本動画は、アニメーション史と知覚現象学の両面から、二次元アニメーションにおいて眉や目を髪越しに見せる処理と、髪に隠す処理を取り上げ、それぞれがもたらす視覚効果の諸相を考証する。この問題にまとまったかたちで焦点を当てたものとしては、中国語圏でも比較的早い時期の映像論考にあたる。屋頂現視研「拾荒戦略 Rags Drum 2022」前夜祭入選作。
全文書き起こし
以下のタイムスタンプは、動画に設定された六つのチャプター区分に従う。
00:00――「知覚」の問題
00:00。 「アニメーションは線の芸術である」という見方は、かなり広く受け入れられている。作画段階では、影指定のある部分を除けば、線と線のあいだは余白である。この時点なら、アニメーションを純粋に線だけからなる知覚として理解することも、むろん可能だ。だが完成映像では、線のあいだの空白がそのまま残ることはほとんどない。空白は固有の質をもつ色面で満たされ、「間」となる。したがって観客が直面するのは線の知覚だけではない。塗りの知覚、すなわち充填された色面と線との関係、「層」と「間」の関係も問題になる。
00:38。 線が白地の上の黒い切り傷として存在するとき、連続する無数の点を、ある知覚的形象をなす輪郭としていかに捉えるのか。それを理解するには、観客自身のうちにある前客観的(préobjectif)領野を探らなければならない。これは、カメラによって撮影され「ミイラ化」した映画、記憶を呼び起こすかのような被写体=映像の精神的同一性とは異なる。現実の映像をほとんど編集素材とせずに制作されたアニメーションを見るとき、私たちの知覚は、背景層の上に浮かび、あるいは層のあいだに挟まれたセル上の線や色面を、現実の被写体の一次抽象として実在の被写体へ還元しようとはしない。むしろ、二次抽象としての輪郭とその内容を、一次抽象を文法とする記述として直観する。それは、ゲシュタルト崩壊とは逆の方向に築かれる知覚のゲシュタルトである。
01:40。 『知覚の現象学』における、最も古典的で簡明な基礎的直観の記述は、私たちがアニメーションをどう見るかを理解する助けにもなる。一様な青い地の上に白い斑点があるとしよう。それを形づくる、知覚上は無限小で連続した点のすべてが、斑点を一つの「図」にする共通の機能をもつ。「図」の色は「地」の色よりも密で、いわば抵抗が強い。白い縁は白斑に属し、隣り合う地とは無関係である。白斑は地の上に置かれているように見えるが、地を断ち切ってはいない。地はその下で自然に広がり続ける。どの部分も、自らがもつ以上のものを示す。私たちのまなざしは、この白斑のうちへ消えていく。言い換えれば、私たちはそこに光の焦点を当てる。主体は白斑を、焦点の合った対象、下層の地ではなく上層の図として認定する。
02:39。 では、観客が見つめるアニメーションにおいて、まなざしはどこへ消えるのか。線で描かれた原画の一枚こそがまなざしの終点だと考えるなら、「輪郭」と、その輪郭が囲む閉じた図形の知覚しか得られまい。注目すべき対象は、むしろ最終的な完成映像、実際に観客の前へ現れる映像から出発して考える必要がある。線の質も、色面の質も、さらに両者のあいだの階層関係も見なければならない。商業アニメーションに無数に存在する多種多様な「眉・目―髪」の処理は、まさにその階層関係を伝える手段の一つである。ここから、アニメーションにおける眉・目の処理を大まかに分類し、説明していこう。
03:24――作画処理の複雑さ
03:24。 眉や目をどう扱うかは、通常、キャラクターデザイナーが大枠を定める。ただし各話の作画監督や演出が調整することもある。設定画で眉や目を髪に透かさない人物だからといって、作品全編を通じてつねに非透過になるとはかぎらない。逆に、透過させるカットが中心の人物でも、感情を伝えるために非透過で演出されることがある。一話を作るうえで演出が考慮すべき要素の一つである。同じ作品、同じ世界観に属する複数の人物のあいだで、処理が異なっていてもよい。
