した「一枚絵」の風俗画まで生み出した。木版画を主とするこうした作品が、形式のうえで「浮世絵」の誕生を告げたのだ。また、彼が遊女を題材に数多く手がけた美人画も、後世の浮世絵にとって重要な分野となった。

浮世絵の発展が中期に入ると、彩色や用紙、制作技術が大きく進歩した。奥村政信や歌川豊春らは、西洋画の透視図法を浮世絵に取り入れ、奥行きや空間の質感を豊かに表せるようにした。鈴木春信らが生み出した東錦絵は、鮮やかで豊かな色彩から、錦のように華やかな写真とまでたたえられる。俳人たちのあいだで絵暦の交換が流行し、歌舞伎も隆盛を迎えると、浮世絵の市場も大きく広がった。経済の発展に加え、原画を描く絵師(版下絵師)、版木を彫る彫師、紙に摺る摺師という専門的な分業体制が生まれたことで、費用を抑え、生産量を増やすことも可能になった。こうした新技術の登場と活用によって、浮世絵は急速な発展の道を歩み始めた。

この時期には、従来の美人画も大きく変わった。場面を描く技術が高まったことで、画中の「美人」たちにも、より写実的な趣が生まれた。鳥居清長や北尾重政の描く女性には既婚者も多いが、優美な姿態と飾り気のない感情の表れが、健やかで自然な美しさを示している。喜多川歌麿や東洲斎写楽らが、遊女や歌舞伎役者を題材に制作した肖像画は、後世の浮世絵師たちの創作に、とりわけ深い影響を与えた。

左:鳥居清長《濱屋 川岸の涼み》(18世紀)。右:喜多川歌麿《寛政三美人》(18世紀)。
やがて、人物だけを描く作品は、浮世絵の作風を主導する存在ではなくなっていく。代わって、山水や都市の人々の暮らしを主題とする名所絵が盛んになり、葛飾北斎の『富嶽三十六景』と歌川広重の『東海道五十三次』は、日本の顔ともいえる代表作になった。こうした作品は、写実だけに縛られてはいない。絵師たちは美しい風景をただ見せるのではなく、むしろ風景に自分の情感を託した。風景を通して内面を表す、いわば「印象」による創作だったのである。二人とも、構図や色使いによって豊かな意味を表すことに力を注ぎ、風俗や暮らしの楽しさを描くだけにはとどまらなかった。だからこそ、これほど大きな芸術的成果を上げることができたのだ。この創作方法は、後の西洋の「印象主義」にとっても重要な着想源となった。

左:クロード・モネ(Claude Monet)《Le Bassin aux nymphéas/睡蓮の池》(1899年)。右:歌川広重《亀戸天神境内》(1856年)。

左:クロード・モネ(Claude Monet)《La Japonaise/ラ・ジャポネーズ(着物姿のカミーユ)》(19世紀)。右:菱川師宣《見返り美人図》(17世紀)。
この二組の比較に見る、モネによる浮世絵の模倣。
黒船の来航から明治維新へと時代が進むにつれ、文明開化や西洋の写真技術の普及に押され、浮世絵は次第に大衆の市場から退いていった。主題も、時事を扱う「新聞絵」や「開化絵」へと移り、作品数は減り、芸術的な質も落ちて、かつての水準には及ばなくなった。その後、浮世絵は独立した芸術表現としては歴史の舞台から姿を消した。だが、その表現の要素と、そこに記録された「日本の精神」は、絶えることなく受け継がれていった。

特定の時代に生まれたものではあるが、浮世絵は、日本の伝統的な精神を視覚芸術として記録し、映し出す最良の表現となった。その芸術的な特徴として、とくに目立つのが「線」と「色」だ。浮世絵の構図は、たいてい対称性を重視しない。そのため画面には不均衡な感じが生じるが、かえって一瞬を捉えた感覚が強まり、動きが生まれる。そこに描かれる人や物も、色の面ではなく滑らかな線で形を取ることで、優美な姿を見せると同時に、画面の動きを強めている。それはある意味で、絵師が画面の外に身を置いているのではなく、描かれた風景と一体になっていることの表れでもある9。
「色」に目を向けると、浮世絵に最もよく登場するのは、白、赤、青といった純色だ。こうした平塗りの様式は、画面を簡潔にするとともに、風物や人物が絵師や見る者に与える「印象」を強めている。とりわけ、プルシアンブルーが広く使われるようになったことで、そこに込められる情感はいっそう多層的で深いものになった10。この感情表現には、本居宣長の説いた「もののあはれ」の精神がしみ込んでいる。それは、「好色文学」が感情の表現を促したこととも通じ合う。「もののあはれ」は、何よりも風物や人情の変化によって心が動かされることを指すのであって、命の無常を嘆いたり、美しいものの儚さを悲しんだりすることに限らない。命が芽生える喜びも、打ち寄せる大波の力に心が共鳴することも、そのなかに含まれている11。浮世絵が描かれた対象そのものを超え、美的な表現を通して伝統的な日本の姿を形作れたのも、ここに理由がある。
この視点から葛飾北斎と歌川広重の絵を見ると、角度は違っていても、どちらにも日本らしい風情が色濃く表れていることに気づく。『卯酉東海道』のブックレットでも、誰の絵こそが「日本らしい風情」を代表してカレイドスクリーンに映されるべきかを、メリーと蓮子は少し話し合っている。未来の人々が広重を選んだのは、北斎の「狂気」をもう受け入れられなくなったからだ。北斎は確かによく「狂人」を自称したが、その作品は、いまのブラックメタルのように受け入れがたいものではない。そう考えると、この選択が意味するものは、それほど単純ではなさそうだ。
庶民の家庭に生まれた北斎は、その絵と同じように、波瀾に富んだ一生を送った。人生においても、芸術の道においても、彼はつねにさまざまな不幸に見舞われた。若いころは弟子として苦労して学び、落ち着く先のない暮らしを送り、中年には大火に遭って、何十年も蓄えた下絵や制作資料を大量に失った。晩年こそ穏やかに過ごしたかったのに、不肖の子孫が財産を使い果たし、生計を立てるために制作を続けざるをえなかった。それでも、芸術への情熱と探究心を捨てることはなかった。晩年、北斎は『富嶽百景』の跋で、自らの画業を振り返っている。その思いを要約すれば、こうなる。
70歳以前の絵は、取り上げるにも値しない。なお精進を重ね、100歳になってようやく優れたものを描けるのだ、と。
このように苦労と悔いに満ちた暮らしのなかでも、北斎の絵はあれほどの生気と力にあふれている。『富嶽三十六景』では、富士山そのものにも、その周りで暮らす人々にも、それぞれの個性と暮らしの息遣いが与えられている。その絵は動きに満ちている。この力が偉大なのは、自然の力の不思議さを示すからだけではない。北斎が精神のうえで、暮らしの苦難を乗り越えているからでもある。最も代表的なこれらの絵は、まさに彼の人生がどん底にあったときに描かれたのだ。希望があったからこそ、命の終わりにあっても、真の絵師になるために、もう少し時間がほしいと願っていた。希望を持ち続けること、苦しみに打ち勝つ楽観の精神が、その作品を芸術としてさらに高めたのである。

それに対して、歌川広重は矛盾と葛藤のなかで一生を過ごした。下級武士の家に生まれた彼は、社会のなかで微妙な位置にいた。名目上は支配階層の一員であり、社会の上層に属していたが、実際には幕府の財政難と、武士のなかでも弱い立場にあったことから、裕福な暮らしとは無縁だった。やはり浮世絵を描いて家計を補わなければならなかったのである。考え方のうえでは、町人たちの自由で開かれた暮らしを肯定していたものの、支配階層の一員である以上、それを表現するには多くの制約があった。そのため北斎と比べると、広重の作品はつねに抑制が利き、多くを語らない。『東海道五十三次』のように旅の風景を描くことが多く、見る者の郷愁を誘うため、「郷愁の広重」ともよく呼ばれる。その絵には、自然や風月を惜しむ心がしばしばにじんでいる。北斎の絵が強い力を感じさせるのとは違い、広重の絵はつねに静かだ。だがそこに登場する人や物のあいだには、精神的なつながりがいっそう感じられる。それは日本の伝統的な「アニミズム」とよく響き合う。『名所江戸百景』では近景を重視した描写が多く、見る者はその場にいるかのように感じられる。それによって、画面が情感を伝える力も強まっている。