04:03。 典型的な例が『邪神ちゃんドロップキックX』にある。メデューサの眉・目には透過処理が使われる。一方、主人公の花園ゆりねはぱっつん前髪という設定上、眉を髪の下へ置く必要があり、非透過処理となる。初音ミクのデザインは再び透過処理である。とはいえ、多くの作品では一話約二十分の大部分を通じて、同じ人物の処理は一貫している。登場人物の大半に適用される方針も、おおむね共通する。
04:42――非透過処理の登場と文脈
04:42。 まず導入として、田中将賀の秩父三部作――『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』『心が叫びたがってるんだ。』『空の青さを知る人よ』――に、『ダーリン・イン・ザ・フランキス』、そして『君の名は。』から『すずめの戸締まり』へ至る作品群を加えて考えたい。さらに、田中将賀と高雄統子による「キャラクターデザイン―演出」の体系から影響を受け、『ワンダーエッグ・プライオリティ』と『無職転生』でキャラクターデザインを手がけた高橋沙妃、杉山和隆の二人も挙げられる。目元に共通するのは、眉を髪越しに透かさない非透過処理である。
日本のアニメーションで眉・目を非透過にする最初の発想は、素朴な自然主義的リアリズムにもとづいていた。高畑勲と大塚康生の系譜、そして一九六八年の『太陽の王子 ホルスの大冒険』は、この比較的早い自然主義的リアリズムの文脈における発端近くに位置する。他方、透過処理が本格的に登場したのは一九八〇年代であり、技術のほうが先行していた。トレスマシンや原画スキャンによって原画をセルへ直接複写・転写し、あるいは後のコンピューターへ取り込んでから彩色する工程である。
05:47。 二十一世紀の第二の十年、一一年の『あの花』から二一年の『ワンダーエッグ・プライオリティ』『無職転生』へ至る幅のなかで、非透過処理は、田中宏紀の影響下で次第に平面化――より正確には「層」化――していく作画傾向に、別のリアリズムの文脈を接続する役割を担う。全体が平面化していく傾向のもとで、非透過処理そのものが「層」の性格を帯びる。人物の顔は、髪と、その下にある眉・目の層へ分割される。眉・目の層は表面から退き、より深く、抑制された場所、擬似的な眼窩へ戻る。各層と層間関係への注目は、色彩の質、すなわち色指定と撮影の存在を自然に際立たせる。
デジタル時代の撮影は、アニメーションの同時代性が最も鮮明に現れる工程だと言える。映像制作の最後に、一揆めいた編集によって視覚経験のすべてを作り直す。この状況における非透過処理の回帰は、かつて透過処理が担った視覚的演出機能の再配分とともに起きている。唇やほかの顔器官が立体化され、分節される一方で、デジタル工程の色彩設計と撮影が、より多くの演出可能性と代替手段を提供する。それらが、かつて一つの処理だけに託されていた機能を置き換えるのである。
07:14。 田中将賀の選択へ戻ろう。眉を髪越しに見せない配置は、画面の濃密さを増す。密度は、層の分割によって現れる。髪は重く、それでいて柔らかく眉にかかる。髪の量感と重みは青春の代名詞として繰り返し強調され、非透過の髪の下で見え隠れする眉が主役となる。そこに演出されるのは、成熟しつつある第二次性徴の気配、青春の身体を知覚する経験である。
身体的経験は、田中将賀の非透過処理が、旧東映初期の自然主義的リアリズムや、八、九〇年代のリアリズム運動をそのまま継承したものではないと直観的に教える。これは精密な写実ではなく、「層累する注意力」である。視野のなかの何かをはっきり見るためには、別の何かを括弧に入れ、地の位置へ押しやるか、別の層へ置かなければならない。高度に「層」化した今日の美少女アニメーションにおける非透過処理の緊張は、ここに現れる。髪は上層にありながら、私たちの焦点は、視覚の消失点をその下の眉と目へいっそう強く投射する。
08:34。 目、および目に類するものへ注意を向けることは、多くの人がほとんど生理的に備える傾向である。とりわけ一九八〇年代半ば以降の美少女アニメーションを見る教養をもつ者なら、「演じる者はある方向を見ているのに、本人の知らぬところで観客と目を合わせている」という「視線」を自然に感じ取るだろう。この志向性には、舞台という比喩がよく似合う。眉と目は舞台上の俳優であり、前髪と生え際は、そのあいだを俳優が行き来する小道具、書き割り、幕となる。そして何よりも、私たちのまなざしは観客であると同時に追いスポットとなり、投射された視覚の光を舞台中央へ集める。
09:20――透過処理の登場
09:20。 非透過処理が自然主義的な写実志向のもとで発見され、登場したのだとすれば、透過処理はどう考えるべきか。まず退けなければならないのは、知覚から神秘を取り除き、性質の所有へ還元する一種の経験主義である。この立場はこう考える。一九六八年の『ホルス』と、それに続く約二十年の非透過処理が写実寄りの選択だったなら、八、九〇年代に人為的に選ばれた透過への転換は、現実の身体をほとんど比喩しない感性だった、と。
この見方がしばしば見落とすのは、現実の身体において、髪が眉や目を、物体が別の物体を隙間なく覆うように遮蔽することはめったにないという点である。髪が濃くても、私たちはその下に眉や目を見つけ、焦点を合わせられる。その意味では、透過処理こそ身体の情動を表現する方法である可能性がある。細やかで、いくらか透ける質感をもつ髪への探究もまた、現実の身体を喩える戦略になりうる。
10:38。 透過処理を呼び起こす身体的経験を踏まえたうえで、「知覚がふたたび問題となった」現在、感情イメージの基底としての透過処理をどう理解すればよいのか。他人の顔、あるいは自分の顔を観察すると、実際の眉とまつげは、髪ではなくほかの顔器官と同じ画面上の層にあるものとして理解できる。まなざしを集中させるときも、眉と目を一つの層としてまとめる傾向がある。すると髪は、キャラクターより手前へ置く伝統的な撮影素材「BOOK」のように、前景化した地となる。
一九八〇年代半ばから後半、OVAとテレビ市場の拡大にともなって美少女アニメーションの種類も本数も多様化すると、技術と内容の双方の条件から、眉・目の処理は透過へ方向を転じた。誇張された髪型が眉や目を隠せば、人が最も視線を合わせやすい顔の表情中枢が遮られ、下層の陰影へ埋め込まれる。髪型や装飾が、顔の「語る」器官から主要な焦点を奪い、それを背景へ押しやることもある。透過処理は顔全体を統合し、焦点の合った眉と目を、突き出た髪と同じ層へ置いて十分に露出させる。観客の知覚においては、目で語ることが依然として舞台の主役であり、見せ物的な髪飾りは同じ層の縁を彩る装飾、あるいは演者の扮装となる。顔と装飾が同一の知覚層にあれば、焦点の選択肢は髪から顔器官へ、より滑らかに移動できる。
12:40。 比較的早い時期の、影響力ある例をいくつか挙げよう。土器手司がキャラクターデザインと作画監督を務め、透過処理を用いたテレビ版『ダーティペア』。毛利和昭によるOVA『DREAM HUNTER 麗夢』。高田明美がキャラクターデザインを手がけ、やはり透過処理を用いたテレビ版『きまぐれオレンジ☆ロード』。そしていのまたむつみがキャラクターデザインと作画監督を担い、非透過処理を選んだOVA『幻夢戦記レダ』である。最後の二作は同じようなビキニアーマーを扱い、時代も近いが、眉・目と髪の処理の違いによって、鑑賞経験には小さくない差が生まれる。
13:29――透過処理の形態学的分類
13:29。 透過処理が与える知覚は、一種類、あるいは数種類に尽きるわけではない。まず形態の面から大まかに分類できる。ただし分類は、作画指示に「眉透け」と書かれているかどうかだけで行うべきではない。基準となるのは、仕上げと撮影を経て輪郭内の色面の質が処理された完成映像、そしてその映像に対する直観的な知覚である。