では、蓮子とメリーの時代に目を戻そう。人々は結局、広重を選んだ。富士山がついに世界遺産になったのと同じだ。その時代の人々は精神的に「成熟」し、もはや先へ進もうとはしなくなったからこそ、そう選んだのである。変化し続ける自然界に代わって、永遠に朽ちない鉄筋コンクリートが人々の記憶のなかの新しい「自然」となったことにも、同じ姿勢が表れている。究極の物理学上の問題も解決され、答えの分からない問題をどう解くか、もう探る必要はない。文化や伝統の精神といった形而上的なものさえ、人々にとっては懐かしんだり、飾りにしたりする価値しかない。北斎の絵の活力は、そんな時代の人々には重すぎるのだろう。だから、広重の絵にある「郷愁」や「懐かしさ」だけが、「永遠」にしがみつく営みのなかにも居場所を得られる。これが「レトロスペクティブ京都」という曲名の、もう一つの意味なのかもしれない。
だが、こうして永遠にしがみつこうとするのは、どう考えても自分を欺くことではないか。富士山が本当の意味で死んだのは、死火山になった瞬間ではなく、世界遺産に認定された瞬間だったのだ。懐かしむ必要があるのは、人々の日々の暮らしのなかに、もう存在しなくなった精神だけだ。だから、どれほど「日本的」な風景も、第三者であるメリーにとっては、目を刺激するだけの退屈な映像でしかない。広重の絵にある情感は、作り手と見る者がその風景から実際に感じ取ったものに由来する。すなわち、創作と鑑賞の過程で「もののあはれ」が働くことによって生まれるのだ。偽物の風景を使って、本物の「日本の精神」を喧伝する。まったく、絶妙な皮肉ではないか。
神主はあとがきで、今回の物語は『夢違科学世紀』での現実と幻想をめぐる問いを引き継いでいると述べている。作品が発表された当時、こうした話の多くはただの空想だった。だがVRやARといった技術が実用化された今日、そこで描かれた光景は、きわめて現実的なものになっている。さまざまな技術の登場によって、仮想が現実に取って代わる事態を想像できるようになっただけではない。文学や視覚芸術の分野でも、デジタル技術を大きな特徴とする「サイバーパンク」の世界観が広まり、人気の題材になっている。そのような世界では、そびえるビルやまばゆいネオンが、人々の視覚を圧倒的に支配する。そこで「現実と幻想」をめぐって問われるのは、そうした環境に置かれた人々が、本来の自然を感じ取る力を取り戻せなくなっているという問題なのだ。
『卯酉東海道』では、神主は「仮想」の世界がさまざまな情報によって組み立てられたものだとは明言していない。だが後の『燕石博物誌』などでは、情報崇拝という問題がはっきりと提示されている。情報への過度な依存と、さまざまな情報が組み上げる世界こそが、未来において人間を仮想の存在に変えてしまう最大の原因なのだ。
先に触れたように、日本の精神の核の一つには、もののあはれがある。現実の事物に人の心が共鳴してこそ、本当の感情が呼び起こされる。映像だけを相手にしているなら、人々が抱く感情は、すべて巧みに設計され、誘導されたものだ。とりわけ、マーケティングに満ちたこの社会では、大衆の感情も思考も、ことごとく天才的な芸術家や宣伝家に利用されている。人間の本質は、本当にヴァーチャルなのだろうか? 人間の本質がヴァーチャルだという見方も、情報に頼りすぎるこの社会への皮肉にすぎないのかもしれない。
もちろん、神主はここで復古を唱えたいわけではない。人類の文明が今日まで歩んでこられたのも、情報を絶えず生み出し、活用して、危険に備える仕組みを築いてきたからだ。だが道具的理性の弊害が示すように、道具そのものが思考の内容になったとき、現実と幻想は本当に一つになってしまう。両者を区別することには、もはや何の意味もなくなるからだ。
この問題はどうすれば解決できるのだろう? 神主は物語のなかで明確には説明していない。メリーと蓮子にとっては、それこそが自分たちの生きる現実だ。そこから別の出口を探さなければと感じても、思考や視点の制約がある以上、簡単にはできない。物語の外にいる私たちこそ、この問題を積極的に考え、すでに兆しの見え始めている悲しい未来を避けるべきではないだろうか。
どれほど美しいスクリーンの風景も、本当の空の色に代わることはできない。どんなに美しい幻想にも、現実の陽光が差し込む必要がある。人間の本質は、まぎれもなくリアルなのだ。信仰で置き換える必要も、情報で埋め合わせる必要もない。大切なのは、現実を見つめ、それを感じ取る目と心を、どう取り戻すかである。ここまで見てきたように、神主は、このような社会にも、旺盛な生命力が絶えず生まれることを望んでいるように思える。その生命力こそが、いまの行き詰まりを打ち破る鍵だ。生命力は欲望を象徴し、希望をも象徴するからだ。新しい可能性は、まさにその生命力のなかからしか生まれない。情報の組み上げた世界に溺れてしまえば、生命は永遠に一歩も前へ進めず、世界全体もまた、終わりを迎えたまま永遠に閉ざされてしまう。
突き詰めれば、東方の世界も、無数にある仮想世界の一つにすぎない。この物語に私たちが見いだした現実の手触りも、こちらの一方的な思い込みなのかもしれない。作品という形を越えてこそ、美しさと、そこに込められた思いに本当にたどり着けるのだ。東方の物語から得た希望と力を携えて、この世界を確かに感じ、自らの命をそこに溶け込ませ、さらに多くの活力を生み出していく。そうなれば、神主にとっても何より報われることなのかもしれない。