13:49。 よく見られる第一の方法は、ゲームの立ち絵が通常イラストを基礎にすることと関係している。『ToHeart』のように美少女ゲームの延長線上にある作品では、眉をより濃い色、しばしば髪の影色、あるいはさらに濃い二号影で塗る。一方、線画として描かれた眉と髪の実線の縁は互いを遮らず、どちらも完全なまま顔に現れる。眉と髪の並置である。眉の直観的な奥行きは、色の濃度へ託される。線と髪が同一の層にあっても、眉の色面を濃くして前へ出すことで、見かけ上の下方への移動が完成する。
ここで、まつげの描写に注目したい。白目と肌の境界が、周囲の色に溶け込む色トレス線で処理されているため、まつげは目の外輪郭となり、目と肌と髪の境界を成立させる。これは美少女アニメーションの大半におおむね当てはまる。髪は肌の表面を横切り、肌に陰翳を落とすが、目によって厳しく遮られる。目は隠されない焦点であり続ける。
15:07。 第二の方法は、『少女革命ウテナ』で一貫して採用されている。眉も髪と均質な一部分として扱う方法である。本当に観察すべきは、髪が虹彩の上へ入り込む部分の描写だ。完全透過の原則に従い、虹彩へ重なった髪の部分には虹彩の色が与えられる。白目は完全に覆われる一方、上下のまつげは縁として明瞭に現れ、髪には遮られない。髪は瞳の外側を流れていく。瞳、そしてそこに宿るまなざしは、この瞬間、光を帯び、遮りえないものに見える。
以上の二つのうち、第一の方法は髪を目の外側へ厳密に制限する。第二の方法では、観客の知覚が髪と眉を同じ質感の器官として扱う。両者を組み合わせる方向が、今日の透過処理で最もよく選ばれる。髪に目の「語り」を妨げさせない。『ウテナ』の作画のように髪の実線を目へ入れることはせず、同時に、眉・目―髪の関係には一揆的な処理を残す。二十一世紀の瞳が髪の干渉を許さなくなった大きな理由は、キャラクター設定の精度と情報密度の上昇、なかでも瞳の色分けと作画用の色線が急増したことにある。
16:38。 第三の方法は、色トレス線を用いて半透過の遮蔽透過性を模擬する発想である。『あさがおと加瀬さん。』では、髪の内側にある眉を全面的に色トレス線で描く。この部分には、髪に覆われていない部分と違って実線がない。髪の下の眉は、髪の一号影より少し濃いが、眉が遮られていないときの本来の色よりは薄い。そのため、まなざしと顔に焦点を置く観客にとって、眉はつねに半ば現れた状態にある。完全に隠されてもいなければ、表層へ実線として明確に露出してもいない。
『ぶらどらぶ』の眉・目処理は、髪が目の一部を隠すことを許容し、眉と髪を一体として扱う。目は不透明な髪の下層に置かれる。これは顔を遠近法的に捉える発想、すなわち眼窩の奥行きを知覚させ、人の顔の湾曲を平面アニメーションへ表す発想である。
17:47――演出の思想実験
17:47。 最後に、『キャシャーン Sins』第四話のいくつかのカットを、透過処理の知覚を考えるための優れた思想実験として挙げたい。この話数のBパートでは、作画修正の大半を馬越嘉彦が一人で手がけた。それでも非透過処理と透過処理が交互に現れる。ある場面は厳密に透過、別の場面は非透過、といった固定的な演出設定があるわけではない。最小単位は一つのカットであり、さらに一つの連続カットの内部でも、動きによって処理を調整し、変化させることができる。
18:21。 眉や目が見えるかどうかは、遠くから、あるいはごく間近で人物と視線を交わす経験であるだけではない。感情イメージの方向が滑動することでもある。そこで、もう一つ思想実験を行ってみよう。同じカットについて、眉・目を透過させた版と非透過にした版を作り、それぞれを元の映像へ戻してつないでみる。そうして生まれた映像を経験することで、眉・目処理の多様な選択の背後にある本当の要点を会得できるだろう。すなわち、いたるところで知覚の光を導くことなのである。